今日は、弟の義母が87歳の生涯を閉じその葬儀に行ってきました。
去る13日午後1時40分頃、弟から電話で、「老人ホームで急に呼吸困難になり現在、心肺蘇生術をやっているが、駄目かも知れない」
との電話があり、心配していたが、午後2時20分再度電話あり「午後1時48分亡くなった」。そして、17日(土)通夜、18日(日)告別式でした。
平成5年頃から、認知症となり、老人ホームに入所することすでに14年が経過、大分前から状態が悪く、誰が言っても分からず口もきけない状態であった、といいいます。
弟は、3ヶ月前、実母(私の母でもあります)に死別、今度は義母に死別と不幸が続きました。
この弟のことは、私のもう一つのブログ「とうさんのパソコンライフ」(2005年1月30日の「命の砂時計」と2005年2月9日の「自分史」)に書いてありますが、現在、船橋市消防局北消防署長です。現役のため、船橋市長、船橋消防局長を始め沢山のかたがたから生花を頂戴し、凡そ300人にも及ぶ先輩同僚からご焼香をいただきました。
(2005年1月30日付けの「命の砂時計」では弟が当時救急課長時代に「心肺蘇生術」の講習会をひらいた記事が新聞に載ったことを書いてあります)
次は、大多喜病院に入院中の私の家内の母親の番か?
家内の母親も7年くらい前から脳梗塞のため施設と病院を転々としていますが、最近は胃に穴をあけて、直接栄養剤を注入しています。意識もはっきりせず私達が行っても殆ど話しも出来ず眠り続けています。
写真は、葬儀が行われた船橋市の「馬込斎場」の中庭です。
嫌な季節の到来です。同病の方にとっては、こんな写真見たくもありませんでしょう。
今、考えると、もう40年くらい前からですね。2月3月になると、くしゃみ、鼻水、鼻ずまりで悩まされました。「花粉症」という名前がついたのはいつ頃からでしょう?
最近は2月3月だけでなく、4月に入っても続きます。そして、5月の連休に入る頃になってやっと終わります。この3ヶ月間、大変な苦労です。特に勝負事には集中力に欠けます。
今日もグラウンドゴルフに出かけましたが、くしゃみ、鼻水が激しく、さぞパートナーにとっては迷惑だったことだと思います。他にも2~3人花粉症の人が居られるようですが、私の症状が一番ひどいようでした。
グラウンドゴルフは、今、年間賞(ホールインワン数、平均打数)をかけて熾烈な追い込みにかかっているというのに、これは大変なハンディを抱えることになりました。
一昨日、毎年のことですが、所得税の確定申告のため、千葉南税務署へ行ってきました。この写真はピンボケですが「申告書作成会場入り口」という看板がかかっている仮設の建物です。左奥が税務署本体です。
外房線蘇我駅から鎌取に向かってすぐ踏み切りの右側に見えます。電車で行くと、自宅から鎌取駅まで約15分歩き、たった一駅先の蘇我駅からまた約15分歩きで極めて不便なため、最近は補助電動付きの自転車で往復します。片道約20分かかります。
現役中は数回を除いて、殆どが年末調整で済んでいましたが、退職後は毎年確定申告に行っています。
何しろ控除対象になる医療費が毎年多いためと、引越し前に住んでいたところを貸し駐車場にしてあるための収入が不動産収入となるためです。
医療費は、母親の施設への入所費があったため、毎年かなりの額になり、平成17年は、¥1,270,000.- 昨年は、¥570,000.-ありました。
平成17年分(昨年の申告分)はちょっぴり還付がありましたが、平成18年分(今回の申告分)は、¥20,000.-ばかしの支払いになりました。(いぜれも、源泉徴収が約¥170,000.-があってのことです)
この医療費も、母親が昨年末に亡くなりましたので、今年はぐっと少なくなり、追徴額がぐっと増えることでしょう。(定率減税も無くなりますし・・・) 保険料や税金の支払いは増える一方で、収入は減る一方です。
昨日新しい車が入り、今日午後、成田山へ車のお祓いに行ってきました。
新しい車の番号は「2020」です。
ディーラーでの話し、「ご希望の番号はありますか?」
私「最近は登録年を使う人が多いですね」 「では2007にしますか?」
私「うーん、待てよ、いっそのこと2020はどうだろう」 「はい分かりました」
ということで、私の新車の番号は「2020」になりました。
何故「2020」なのか?
登録年だと、将来何年乗ったか、すぐ分かってしまいます。
2020年まで生きられるか? もし元気で生きていたらこの歳に免許証を返還しよう。これは私の努力目標なのです。語呂も「フレーフレー」となりますし・・・
成田山では、丁度午後3時の「護摩修行」をおえてお坊さんが帰って行くところでした。1月とはうって変わって閑散としていました。
閑散としていたために、発見したのですが「二宮尊徳翁開眼乃池」というのがありました。子供の頃から「成田山」へ行っているのに、初めて気がついたのでした。