母親の遺体を抱き締める佐藤行義さん(手前)。インド国家災害対策局対応部隊(NDRF)の隊員らが見守った=4月2日午後、宮城県女川町(共同)
「ごめんなー、おっかあ。見捨ててごめんな」
東日本大震災の津波が、港から約1キロ内陸の高台にまで押し寄せた宮城県女川町の荒立地区。
寒風が吹きすさぶ4月2日午後、10メートル以上に積み重なったがれきの中から運び出された遺体の顔を見た佐藤行義さん(38)は、むせび泣きながら母親、順子さん(59)の遺体を抱き締めた。
佐藤さんの耳には、順子さんが津波に流されながら発した「助けてけろー」という叫び声が残り続けていた。天をつかむように必死に伸ばした順子さんの腕が、水面から突き出されたのを見たのが最後
通り掛かった自衛隊に捜索を掛け合ったが、作業の事情などですぐにはかなわず、途方に暮れていたときにインド隊が現れた。日本人ボランティアから佐藤さんの事情を聴いたアロック・アスワティ隊長(41)は即座に捜索を指示。
作業2日目で順子さんが見つかった。
救助隊員歴17年のアスワティさんさえ、被災した女川町の様子に言葉を失ったという。
「ツナミにすべてが流された状態だった。
あれほど悲惨な風景は見たこともなく、想像をはるかに超えていた」
地元住民の要望に耳を傾け、諦めずに懸命に活動するインド隊の姿に、住民から感謝の声が相次いだ
ある家屋は、津波によって乗用車が屋上に乗りあげていた。不安定な状態だったが、支柱で固定し「危険で難しい作業」(アスワティさん)を開始。
そして悪戦苦闘の末、乗用車から男性の遺体を発見した。「お父さんです。お母さんも一緒にいたはず…」との家族の証言をもとに再び捜索し、母親の遺体も見つけることができた。
遺体発見後は必ず2分間の黙祷(もくとう)をささげた。
全日程を通して7遺体を収容。
がれきや泥に埋もれたお金や貴金属、家族写真なども発見し回収した。
最終日の6日、活動を終えると、女川町の被災者たちから1冊のノートをプレゼントされた。
英語と日本語で感謝の言葉がつづられていた。
「やりがいを感じた瞬間でした」と顔をほころばせるアスワティさん。自分たちが確かに、町の一員だった証しのように感じられた。
東日本大震災の被災地、宮城県女川(おながわ)町で3月28日から救援活動を展開したインドの国家災害対策局対応部隊(NDRF)は4月8日、任務を終えてインドに帰国した。
取材に応じたアロック・アスワティ隊長(41)は
「困難な活動をやり通せたのは「(被災者たちが)隊員に対し外国人としてでなく、地元社会の一員として接してくれたおかげだ
女川は以前よりもさらに美しい町になると信じている。数年後に女川に行って、その復興ぶりをこの目で見るつもりです」
(ニューデリー 田北真樹子/撮影:共同、AP/SANKEI EX PRESS)