年月日:2020.11.8(日)
メンバー:G.G.他5名(計6人)
コース:関ヶ原古戦場記念館から時計回りに周回
距離:16.2 km/所要時間:6:20
■順回路のトラック:
下図のSTARTで示す関ヶ原古戦場記念館から時計回りに周回しました。道は松尾山(292m)以外、殆が平坦です。
記 事:
24ケ所もの陣跡をガイドに案内してもらいました。以下は特記事項のみ示します。
■出発点の関ヶ原古戦場記念館は10月21日に開館したばかりで何十億円も掛けて建設されたそうです。大勢の観光客で賑わっていました。
■細川忠興の陣跡がありました。細川忠興が関が原の合戦に参戦しているとは知りませんでした。妻のガラシャが大阪方の人質となるよう三成に命ぜられ、自害に追いやられた話は有名で誰でも知っていますが忠興が参戦していることは余り知られていないように思います。
なお、各陣跡には各武将の経歴などが記された下図のような看板が建っています。
■岡山(丸岡)烽火場手前の竹林は大変に美しく、京都嵐山の竹林を彷彿させます。
■決戦地から南方に、眼下には戦場だった関ヶ原町が、遠くには小早川秀秋が陣構した松尾山(中央の三角形の山)が望めます。
■決戦地の石碑をバックに記念撮影しました。
■石田三成の陣跡です。多くの陣跡は石碑と説明板が建っているだけですが、ここだけは広い駐車場が整備され、防御柵で囲われた高台で展望台がありました。多くの観光客が押し寄せていました。
■宇喜多秀家の陣跡です。戦いに敗れ、薩摩まで逃げ延びたが最後は家康に囚われ八丈島へ流刑されます。以降、八丈島で28~84歳まで幽閉されます。子孫も八丈島で265年間幽閉されました。何とも陰惨な仕打ちですね。
■宇喜多秀家陣跡を後にした所の静かな杉林です。暗い話の後の景色に暫しホッとします。
■大谷吉継の墓所は手向けられた新しい花が印象的でした。
隣には家臣の湯浅五助隆貞の墓がありました。
五助は吉継の命で、介錯し、首を醜い顔を敵軍に見せないよう隠しました。それを敵軍に見破られましたが、代わりに自分の首を打って家康に渡すよう懇願し、叶えられたそうです。五助の願いを聞き入れた武将の武士の情け、吉継の無念さ、五助の忠節を偲んで今も、誰かが花を手向けるのでしょう。
■大谷吉継の陣跡から坂道を下り、一般道を分かりにくく、相当長い距離を歩いてやっと松尾山の駐車場に着きます。
松尾山山頂まではノンストップで25分位掛かりました。標高が292mありますので眺望はすぐれています。
眼下に戦場の関ヶ原町が一望できます。正面の山裾に石田三成の陣跡の幟が微かに見えました。
■松尾山を下りてからは福島正則と藤堂高虎・京極高知の陣所などを見学し古戦場巡りの旅を終えました。
雑 感:
■巡回は16 kmの長丁場ですが、殆が平坦な道で、且つ、陣跡毎にで立ち止まるで特に疲労感はありません。健脚の人なら誰でも踏破できると思います。
■今までは、関ヶ原合戦はドラマ上の話でしたが、現地に立って、地形を見、ガイドの説明を聞き、説明板を見た結果、ドラマではなく血の通った人間が実際に起こした決戦であったのを実感出来るようになりました。
■両軍の配置を見れば東軍、西軍の陣構がよく分かります。西軍方は、味方と思っていた軍勢の寝返り、勝手な撤退、日和見などの想定外の事態がなければ圧勝したと思います。
■小早川秀秋の寝返り、島津義弘の東軍突破の撤退、毛利秀元の日和見などの真相は人間関係、打算などを考えた末の権謀術数の為せる所と思われます。
■西方の武将の末路は自刃、捕縛斬首、逃亡、島流しなど様々で、彼らの胸中を思うと哀れを誘います。
追伸:
今回のような東軍、西軍の全陣跡を巡回するにはガイドが不可欠といえましょう。
ガイドなしでは巡回路をスムースに回れません。また、未知のことを色々と解説してくれるので興趣が深まります。
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