少数派シリーズ/核兵器・原発を失くせ
ビキニ被災70年⑥国民の原水爆反対の高まる“うねり”と補償を恐れ政府は早期決着へ
左/ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)は核兵器を禁止し
廃絶するために活動する世界のNGO(非政府組織)の連合体
■まず投稿者の文章|ビキニ実験は米国の現地島民とオセアニア・アジア人への人種差別
下記本文は、しんぶん赤旗の「ビキニ被災70年」の特集を活用しています(前号より続く)。若干、ストーリー性を持たせた文章なので、投稿者が調べた内容を補足の形で追記した。今号は、寄港後の第五福竜丸の乗組員23人の容体を伝える。また国内の反核の高まり、米国の人権と生命無視、現地島民の被害、戦後当時から日本政府の米国べったり・弱腰に触れる。本文に書かれていないことは、当初は小さな危険区域(右図・長方形)だったため、危険区域外とは言え近くの島民が取り残され被曝したことだ。研究者によっては、置き去りにしたのは被曝の「人体実験」も兼ねていたのでは?とも言う。現地の米兵や島民の症状は第五福竜丸乗組員と同様で身体的異常が多発、さらにはガンや出産異常も多く見られた。
結論を言えば、“冷戦”下の大国・米国のエゴと人権・生命無視の非人道性である。米国やフランス(他の核実験)も、本国から遠く離れたこんな南太平洋で核実験を行うことは、過去や事実上、欧米による植民地化された明らかな発展途上国(島嶼・とうしょ)、オセアニア(諸島)、日本などのアジア人への人種差別・非人道的行為である。島民の人体実験、放射能による死亡・重度な身体的影響を与えても、世界的批判には及ばないとする舐めた態度が見られる。現在も続く大国の姿勢が、世界に「反核運動」の高まりを見せることとなった。広島・長崎・第五福竜丸の核兵器被曝を受けても、未だ収拾できない福島原発爆発を起こしても原発増設をする、日本政府の止(や)まない「核推進」を投稿者は厳しく抗議する。
■「放射能マグロ」「原子マグロ」強い放射能が検出され水産魚や飲食店業は大打撃
本文/米軍の水爆実験で被災から2週間後の1954(S29)年3月14日、遠洋マグロ漁船・第五福竜丸は静岡県焼津市の母港・焼津港に帰港しました。この日は日曜日でしたが、焼けただれて黒くなった乗組員たちの顔に驚いた船主の西川角市さんに促されて、23人全員が焼津協立病院で診療を受けました。当直の大井俊亮医師は、「原爆症の疑いあり」と診断。症状の重い2人が翌15日、甲板で集めた白い粉=強い放射能を帯びた「死の灰」を持って上京し、東大付属病院に入院しました。焼津に残った21人は2週間の入院ののち、全員東京に移送(※補足6)され、5人が東大付属病院に、16人が国立東京第一病院(現在の国立国際医療研究センター病院)に入院しました。
※投稿者補足6/米軍輸送機を使用した。
「邦人漁夫、ビキニ原爆実験に遭遇」「23名が原子病」。16日付朝刊で報じられると、全国に衝撃が走りました。厚生省(当時)は調査団を焼津に派遣。第五福竜丸の船体や漁具、積み荷のマグロなどから強い放射能が検出され、マグロは廃棄処分となりました。厚生省公衆衛生局は18日から塩釜、東京、三崎、清水、焼津の5港を指定して魚の放射能検査の実施を指示。5月からは他の13港でも検査が行われ、検査が打ち切られた同年末までに、廃棄された汚染魚は485.7トンに及びました。「放射能マグロ」「原子マグロ」と恐れられて魚が売れなくなり、魚価が長期にわたって暴落。水産魚や飲食店業に大打撃を与えました。水産庁は5月、水産講習所の俊鶻丸(しゅんこつまる)をビキニ海域の調査のために派遣。深刻な海洋汚染が判明し、2年後の第2次調査では放射性微粒子による大気汚染もわかりました。
■日本政府は「政治決着」、米国は責任を負わず見舞金200万ドルで収束図る
水爆実験によって汚染された大気は、気流に乗って日本へ飛来しました。54年の春から初夏にかけて、強い放射能が混じった雨が日本中で観測され、農作物や牧草などが汚染されたことも、国民を不安に陥れました。広島、長崎に続く3度目の核被害を受けて、議会や市民が原水爆禁止に向けて動き始めます。3月18日、三崎港のある神奈川県三崎町(現在の三崎市南西部)議会は原爆使用禁止の決議を行い、焼津市議会は3月23日に原水爆実験禁止を、同27日は原子力兵器使用禁止を決議しました。4月、衆参両院は「実験禁止、原子兵器禁止」を含む決議を満場一致で採択しました。各地で市民による自発的、自然発生的な署名活動が始められ、8月には署名を集計する原水爆禁止署名運動全国協議会(全協)が結成。翌55年8月に第1回原水爆禁止世界大会が広島で開催され、署名数は3238万2104人に達しました。
「死の灰」を浴び、深刻な急性放射能症に侵された第五福竜丸の乗組員の容体は楽観を許しませんでした。23人のうち22人は1年2カ月間の入院ののち、翌55年5月に退院しますが、最年長だった無線長の久保山愛吉さんは54年9月23日、「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」と言い残して息を引き取りました(※補足7)。40歳でした。久保山さんの死によって、原水爆禁止の世論と米国に補償を求める声はいっそう高まりました。ビキニ事件の早期決着をねらった日米両政府は、55年1月、「法律上の責任の問題と関係なく慰謝料として」、米国が200万ドル(7億2000万円)を支払うことで「政治決着」しました。全国の漁業被害額25億円にも届きませんでした。第五福竜丸の乗組員に支払われた「見舞金」は、一人当たり約200万円。第五福竜丸以外の船の乗組員は、70年たっても補償もなく放置されたままです。<一旦終了>
※投稿者補足7/米国は久保山さんの死を放射線が原因と認めず。
前号/ビキニ被災70年⑤「西から昇った太陽(水爆)」第五福竜丸など1000隻に「死の灰」が
ビキニ被災70年⑥国民の原水爆反対の高まる“うねり”と補償を恐れ政府は早期決着へ
左/ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)は核兵器を禁止し
廃絶するために活動する世界のNGO(非政府組織)の連合体
■まず投稿者の文章|ビキニ実験は米国の現地島民とオセアニア・アジア人への人種差別
下記本文は、しんぶん赤旗の「ビキニ被災70年」の特集を活用しています(前号より続く)。若干、ストーリー性を持たせた文章なので、投稿者が調べた内容を補足の形で追記した。今号は、寄港後の第五福竜丸の乗組員23人の容体を伝える。また国内の反核の高まり、米国の人権と生命無視、現地島民の被害、戦後当時から日本政府の米国べったり・弱腰に触れる。本文に書かれていないことは、当初は小さな危険区域(右図・長方形)だったため、危険区域外とは言え近くの島民が取り残され被曝したことだ。研究者によっては、置き去りにしたのは被曝の「人体実験」も兼ねていたのでは?とも言う。現地の米兵や島民の症状は第五福竜丸乗組員と同様で身体的異常が多発、さらにはガンや出産異常も多く見られた。
結論を言えば、“冷戦”下の大国・米国のエゴと人権・生命無視の非人道性である。米国やフランス(他の核実験)も、本国から遠く離れたこんな南太平洋で核実験を行うことは、過去や事実上、欧米による植民地化された明らかな発展途上国(島嶼・とうしょ)、オセアニア(諸島)、日本などのアジア人への人種差別・非人道的行為である。島民の人体実験、放射能による死亡・重度な身体的影響を与えても、世界的批判には及ばないとする舐めた態度が見られる。現在も続く大国の姿勢が、世界に「反核運動」の高まりを見せることとなった。広島・長崎・第五福竜丸の核兵器被曝を受けても、未だ収拾できない福島原発爆発を起こしても原発増設をする、日本政府の止(や)まない「核推進」を投稿者は厳しく抗議する。
■「放射能マグロ」「原子マグロ」強い放射能が検出され水産魚や飲食店業は大打撃
本文/米軍の水爆実験で被災から2週間後の1954(S29)年3月14日、遠洋マグロ漁船・第五福竜丸は静岡県焼津市の母港・焼津港に帰港しました。この日は日曜日でしたが、焼けただれて黒くなった乗組員たちの顔に驚いた船主の西川角市さんに促されて、23人全員が焼津協立病院で診療を受けました。当直の大井俊亮医師は、「原爆症の疑いあり」と診断。症状の重い2人が翌15日、甲板で集めた白い粉=強い放射能を帯びた「死の灰」を持って上京し、東大付属病院に入院しました。焼津に残った21人は2週間の入院ののち、全員東京に移送(※補足6)され、5人が東大付属病院に、16人が国立東京第一病院(現在の国立国際医療研究センター病院)に入院しました。
※投稿者補足6/米軍輸送機を使用した。
「邦人漁夫、ビキニ原爆実験に遭遇」「23名が原子病」。16日付朝刊で報じられると、全国に衝撃が走りました。厚生省(当時)は調査団を焼津に派遣。第五福竜丸の船体や漁具、積み荷のマグロなどから強い放射能が検出され、マグロは廃棄処分となりました。厚生省公衆衛生局は18日から塩釜、東京、三崎、清水、焼津の5港を指定して魚の放射能検査の実施を指示。5月からは他の13港でも検査が行われ、検査が打ち切られた同年末までに、廃棄された汚染魚は485.7トンに及びました。「放射能マグロ」「原子マグロ」と恐れられて魚が売れなくなり、魚価が長期にわたって暴落。水産魚や飲食店業に大打撃を与えました。水産庁は5月、水産講習所の俊鶻丸(しゅんこつまる)をビキニ海域の調査のために派遣。深刻な海洋汚染が判明し、2年後の第2次調査では放射性微粒子による大気汚染もわかりました。
■日本政府は「政治決着」、米国は責任を負わず見舞金200万ドルで収束図る
水爆実験によって汚染された大気は、気流に乗って日本へ飛来しました。54年の春から初夏にかけて、強い放射能が混じった雨が日本中で観測され、農作物や牧草などが汚染されたことも、国民を不安に陥れました。広島、長崎に続く3度目の核被害を受けて、議会や市民が原水爆禁止に向けて動き始めます。3月18日、三崎港のある神奈川県三崎町(現在の三崎市南西部)議会は原爆使用禁止の決議を行い、焼津市議会は3月23日に原水爆実験禁止を、同27日は原子力兵器使用禁止を決議しました。4月、衆参両院は「実験禁止、原子兵器禁止」を含む決議を満場一致で採択しました。各地で市民による自発的、自然発生的な署名活動が始められ、8月には署名を集計する原水爆禁止署名運動全国協議会(全協)が結成。翌55年8月に第1回原水爆禁止世界大会が広島で開催され、署名数は3238万2104人に達しました。
「死の灰」を浴び、深刻な急性放射能症に侵された第五福竜丸の乗組員の容体は楽観を許しませんでした。23人のうち22人は1年2カ月間の入院ののち、翌55年5月に退院しますが、最年長だった無線長の久保山愛吉さんは54年9月23日、「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」と言い残して息を引き取りました(※補足7)。40歳でした。久保山さんの死によって、原水爆禁止の世論と米国に補償を求める声はいっそう高まりました。ビキニ事件の早期決着をねらった日米両政府は、55年1月、「法律上の責任の問題と関係なく慰謝料として」、米国が200万ドル(7億2000万円)を支払うことで「政治決着」しました。全国の漁業被害額25億円にも届きませんでした。第五福竜丸の乗組員に支払われた「見舞金」は、一人当たり約200万円。第五福竜丸以外の船の乗組員は、70年たっても補償もなく放置されたままです。<一旦終了>
※投稿者補足7/米国は久保山さんの死を放射線が原因と認めず。
前号/ビキニ被災70年⑤「西から昇った太陽(水爆)」第五福竜丸など1000隻に「死の灰」が