少数派シリーズ/核兵器・原発を失くせ
ビキニ被災70年④原水爆禁止署名3200万筆超、原水爆禁止運動が広がり反核の原点に
■第五福竜丸船員の久保山さんの言葉「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」
毎日新聞を活用しています/太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁で1954(S29)年3月1日、米国が実施した水爆実験の後に広く降った「死の灰」を多くの島民や船員が浴びました。日本ではマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員が死亡するなど衝撃が広がり、原水爆禁止を求める世論が高まりました。「ビキニ事件」から70年。今も健康被害は続き、破壊された環境は取り戻せず、事件は核の脅威を世界に告発しています。当時、食卓に上る魚の汚染は衝撃的で、「原爆マグロ」という言葉が生まれました。核兵器の破壊力と放射線の脅威が、実感を伴って伝わったのです。敗戦後に日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)は広島と長崎の実相を伝える報道や出版を規制し、事件の2年前に占領が終わったことで惨状がようやく知られるようになったばかりでした。全国各地で市民らが原水爆禁止を求めて署名運動を展開し、1年で3200万筆超が集まりました。原爆投下から10年の55年8月6日には広島市で第1回原水爆禁止世界大会が開催され、56年には日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が結成されます。現在につながる反核運動の原点ともいえます。なお、太平洋の水爆実験で凶暴化した巨大生物が東京を破壊する映画「ゴジラ」が公開されたのは、54年11月でした。
日米両政府は水爆実験の機密保持のため、船の解体や海に沈める選択肢が取り沙汰されていたことが91年公開の外交文書で明らかになっています。最終的に日本政府が買い取り、東京水産大(現・東京海洋大)の練習船になりました。67年に廃船となり、東京湾のゴミ処分場「夢の島」に放置されていたのを知った市民や文化人らが保存を求める運動を起こし、それに応えて東京都は76年6月に、公園として整備された夢の島に「都立第五福竜丸展示館」を開館しました。長さ30メートル、高さ15メートルの木造船を載せた台座を囲むように、事件の概要やマーシャル諸島の被害、世界各地の核実験や核廃絶に向けた歩みなどをパネルや写真、解説資料で紹介しています。館の外には第五福竜丸船員の久保山さんの言葉「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」を刻んだ記念碑があります。米国は46~58年に「ブラボー」を含む67回もの核実験をビキニ環礁やエニウェトク環礁で繰り返しました。島から強制移住させられたり、米国が安全宣言を出した後に戻ってがんや出産異常などに苦しんだり、一帯の住民が受けた健康被害や喪失感は深刻です。サンゴ礁の海には実験で開いた巨大な穴が残っています。核被害の爪痕を伝えるビキニ環礁は2010年、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産に登録されました。17年に国連で成立した核兵器禁止条約は、核実験による被害者の救済や環境回復を盛り込みました。ビキニ事件は終わっていないのです。
■マーシャル諸島でも水爆実験から70年の追悼式、「汚染」で地域社会が壊れつつある
太平洋の島国マーシャル諸島のビキニ環礁で米軍が行った水爆実験から70年を迎えた3月1日、首都マジュロで追悼式が開かれ、住民や被ばくした日本人漁船員の遺族ら約500人が出席した。1946~58年に67回の核実験が実施された結果、深刻な汚染が残った実態が近年明らかに。ビキニに加え「死の灰」が降ったロンゲラップ環礁でも島民帰還が実現せず、移住を容認する米国へ人口が流出、地域社会が壊れつつある。式典ではハイネ大統領が演説し、核実験が行われた米ネバダ州からも汚染土が大量に持ち込まれ投棄されたと批判。「他にどんな秘密の実験や活動が行われていたのだろうか」と述べ、汚染を隠し続けた米国への不信感をあらわにした。54年の水爆実験では周辺住民のほか、静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」の23人を含む日本の漁業者らも被ばくした。式典には、漁船員だった父をがんで亡くした高知市の下本節子さん(73)が被ばく者遺族として参列した。実験当時の被ばく者は大半が世を去り、式典に出席できた人はわずか。子孫らは健康面の不安を抱えている。ハイネ氏は核実験の影響でがん罹患(りかん)率が高まると予測した米研究所の報告を挙げ、「国民の健康や福祉、権利に壊滅的な爪痕を残した」と訴えた。マーシャル諸島政府はここ数年、核実験の除染作業で被ばくした米退役軍人らと連携を深めており、米軍による投棄や高濃度汚染の新事実が相次いで明るみに出ている。<次回に続く>
次号/ビキニ被災70年⑤「西から昇った太陽(水爆)」第五福竜丸など1000隻に「死の灰」が
前号/ビキニ被災70年③太平洋マーシャル諸島で米水爆実験・日本船1000隻に「死の灰」が
ビキニ被災70年④原水爆禁止署名3200万筆超、原水爆禁止運動が広がり反核の原点に
■第五福竜丸船員の久保山さんの言葉「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」
毎日新聞を活用しています/太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁で1954(S29)年3月1日、米国が実施した水爆実験の後に広く降った「死の灰」を多くの島民や船員が浴びました。日本ではマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員が死亡するなど衝撃が広がり、原水爆禁止を求める世論が高まりました。「ビキニ事件」から70年。今も健康被害は続き、破壊された環境は取り戻せず、事件は核の脅威を世界に告発しています。当時、食卓に上る魚の汚染は衝撃的で、「原爆マグロ」という言葉が生まれました。核兵器の破壊力と放射線の脅威が、実感を伴って伝わったのです。敗戦後に日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)は広島と長崎の実相を伝える報道や出版を規制し、事件の2年前に占領が終わったことで惨状がようやく知られるようになったばかりでした。全国各地で市民らが原水爆禁止を求めて署名運動を展開し、1年で3200万筆超が集まりました。原爆投下から10年の55年8月6日には広島市で第1回原水爆禁止世界大会が開催され、56年には日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が結成されます。現在につながる反核運動の原点ともいえます。なお、太平洋の水爆実験で凶暴化した巨大生物が東京を破壊する映画「ゴジラ」が公開されたのは、54年11月でした。
日米両政府は水爆実験の機密保持のため、船の解体や海に沈める選択肢が取り沙汰されていたことが91年公開の外交文書で明らかになっています。最終的に日本政府が買い取り、東京水産大(現・東京海洋大)の練習船になりました。67年に廃船となり、東京湾のゴミ処分場「夢の島」に放置されていたのを知った市民や文化人らが保存を求める運動を起こし、それに応えて東京都は76年6月に、公園として整備された夢の島に「都立第五福竜丸展示館」を開館しました。長さ30メートル、高さ15メートルの木造船を載せた台座を囲むように、事件の概要やマーシャル諸島の被害、世界各地の核実験や核廃絶に向けた歩みなどをパネルや写真、解説資料で紹介しています。館の外には第五福竜丸船員の久保山さんの言葉「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」を刻んだ記念碑があります。米国は46~58年に「ブラボー」を含む67回もの核実験をビキニ環礁やエニウェトク環礁で繰り返しました。島から強制移住させられたり、米国が安全宣言を出した後に戻ってがんや出産異常などに苦しんだり、一帯の住民が受けた健康被害や喪失感は深刻です。サンゴ礁の海には実験で開いた巨大な穴が残っています。核被害の爪痕を伝えるビキニ環礁は2010年、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産に登録されました。17年に国連で成立した核兵器禁止条約は、核実験による被害者の救済や環境回復を盛り込みました。ビキニ事件は終わっていないのです。
■マーシャル諸島でも水爆実験から70年の追悼式、「汚染」で地域社会が壊れつつある
太平洋の島国マーシャル諸島のビキニ環礁で米軍が行った水爆実験から70年を迎えた3月1日、首都マジュロで追悼式が開かれ、住民や被ばくした日本人漁船員の遺族ら約500人が出席した。1946~58年に67回の核実験が実施された結果、深刻な汚染が残った実態が近年明らかに。ビキニに加え「死の灰」が降ったロンゲラップ環礁でも島民帰還が実現せず、移住を容認する米国へ人口が流出、地域社会が壊れつつある。式典ではハイネ大統領が演説し、核実験が行われた米ネバダ州からも汚染土が大量に持ち込まれ投棄されたと批判。「他にどんな秘密の実験や活動が行われていたのだろうか」と述べ、汚染を隠し続けた米国への不信感をあらわにした。54年の水爆実験では周辺住民のほか、静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」の23人を含む日本の漁業者らも被ばくした。式典には、漁船員だった父をがんで亡くした高知市の下本節子さん(73)が被ばく者遺族として参列した。実験当時の被ばく者は大半が世を去り、式典に出席できた人はわずか。子孫らは健康面の不安を抱えている。ハイネ氏は核実験の影響でがん罹患(りかん)率が高まると予測した米研究所の報告を挙げ、「国民の健康や福祉、権利に壊滅的な爪痕を残した」と訴えた。マーシャル諸島政府はここ数年、核実験の除染作業で被ばくした米退役軍人らと連携を深めており、米軍による投棄や高濃度汚染の新事実が相次いで明るみに出ている。<次回に続く>
次号/ビキニ被災70年⑤「西から昇った太陽(水爆)」第五福竜丸など1000隻に「死の灰」が
前号/ビキニ被災70年③太平洋マーシャル諸島で米水爆実験・日本船1000隻に「死の灰」が