魚を大事にしない日本人シリーズ R1-9
ROUND1 江戸前から繋がる世界の海 Part3豊洲新市場の危険性(移転すべきではない)
まずは明治政府海軍発祥の地だった築地の生い立ちから説明
■有害物質が充満する中、「豊洲直送の鮮魚」と言われても食べたくない!
ここからは、豊洲新市場の危険性(移転すべきではない)連載します。豊洲新市場の有害物質の発生について、2016年、築地からの移転(小池新都知事が待った!を掛けたため延期)の際に初めて知った都民が多く残念に思いました。当シリーズで、2009年頃から豊洲新市場の危険性を指摘してきました(現在は再編集済)。有害物質で発ガン性が高いベンゼンが環境基準の43,000倍、シアン化合物が860倍、ヒ素49倍、水銀24倍などが地中から出てきた投稿も書きました。実はそれ以前から新聞記事などをストックし、豊洲はかなり危険だとして移転に反対していたのです。都議会野党や市民団体も、2000年初頭から移転反対の行動を続けていました。移転に賛成した自民党・公明党は、あたかもこの危険性を、今回、初めて知ったような言動を繰り返すのは責任逃れです。そもそも彼等が、強引に移転を進めてきたのです。
2001年・石原都知事が、豊洲に移転することを発表しました。その後押しをしたのが、両党です。一方、当時から共産党を始め野党が、豊洲には高濃度な有害物質が蓄積されていることから、何度も都議会の場で移転反対を主張してきました。「築地直送の鮮魚」と言えば、新鮮・美味しそうに思えます。未だに有害物質が多発している豊洲を知れば、「豊洲直送の鮮魚」と言われても食べたくないでしょう。5,884億円を要した設備でも、率直なところ「安全・安心」が得られない以上、豊洲に移転すべきではないと考えます。詳細な現状は新聞・TV等でご存じと思いますので、別の視点から“掘り下げ”ます。築地・豊洲の生い立ち、誰が豊洲の地を選んだのか?その過ちの過程、豊洲そのものの危険性、大手ゼネコンとの官製談合・癒着などをお伝えします。
■明治の頃の築地は粋な軍人・お洒落な外国人が颯爽と歩くモダンな街だった
23ヘクタールある現在の築地は、明暦の大火の翌年・1658年に作られた埋め立て地でした。築地という言葉自体が、海や沼を埋め立てた土地を表すものです。江戸中期は松平定信別邸の大庭園で、現在の築地本願寺から築地市場一体の規模でした。さらに歴史は下り、幕末の黒船来航に慌てた幕府は、この地ににわか仕立ての幕府海軍を作りました。明治政府になっても、1871(M4)年、そのまま海軍省が置かれました。東京湾に臨む隅田川の河口にあり、何もない埋立地と海に近く良い地理的条件から、近代日本の「軍港」として使われるようになったのです。敷地内には、海軍兵学校・海軍大学校・海軍医学校などが作られ、築地は「海軍発祥の地」なのです。
現在でも、築地市場の北西側を走る新大橋通りの向う側、朝日新聞本社の隣には海上保安庁・海洋情報部が置かれています。明治や戦前の旧海軍省・水路部の頃から続けられている「海図」(水深・海底地質データ)作成、海流・潮流などの調査をしています。また築地市場の北隣・聖路加病院(ツインタワー)がある辺りの明石町は、明治時代、超ハイカラだったそうです。外国人居留地が置かれ、築地異人館・教会も建てられていました。今日、全国に数々あるミッションスクール、その大本・発祥の地が明石町だったのです。今でもこの辺りは、“異国”の雰囲気が感じられます。今でこそ築地と言えば刺身などの鮮魚、卸売り・仲卸し・場外市場がにぎわう街ですが、明治の頃は粋な軍人、お洒落な外国人が颯爽と歩くモダンな街でした。
■1935(S10)年、日本橋から現在の築地に移転
江戸時代は東京湾沿岸の漁師、千葉からは特別仕立ての“快速舟”が造られ、それに乗せて獲れ立ての魚が幕府に献上されました。残りの魚が日本橋で庶民に売られ、それが江戸の魚市場の成り立ちです。大正時代になり日本橋市場も手狭になり、今で言う中央卸売市場の計画を模索中に、1923(T12)年・関東大震災が起こりました。東京市は築地の海軍省から、一部の用地を借りて仮設の市場を開いたのです。その後、順次、拡張し1935(S10)年に今日の築地市場が建てられました。築地の魚河岸の方々は、築地に対して並々ならぬ強い思い入れがあります。親の代以前から苦労を背負い、また聞かされてきたのでしょう。それを役人の都合によって、まして有害物質が充満する豊洲に行ける訳がないでしょ!こんな豊洲という土地を選んだ役人は、罪深いと思います。