月刊パントマイムファン編集部電子支局

パントマイムのファンのためのメルマガ「月刊パントマイムファン」編集部の電子支局です。メルマガと連動した記事を掲載します。

『パントマイムの歴史を巡る旅』第23回(ヨネヤマ・ママコさん(5))

2014-09-11 00:21:45 | スペシャルインタビュー
(インタビューの第5回は、帰国してからの活動について紹介します)

佐々木 米国での13年の生活を終えて、1972年に日本に帰国することになった経緯は何でしょうか。
ママコ 実は病気になってしまったのです。一所懸命に頑張ってきましたが、身体を壊してしまい、帰国しました。帰国後に入院して手術を受けました。身体が治りかかったある日、治りかけと言ってもまだ歩きが不自由だったのですが、新宿駅で歩いている人々の姿を見るとステップが面白いのです。新宿駅には人がいっぱいいて、人が他人とぶつかりそうになるのを避けるステップがタンゴのように見えて、これをタンゴで踊ったら面白いと思って、「新宿駅のラッシュアワーのタンゴ」という作品を創作しました。「ビギンザビギン」というジャズの名曲がありますが、あの素晴らしいリズムとメロディーのように、身体が動けなくても心が元気になる作品を作りたいという気持ちで、駅のホームでステップを踏んで作品を作っていました。
佐々木 スゴイですね。「新宿駅のラッシュアワーのタンゴ」は、実際にいつ上演されたのでしょうか。
ママコ 74年に京都府立文化芸術会館や渋谷のジャン・ジャンなどで上演しました。その当時は、帰国して間もないので、ママコ・ザ・マイムの活動というよりも、ソロでの上演でした。

佐々木 1972年にママコ・ザ・マイムを設立した経緯を教えてください。
ママコ これは、よくあるじゃないですか。一旦有名になると追い払っても人が来て。
佐々木 なったことがないので分かりません(笑)ママコ・ザ・マイムを設立して、あらい汎さんがすぐお弟子になったそうですね。汎さんとの初めての出会いはいかがでしたか。
ママコ あらいさんが銀座で人形振りを披露するイベントを私が観て、それから交流が始まりました。彼は、私のところに来て、色々と良く働いて頂きました。あらいさんがウチに来てすぐにヴィテルボ大学のマイム祭に呼ばれて、彼もスタッフとして一緒に行きました。

佐々木 ヴィテルボ大学のマイム祭とはどんなイベントだったのでしょうか。
ママコ これは、アメリカのマイム祭で、ヴィテルボ大学の先生が企画しました。そのマイム祭の出演者には、ジャック・ルコック(フランス)、ステューバ・トゥーバ(チェコ)、レディスラフ・フィアルカ(チェコ)、ムメンシャンツ、トニー・モンタナロ(アメリカ)、ドミトリー(スイス)、サミュエル・アビタル(アメリカ)、ロッテ・ゴスラー(アメリカ)、ヤス・ハコシマ(日系二生)、アントニオ・ホデック、カルロ・マツオニ(イタリア)らが名をつらねました。ロバート・シールズの名前も入っていましたが、実際には来なかったですね。
佐々木 世界の著名なパフォーマーが集まる国際色豊かなフェスティバルだったのですね。フェスティバルの開催は何年ですか?
ママコ 74年です。マイム祭が終わった後にヴィテルボの川に出演者が集まって記念写真を撮影しました。(写真を見ながら)この人がプロデューサーのルー・キャンデル。彼は、ミスター・トランキライザー(精神安定剤)というあだ名を付けられました。世界中から人が到着する度に、おろおろハラハラして、トランキライザーを度々飲んでいました。世界中から出演者が集まってくるから、あまりにも大変だったのでしょう。
佐々木 汎さんは、そのイベントでスタッフとして手伝っていたのですね。
ママコ あらいさんを音響として連れていったのですが、これはちょっと乱暴でした。彼はまだよく英語がしゃべれなかったから、現地の技術スタッフとのやりとりは専ら愛敬だけで乗り切っていました。彼は行く前はすごく痩せていたのに向こうの食事は肉ばかりなので、段々とこう…。
佐々木 太っちゃったのですね(笑)。

ママコ ママコ・ザ・マイムというのは、私自身が非常に過酷な仕事をしたと感じています。ソリストで先生でもあり、また経営者も兼ねていて、経営では事業家だった兄の米山卓が年間の赤字をいつも怒りながら補ってくれていました。生徒は、一所懸命に教えても上達すると、引き抜かれて条件の良いところに移ってしまったり、早く独立したいと言われたり、きつい巡業が終わると辞める人が出たりして、当時の若い人と接するのは難しかったですね。私の教え方は、民主主義というよりも、見えない物を見せる手と手の流れの美しさに特に厳格で、私のカラーで私のメソッドを継いでもらうという保守的なところがありましたから、失敗したことも多かったです。当時の私には、民主主義というのはなかったです(笑)
佐々木 大変ご苦労されたのですね。
ママコ その上に、舞台は一流志向を持っていて、衣装や音楽もオーダーメイドで作ったりして舞台全部がママコ・ザ・マイムのカラーでないと気が済みませんでした。これが間違いの素だったですが、非常にこだわりました。当時は自分1人で10役をこなしていました。

佐々木 ママコ・ザ・マイムではどんな公演を上演していたのでしょうか。
ママコ 学校公演と劇場公演で、分かり易い基本的な物やメルヘンマイム、「禅とマイム・十牛」、「サティ~ママコ~スル」などです。
佐々木 サティの作品はどうやって生まれたのですか。
ママコ 音楽に導かれて生まれた作品が幾つかあります。例えば、シェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」ですね。これは、ソロの物ですが、ソニーの石井宏枝さんが企画を持ってきて、そんな難しい曲は困ると言っていながら、言っているそばからアイデアが出てきました。ということは、その曲が私に合っていたんですよ。難解な音楽でしたが、譜面が分からないなんか関係ないですね。私の代表作になりました。エリック・サティの作品は、大村陽子さんというピアニストがサティの曲の企画を持ちかけてきて、これも音源に導かれて創作しました。以前、上演した「マニュアルウェイター」はその中の一つです。
佐々木 マイムリンクで上演した「ウェイター」もサティだったのですか。知らなかった。

佐々木 ママコ・ザ・マイムには、どんな方が在籍しましたか。
ママコ 初期の頃には、あらい汎さん、吉村(服部)宣子さん、藤倉健雄さんが在籍していました。吉村さんは1975年に入っています。それから、2、3年して、藤井郁夫さん、ひらがせいごさんが加わり、今は「マイムランド」というグループで活躍し、学校公演やホテルのイベントなどをやっています。その他に大勢20、30人もいたのですが、現在は、ほとんどの人がマイムから離れています。武井よしみちさんは、現在も前衛パフォーマンスで活躍しております。その何年か後に、江ノ上陽一君、小野廣己君が入ってきました。彼らは、後にSOUKIのメンバーとして活動しております。彼らは80年代後半に入ってきました。

佐々木 ママコ・ザ・マイムは、何年まで活動を続けたのでしょうか。
ママコ まだ続いているといえば、続いております。今は明神伊米日君が最後の1人として残ってくれていて、25年程ひたすら縁の下をやってくれています。劇団というよりも屋号と言った方が良いかもしれません。ただ、努力して失敗もくり返して分かったのは、あんまり大きなグループにしないことが大切ですね。私にとっては、とても大き過ぎてソロとグループの切り換えがうまくできませんでした。

佐々木 ところで、日本パントマイム協会を設立した時(1985年)には、ママコさんも参加していたそうですね。
ママコ 日本マイム協会の設立時に、及川廣信さんが呼び掛けて、佐々木博康さんや並木孝雄さん、清水きよしさん、あらい汎さん、西森守さん、IKUO三橋さん、大阪からは、北京一さん、藤井伝三さんが集まりました。藤井さんは、私のところに何年かいてよく出演してくれました。マイム協会を作る意義は分かるのですが、やっぱり、まず一人ひとりがマイムで生きていくことが大変じゃないですか。それに困ったことに、私も含めて個が強い一匹狼的気質の人がマイムには多いと。「果たして組織としてまとまるのかな?」という思いはありました。私はその当時、創作し続けなければならないこととグループの人達に一つ一つ対応していくことで、日々精一杯でした。ですので今ふり返って、あまり積極的に協会のために動けなかったという反省の気持ちはあります。
(つづく)

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『パントマイムの歴史を巡る旅』第22回(ヨネヤマ・ママコさん(4))

2014-08-11 00:35:51 | スペシャルインタビュー
(インタビューの第4回では、世界の著名パントマイミストとの交流のエピソードをお届けします)

佐々木 アメリカやフランスの滞在時にマルセル・マルソー、ジャン・ルイ・バローら世界の著名なパントマイミストとの素敵な出会いがあったそうですね。まず、マルセル・マルソーとの交流についてお話ください。
ママコ マルソーとの最初の出会いは、ロスアンゼルスの劇場です。劇場のロビーにマルソーと一緒にアメリカの人気コメディアンのレッド・スケルトンがいらっしゃって、私が英語を話すものですから、マルソーに大変喜ばれて、いつも舞台が終わると食事をすることになりました。マルソーは、フランス人なのに英語が大変上手でした。
佐々木 マルソーとはどんな話をしたのですか?
ママコ サンフランシスコ公演の時には、チャイナタウンで一緒に食事をすると、必ず政治や世界の話になりました。マルソーは、非常に社会意識が高くて、彼と一緒にいる時は、世界のニュースの話題が多かったです。
佐々木 意外な一面ですね。
ママコ それで、何回かお会いしているうちに、ロスアンゼルスの大変高級なホテルにマルソーが泊まっていらっしゃったのですが、ある日、訪ねていくとそのホテルのプールにマルソーがおられまして、「今、何を作っているか」と聞かれて、「修善寺物語」(岡本綺堂作の戯曲)を考えているって言ったのです。それで、その修善寺物語の粗筋を英語で少し語ったのです。(面作りの)彫り師が自分の娘が死んでいく顔を冷然と彫るという話をしたら、彼は大変興奮して、その場で彼がその話を作ってしまったのです。そして、「明日のテレビでこれをやるから」と彼は言って、その日にテレビで見たら、彼は、きちんとママコから聞いた話だと礼義正しく言った上で、即興的に作品を演じました。恐らくテレビで何かやってくれと言われて、短い作品がなくて困っていたのではないでしょうか。アメリカのお客様は、ママコが誰か知らないけど(笑)、そう言ってくれたのは嬉しかったですね。
佐々木 この修善寺物語の話はいつ頃でしょうか。
ママコ 70年前後ですね。アメリカで「十牛」を上演している頃です。いかにも私がアメリカで成功したような話をしていますが、実際は成功してない話の方が多いです。ただ、その時にエポックな方々と出会えて幸運だったですね。

佐々木 映画「天井桟敷の人々」で有名なジャン・ルイ・バローとも出会ったそうですね。
ママコ ACT劇団で教えていた時に、大変有名な方が時々劇団を訪ねてきました。その中で、ジャン・ルイ・バローも来ました。その頃、彼はフランスの5月革命で若者に劇場を開放したということで、政府から(活動の場となっていた)劇場を追われたのです。劇場を追放されたバローは、世界を巡業しようということで、アメリカに来てたのです。
佐々木 なるほど。
ママコ ジャン・ルイ・バローが来た日、前日に色々なことをやっていたせいで、私は大変眠かったのです。朝の8時か9時頃に、突然バローに「Where is Mamako?」と呼ばれて、びっくりして、一緒にマイムをやろうと言うのです。眠くて仕方がない中で、子どもが凧揚げするマイム作品を必死で演じました。
佐々木 それは、どこでやったのですか。
ママコ 劇団のスタジオです。勿論、劇団のメンバーからは、ママコがバローに言われて演じたことで、好意的な大拍手がありました。それから、彼が「Elle est parafait!(彼女、完璧)」とか言って、上着を脱ぎ始めて、パントマイムの作品を始めました。バローが演じたのは、馬の調教のパントマイムでした。馬に乗って少し走らせて、ムチを打って馬におじきをさせて、馬を座らせるという感じの作品です。彼の足が動くと、馬が本当に動いているように見えました。
佐々木 バローは、どんな印象でしたか。
ママコ 私は、自分が指名されて、必死だったのであんまり覚えていません。舞台の彼はよく覚えていますが。その後、私がフランスに行った時には、もう引退されていて、晩年のバローはアルコール中毒患者になったという話を聞きました。ワインを飲み続けて、止まらなかったみたいです。でもバローの影響力はすごかった。天井桟敷の人々を世界中の人が見て、バローのマイムに感銘を受けたのですからね。

佐々木 あと、ドゥクルーやルコックとの交流もあったのですか。
ママコ ドゥクルーには、渡米の最初の頃にアメリカからパリに行って、パリで学びました。ドゥクルーは、非常に自分のメソッドに厳格な方です。ある時に即興をやらされたことがありました。私はそれこそ当時は“巴里のアメリカ人”で、内面が荒れ狂っていて、しかも、アレルギーの病気になっていたので、非常に変な即興を演じたのです。他の生徒は大喜びで笑いに笑いましたが、大変ダメな即興でした。約1~2カ月、そんな時期が続きましたが、彼は本物のすごいアーティストで、私が、病気が辛くて、涙を流しながら稽古をしていても、ふっと腕を掴んで、じっとこちらを見ているという思いやりがありました。
佐々木 ママコさんがお会いしたドゥクルーは、エティアンヌ・ドクルーさんですか。それとも息子のマクシミリアンですか。
ママコ エティアンヌ・ドゥクルーです。マクシミリアンとは、一度も会っていません。ドゥクルーは小柄で、彼の生徒の方が身体が大きかったのが印象的でした。

佐々木 ルコックとの交流はいかがでしたか。
ママコ ルコックには1ヵ月程度学びました。私は、とてもやっかいな生徒だったんです。ルコックが、ニュートラルの仮面を設定した(付けた)と言った時に、私はそれはニュートラルでないと言ったんです。それ自体が非常にドラマティックで、ゼロにならないと言ったのです。普通の先生ならそういう否定的な言動を根に持ったりするのですが、ルコックは流石に本物で根に持ちませんでした。彼がマイムの即興をやったら、とても面白かったです。また、教室が終わった後に、ルコックがこれまでにこのクラスに来た生徒の中に4大マイムがいると言って、その1人に私の名前を挙げて下さったので、非常に平等だと思いました。
佐々木 ルコックに習ったのはいつ頃ですか。
ママコ アメリカからパリに行った時なので、60年代の夏ですね。後で、ACT劇団にルコックさんが訪ねてきたのですが、不肖の弟子の私に一番先に挨拶してくれました。彼は、いつも冷静で一種の仙人というか、科学者みたいなところがありました。私が「ウェイター」のマイムをする時に突然顔をつくり変えて演じますが、彼の演技は本当に自然で、物の見方が科学者みたいだなって思いました。
(つづく)
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『パントマイムの歴史を巡る旅』第21回(ヨネヤマ・ママコさん(3))

2014-06-03 01:10:34 | スペシャルインタビュー
(インタビューの3回目は、米国での波乱に富んだ生活のエピソードをお届けします)
佐々木 カリフォルニア大学エクステンションの講師時代のエピソードをお聞かせください。
ママコ 大学の夏休みの時にラスベスカスに歌手の雪村いづみさんが来たんです。プロダクションが大勢の踊り子を連れてきて、そのステージに呼ばれて、マイムを上演しました。20人の踊り子たちは、真珠のようなスパンコールを付けて、ほとんどビキニみたいな格好でした。ある日、私は、顔を白塗りのままレストランで食事をしていたら、(偶然出会った)女優のジーナ・ロロブリジーダさんがキレイですねって話しかけてきて、コミカルな仕草で手を差し出し、大きな指輪を見せながら挨拶して来られました。向こうの人は、非常に気さくですね。
佐々木 何か目に浮かぶようですね。
ママコ 当時のラスベカスでは、ショーは通常1日2回ですが、3回ショーを上演する時もあります。3回目のショーは、遅い時間に開演して、近所のエンターテイナ―が観に来るのです。私たちの隣のホテルでは、(コメディアン・シンガーの)サミー・デービス・ジュニアがショーを上演していて、その時、3回目はバンドと打ち合わせなしで、サービスで突然歌い出すの。後ろのバンドが慌てて譜面を探し始めて(笑)。しかし、また探しながらの演奏も上手く、可笑しい。われわれ日本人はそんなに芸が上手くないから圧倒されて、あまりに自在なので腹が立ってしまって(笑)。キラい、まいった。そういう感じでした。

佐々木 ところで、アメリカの生活ですと、やはり自動車も必要になりますね。
ママコ 大学の時にトヨタの自動車を買ったんです。中古のポンコツですよ。それで、砂漠(ラスベカス)で稽古して、サンフランシスコまで帰るのは大変じゃないですか。皆に色々と教わって、自動車の後ろにニュードライバーを示すステッカーを貼って運転したら、他のドライバーが怖がって、離れていました。交差点を渡るのにすごい時間かかるから、「チキン」って怒鳴られたりして。そんなニュードライバーが竜巻に会っちゃったのです。
佐々木 えっ、竜巻ですか。
ママコ はるか遠くに何か渦巻いていて、遠くだから大丈夫と思うじゃない。天気が大変良くて安心していたら、突然竜巻が近づいてきて。減速したら良いのか分からず、そのまま入ってしまって、そのまま突き抜けてしまいました。
佐々木 事故には会わなかったんですか。
ママコ 運が良かったんですね。

佐々木 カリフォルニア大学の後は…。
ママコ その後、アメリカン・コンサーティブ・シアター(ACT劇団)というところで教えて、次にカリフォルニア・インスティテュート・オブ・アートというところで教えて、また、ACTに戻ったのです。ちなみに、カリフォルニア・インスティテュート・オブ・アートのイニシャルがCIAです。ある時、高速道路のポリスにステッカーが未更新ということで捕まって身分証を出したら、イニシャルがCIAだから、ポリスが一瞬顔色を変えて敬礼をしそうになったのです(笑)

佐々木 ところで、大学や劇団で教えることで、収穫は色々ありましたか。
ママコ そうですね。ACTで初めて私のマイムのメソッドが確立したのです。劇団の先生になるために、大変な忍耐力が必要だったのですが、色々とつらい思いをしながら、先生をやっていました。結果的には、そこに7、8年いましたか。ACTという一つのところに長くいることによって、初めてママコザマイムの基本メソッドが誕生したと思います。毎日色々と試していくうちに、基本メソッドのようなものがそこで出来てきたのですね。
佐々木 ゼロから自分の表現を作っていくということは、大変な積み重ねが必要になるのでしょうね。ところで、1970年にカリフォルニア大学でソロ試演を上演した時はどうだったのですか。

ママコ 私の前に劇団員総出のパントマイムの発表会があって、ソロについては「十牛」という作品を上演しました。
佐々木 十牛というのは、確か禅の説話にありますね。
ママコ はい、そうです。著書「砂漠にコスモスは咲かない」に書いてありますが、自分が悩んでいたら、(恩師の)青柳日法聖人が十牛の説話を教えて下さったのです。自分の心の中の荒野で欲望が暴れているイメージがあって、その欲望を牛に例えて、10のストーリーの中の一部分ずつを上演しました。
佐々木 反響はどうだったのですか。
ママコ この作品は、ベリー・ロルフという批評家の著書に、エティエンヌ・ドクルー、マルセル・マルソー、チャップリンらの作品と並んで取り上げられました。私が十牛をやるということで、生徒が会場を移る度に私のことを噂にして下さったので、私のイメージが大女になってしまって、初めて会った人にイメージとあまりにも違っていて、小柄なので驚かれることもありました。彼らのイメージの中では、私が大女に想えたそうです。アメリカ人は自分の欲望をコントロールする欲求や方法を学ぼうとする気持ちがむしろ日本人よりも強いと思います。何しろ、劇団で教えていた頃に休暇で遊びに行ったら、その先で公演をやらされたこともありました。
(つづく)
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『パントマイムの歴史を巡る旅』第20回(ヨネヤマ・ママコさん(2))

2014-05-10 08:19:43 | スペシャルインタビュー
(インタビューの2回目は、ヨネヤマ・ママコさんが渡米して現地で安定した生活を築くまでの話を中心にお届けします)
佐々木 その後、テレビに出演して大変有名になり、1960年に渡米されたそうですが、その経緯を教えてください。
ママコ 運悪く一人の男の人につかまっちゃったわけです。その話は簡単にしますが、マスコミに非常につけ狙われて、その時に振られたものですから、表向きは笑っていても中身は惨憺たるものだったのです。それで、ちょっと外国に行った方が良いということで渡米しました。
佐々木 当時、アメリカでの生活は大変だったかと思いますが、そこでのマイムのお仕事はすぐに見つかりましたか。
ママコ いえ、最初の仕事らしい仕事を見つけたのは、4年目くらいですね。最初はハウスガールをやっていて、それからナイトクラブのダンサーになりました。ダンスをやりながら、マイムを切り開いていくというか、マイムを試行錯誤しているのです。そのクラブはアジア系のダンサーが集まって、とてもパントマイムをやるような環境ではなく、非常に大変な環境でした。一緒に舞台に出ていた女性がフィリピーノから、コリアン、中国、日本となるわけです。この環境の中で、唯一の救いは、クラブのオーナーが非常に大切にしてくれたことです。オーナーが“他は、アメリカンスープで良いんだ。ママコだけにはチャイニーズスープを飲ませろ”と言ってくれました。チャイニーズスープは、アメリカンスープに比べて材料が高いそうです。そのチャイニーズスープが当時の私の唯一の救いでした。その中で何年かやった後に、ハングリィIに移りました。

佐々木
 ハングリィIというのは、ナイトクラブですか。
ママコ ハングリィIというのは、ライブハウスです。映画監督に成る前のウッデイ・アレンが、ニューヨークの小さなライブハウスでやっていたのですが、それがハングリィIのニューヨーク版です。このライブハウスで、私の前にコメディアンで有名なビル・コスビーがやっていました。私がいた時には、女優のバーブラ・ストライサンド、歌手のメル・トーメやミュージシャンのキングストン・トリオが来たりして、非常に観客の目が高かったのです。この質の高いライブハウスが、サンフランシスコ、ロサンジェルス、ニューヨーク、シカゴ、ワシントンにあって、芸人が芸を磨いていました。
佐々木 ハングリィIの時の舞台は、どんな感じだったのでしょうか。
ママコ 本当にびっくりしたのは、一つのマイムをやって、ハングリィIの観客全員が笑うんです。今までは、(当時の)日本の観客と同じで反応が乏しくて。パントマイムで客席がしーんと静まっているのは辛いんです。生活が大変だから、場所を選ばずにやっていましたが、初めて正しい場所に作品を乗せないとダメだなと思いました。(ここで)本当にやっと作品を上演できるという心境でした。
佐々木 それまで大変苦労されたわけですね。
ママコ ハングリィIに来るまで結局6、7年かかっているわけです。仕事を取るためにかかる時間が10年単位です。だから、1、2年で仕事がないと言っている人は、おかしいです。自分の心の中に10年くらい、自分は何ができるのかって耳を傾けてないと自分が見つからないと体験的に言えるわけです。私は真っ暗闇の中を、目をつぶって歩いてきたというのが正直な思いです。

佐々木 ハングリィIには、何年くらい出演を続けたのですか。
ママコ 4、5回出させて頂いて、(そことは別に)オリエンタルのショーにも出演していました。ハリウッドの立派な制作会社のプロデューサーに声をかけられて、アメリカ中を巡業するのですが、出演者はオリエンタルの芸人ばっかりでした。行ってみると、プロデューサーの家は立派だけど、我々のツアーは非常に大変でしたね(笑)。時々そういう仕事も紛れ込んで引き受けていました。

佐々木 アメリカでは、処女作の「雪の夜に猫を捨てる」のような作品をやっていたのでしょうか?
ママコ そういうゆったりした情緒的な作品は、怖くてできなかったですね。まず舞台自体が戦いで、裂帛(れっぱく)の気迫でやらないといけないと思っていました。そこで上演した作品には、例えば『ウーマン・ドライバー』があります。女性の運転手が、お化粧に気を取られて、道を誤って曲がってしまったり、後ろの車から押されると、車から出てドヤしてみたり、エンジンストップすると、非常に非科学的な女だから、髪の毛1本で故障を直して車が動きだすという感じで、ちょっとアメリカナイズされた、戦いの作品をやっていました。

佐々木 その後は、どういうお仕事に移ったのですか。
ママコ その後、カリフォルニア大学エクステンションに移りました。エクステンションというのは、外から習いに来る人たちの意味で、カリフォルニア大学に外から習いに来る一般人のための教室の先生です。当時はハングリィIや2,3カ所小さな劇団で教えていて、その劇団にクリント・イーストウッドも来ていましたが、その時にカリフォルニア大学の先生が観に来て、大学で教えないかと声をかけられました。それで行ってみると、そこで試験をするんです。生徒が私を試験して…。
佐々木 アメリカだと、そういうことがあるのですね。
ママコ 私はまだ若いから耐えられたのですが、試験の結果が良いので採用されました。先生は「アンケート」という言葉を使っていましたが、実際は試験ですね。それから専任教師になると、スケジュールが1年分くらい次々入ってきて、困ったなあと思いました。アメリカってナイトクラブで踊っていた人間を大学の先生に採用するから偉いですね。
(つづく)
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『パントマイムの歴史を巡る旅』第19回(ヨネヤマ・ママコさん(1))

2014-04-10 01:09:54 | スペシャルインタビュー
今からちょうど60年前。1人の女性の作品から日本でパントマイムの歴史が始まった。ヨネヤマ・ママコさんの「雪の夜に猫を捨てる」。この作品の誕生をきっかけに、日本でパントマイムが芽吹き、幾年もの時を経て大樹へと成長していく──。パントマイムの草創期から活躍し、今なお輝き続けるヨネヤマ・ママコさんに、様々な困難を乗り越えたその熱い活動や作品作りについて語って頂いた。
※インタビューは何十年も昔のことも触れているため、100%正確でない可能性があります。ご了承ください。

■ヨネヤマ・ママコ氏 プロフィール
1935年 山梨県身延町に生まれる。幼少より石井漠門下であった父よりバレエの基本を教わる。
1953年 東京教育大学体育学部に入学。江口隆哉モダンダンス門下に入る。
1954年 処女作「雪の夜に猫を捨てる」を発表、ダンスマイムとして激賞される。
1958年 NHKテレビ「私はパック」のパック役でデビュー。
1960年 渡米。カリフォルニア大学、ACT劇団などでマイムを教えながら、基本メソッドを築く。
1972年 帰国し、ママコ・ザ・マイムスタジオを設立。舞台活動ともに後進を育成する。
1992年 渡仏し、パリ郊外フォンテンブローの森近くにアトリエを兼ねた居を構え、新しい研究・創作活動を開始。
同年 葦原英了賞を受賞。
1993年 帰国し、日本での活動を再開。
現在も舞台活動を精力的に継続中。2014年6月には「東京マイムフェス2014」に出演予定。

佐々木 まず、処女作の「雪の日に猫を捨てる」についてお聞きしたいのですが、この作品が生まれたのは、マルセル・マルソーの舞台を観たことがきっかけですよね。
ママコ ええ、マルソーの公演に触発されて、何とかマイムの作品を作りました。でも、身体がダンスしか知らないものですから、なかなかマイムに行かなかったです。
佐々木 この作品は、全部お一人でお作りになったのですか。
ママコ はい。時々アイデアに困って、何人かの友達に、「これ大丈夫かな」とか聞いたりして作りました。これは一番初めの創作ですから苦心しました。
佐々木 作品のどの部分に特に苦労したのでしょうか。
ママコ 一番苦労したのは、ストーリーの部分ですね。
佐々木 どういうストーリーでしょうか。
ママコ 元々の出発点が詩的なものというか、ポエムですね。真っ白い雪の夜に真っ白い猫を捨てに女の子が彷徨っているという姿を想像しました。素敵じゃないですか。女の子が、雪の中を滑ったり、転んだりしながら、猫を捨てる場所を探すのですが、隣の家の人ににらまれたり、捨てる場所が悪かったりして、色々と探すうちに雪の美しさに見惚れて踊るところがあったりして、それで、猫にちょっと噛まれることをきっかけとして、ようやく捨てて、一生懸命逃げたら、足元に猫がくっついて来ている。しばらくして、女の子が猫に気付いた時に、お客様がちょっと喜びました。
佐々木 すごい。
ママコ 舞台で一番作りたかったのは、詩情や詩的な世界です。その頃が、一番感性がしっかりしていたんですね。この作品の、捨てたと思った猫が最後に足元にくっついて来ているという展開がとても好評で、マネする人がたくさんいましたね。
佐々木 この作品は、大学生の時に作ったそうですが、創作の時のエピソードをお聞かせください。
ママコ 大学の1年か2年生で、グラウンドや校庭の片隅の小さなスタジオで創作していましたが、夜は大学の門が閉まってますから、門衛さんの助けを借りて、大学の門をよじ登って入って、そこで振付けていました。
佐々木 門衛さんって。
ママコ 門衛さんって、大学の門番ですね。
佐々木 ああ、門番(笑)。
ママコ 夜は、男の恰好をしていないと危ないから、男の恰好をしていたのですが、私が歩くと、近くにいる女の人が逃げてしまいました。当時から一人でいることにすごく強くて、だから困るんです。一人でいることが好きだったから、人生が非常に大変だったのです。

佐々木 この作品は、どこで上演されたのですか?
ママコ 青山の日本青年館です。当時の日本青年館は、舞台公演を頻繁に上演していました。その当時から、モダンダンス(現代舞踊)は、非常に作品発表が多くて、現代舞踊協会という団体が中心に今でも盛んに活動しています。私は、当時、モダンダンスを習っていて、モダンダンスの公演の中でこの作品を上演しました。

佐々木 その当時の観客は、勿論、パントマイムを観たことがなかったのですが、どんな印象を受けたのでしょうか。
ママコ 渋谷のジャンジャンが当時は小劇場運動の先駆けとして活気がありました。アメリカから帰国してそこ(ジャンジャン)で演じた時、お客さんは、笑わないで、しーんと(黙って)観ているんですよ。二幕目になってから、お客さんは、笑っていいんだなと思って笑い始めました。吉本興業は、まだ当時は東京に進出していなくて、お客さんは、まだ笑いに対して目を覚ましていなかったのです。ですから、私は「しまった、二幕目からやれば良かった」と思いましたが、一幕目が終わって、15分の休憩でお客さんが嬉しそうにしゃべっているんです。二幕目になると、私の一挙手一投足で笑うんです。まるで、こっちが教育しているみたいでした(笑)。
佐々木 観客は、初めは何かなと思って観てたんですね。
ママコ 話が戻りますが、『雪の夜』の公演が終わったら、突然サンケイホールに呼ばれて、産経新聞の新聞記者にインタビューを受けたのです。私は、大変緊張して、自分は今、どんな格好して話しているのだろうと思ったら、良く考えたら、学生服で来ていたじゃないですか。そんなような困り方で、色々聞かれたら、翌日の新聞に掲載されたのです。この作品は2、3回上演しましたが、専門家の間で評判になりました。作曲家の今井重幸さんがこの作品の作曲をして、雪をイメージしてファゴット(木管楽器)の音を入れて下さり、本当に雪が降っているように聞こえました。
佐々木 この舞台をきっかけに、パントマイミストになろうと思われたのですか。
ママコ いえ、あまりにも難しくてね。それでなろうと思ってなかったです。何かやりたいとは思っていましたけど。
(つづく)


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