『鰐』ドストエフスキー ユーモア小説集
沼野充義訳
講談社文芸文庫
「われわれは皆、ゴーゴリの『外套』から出てきた」という言葉が、ドストエフスキーの言ったこととされて確証もないまま一人歩きしてしまった、と『鰐』の翻訳家沼野充義氏は言う。自意識、それも極端で無根拠で本人すら持て余してしまう過度のもの、それはどうしたって第三者の失笑を誘う。深く掘り下げて突き詰めて考えれば考えるほど、自意識は自己の内側で空回りし、見当違いの方向へと突き進み、自らに捕われて身動きが取れなくなってしまう。ただ、本人はしごく真面目に、自己の正当性を信じて疑わない、というより、疑ったが最後自己崩壊してしまう危険を薄々感じとり、その不安がますます卑屈な自意識を生む。主人公の世界と、現実世界のズレ。これは後藤明生が言うところの「楕円の世界」だ。1つの楕円に存在する、ふたつの中心。それぞれの面は重なっているが、中心Aと中心Bは決して交わらない。中心Aのルールは中心Bのルールと決して相容れることはない。それはまさにカフカの小説の構造=不条理だ。話を元に戻すと、「ゴーゴリの『外套』から出てきた」という言葉の意味するところは、ゴーゴリ作品に共通する悲劇→喜劇への異化作用という構造から、ドストエフスキーは自意識→ユーモアに変換しようとする試みを初期作品でおこなっていたのではないか、ということだ。初期作品と限定するまでもなく、『悪霊』でも『地下室の手記』でもそのような構造は随所に見られる。そう考えると、ゴーゴリの『外套』がドストエフスキーを生んだ、と解釈することはとても自然だし、その方が素敵だと思う。
『鰐』におさめられている4作品は、ほぼ前述の「自意識」と「ズレ」が主題の短編小説だ。プライドが高くって付き合いにくい隣人にプレゼントすると、気の利いた皮肉になって意趣返し出来るかも・・・、甘いかな。
沼野充義訳
講談社文芸文庫
「われわれは皆、ゴーゴリの『外套』から出てきた」という言葉が、ドストエフスキーの言ったこととされて確証もないまま一人歩きしてしまった、と『鰐』の翻訳家沼野充義氏は言う。自意識、それも極端で無根拠で本人すら持て余してしまう過度のもの、それはどうしたって第三者の失笑を誘う。深く掘り下げて突き詰めて考えれば考えるほど、自意識は自己の内側で空回りし、見当違いの方向へと突き進み、自らに捕われて身動きが取れなくなってしまう。ただ、本人はしごく真面目に、自己の正当性を信じて疑わない、というより、疑ったが最後自己崩壊してしまう危険を薄々感じとり、その不安がますます卑屈な自意識を生む。主人公の世界と、現実世界のズレ。これは後藤明生が言うところの「楕円の世界」だ。1つの楕円に存在する、ふたつの中心。それぞれの面は重なっているが、中心Aと中心Bは決して交わらない。中心Aのルールは中心Bのルールと決して相容れることはない。それはまさにカフカの小説の構造=不条理だ。話を元に戻すと、「ゴーゴリの『外套』から出てきた」という言葉の意味するところは、ゴーゴリ作品に共通する悲劇→喜劇への異化作用という構造から、ドストエフスキーは自意識→ユーモアに変換しようとする試みを初期作品でおこなっていたのではないか、ということだ。初期作品と限定するまでもなく、『悪霊』でも『地下室の手記』でもそのような構造は随所に見られる。そう考えると、ゴーゴリの『外套』がドストエフスキーを生んだ、と解釈することはとても自然だし、その方が素敵だと思う。
『鰐』におさめられている4作品は、ほぼ前述の「自意識」と「ズレ」が主題の短編小説だ。プライドが高くって付き合いにくい隣人にプレゼントすると、気の利いた皮肉になって意趣返し出来るかも・・・、甘いかな。