高台寺圓徳院を辞して、ねねの道を北に進んで高台寺へ向かいました。途中の右手に上図の古い門がありました。高台寺の塔頭のひとつ、月真院の山門です。幕末に活動した勤皇の志士たちが御陵衛士に任じられた際に本拠地とした屯所の跡です。
門の脇の案内説明板です。U氏は二回読んだ後に「では」と中に入ろうとしましたが、正面の「こちらは非公開です」の立て札を見て入るのを止めました。私が「当時の遺跡や遺物は一切残ってないらしいよ」と言うと、なんだ、とガッカリした表情になりました。
それからまた、ねねの道を北へ歩きました。北の突き当りに大雲寺の山門と本堂、左の祇園閣が見えました。それを見ながら右の坂道に入りました。
この階段道が、高台寺への参詣道として知られる「台所坂」です。北政所が屋敷と高台寺を行き来した道であり、「台所坂」の名称はおそらく「御台所(みだいどころ)」であろうと思われます。御台所とは、大臣や将軍家など貴人の妻に対して用いられた呼称であり、北政所おねねさんも生前はそう呼ばれていた筈です。
「台所坂」を登ると上図の「台所門」が建ちます。「大門」とも呼ばれ、いまの高台寺の実質上の中門に相当します。つまり南西の表門から「ねねの道」、「台所坂」を経てこの門をくぐるのが現在の正式な参詣ルートであるわけです。
ですが、江戸期に仏殿があった頃は南側から入った筈なので、表門からどのようにたどっていたのかを知りたいところですが、それを垣間見る事の出来る資料類がなぜか見当たりません。境内地の古絵図とかを探しましたが、どういうわけか文化財関連のデジタルアーカイブにも見当たりませんでした。高台寺は近世から近代に数度の火災をこうむっていますので、その際に古い史料類は相当数が失われたもののようです。
「台所門」の建物は、大正元年(1912)にいまの本堂である方丈とともに再建されたものだそうです。U氏も「こりゃ新しい建物だな」と言いましたが、主柱や梁の一部はやたらに古い感じがするので、再建の際に前の建物の古材を再利用しているかもしれんぞ、と返しておきました。
高台寺の境内地に進みました。参拝順路は上図の庫裏の西側から回る形になります。
参拝路の入口付近に立っていた案内説明板です。
高台寺の境内地は高台に位置しますので、庫裏の西側の参拝順路をたどる途中で西から北西方向にかけての眺望が上図のように楽しめました。大雲寺の山門と本堂、左の祇園閣が見えました。
U氏が祇園閣を指して、「あれに登ったことある?」と訊いてきたので「いや、無い。時々特別公開があるらしいけど、昭和の建築なんで、あんまり興味が無かった」と答えました。U氏は「そうか」と言って再び参拝路を進みました。
まもなく上図の茶室「遺芳庵」の横を通りました。方丈の背後にある田舎屋風の茶室で、江戸初期の商人で趣味人であった灰屋紹益が夫人の吉野太夫を偲んで建てたものといいます。
京都市上京区にあった灰屋紹益の旧邸跡から明治41年(1908)に移築したもので、左側の壁一杯に開けられた丸窓が印象的ですが、現在の建物は、灰屋紹益が生きた時期まではさかのぼらず、後世に建てられたものと推定されているそうです。 (続く)