気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

豊家の余香7 高台寺開山堂

2024年02月22日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 現在の高台寺の中心的堂宇となっている、上図の開山堂です。現存の建物のなかでは最も古いとされ、昭和25年の部分解体修理の結果、未完成の建物を転用し、これに他建築の化粧部分を補足して建てられていることが判明しています。
 つまりは前身の建物があったことになりますが、それが高台寺の由緒を理解するうえで最も重要な因子であることは言うまでもありません。

 高台寺は、「高臺寺誌稿」によれば、もとは康徳寺(こうとくじ)といい、慶長三、四年頃(1598~1599)に北政所が亡き母朝日局の菩提を弔うために寺町(現在の京都市上京区高徳寺町付近)に建立したものを、慶長九、十年頃(1604~1605)に東山の現在地に移したといいます。そのために、現在地に移ってからもしばらくの間は康徳寺と呼ばれていたと伝えます。
 したがって、いまの開山堂の前身の建物とは、もと寺町にて創建された康徳寺の建物であった可能性が高くなります。元は北政所の持仏堂であったといいますから、康徳寺の仏殿としての位置にあったものと推測されます。

 

 開山堂の外観は、康徳寺の頃には曹洞宗に属していただけあって、質素な禅宗様の素木造白壁塗りの建築の様相を示しています。が、堂内は逆に絢爛豪華な金銀および極彩色漆塗りの装飾が施されていて、安土桃山期の豪華絢爛たる建築内部の姿をよくとどめています。

 現状ではかなりの退色や剥落があり、また消えてしまった文様や絵柄も少なくありませんが、それでも豊臣政権期の「豪華さ」とはどのようであったかがうかがえます。

 

 堂内の空間は、現在では正面の奥を上図のように三つに区切り、左右の間を仏壇として、左の仏壇には高台寺の普請に尽力した堀直政の像、右の仏壇には高台院北政所の兄である木下家定と夫人雲照院の像を安置しています。
 左右の仏壇の間は瓦敷の廊下となり、奥の開山塔所へと続いています。奥の開山塔所には、中興開山の三江紹益の木像が祀られています。

 これらのうち、中央の瓦敷の廊下、奥の開山塔所の部分は後からの追加工事で付けられたものであることが分かっています。開山堂の前身の建物、つまり康徳寺の仏堂であった時期にはこれらの部分は無かったようです。
 また、前身の建物はもっと左右に伸びた長い建物であったことが分かっており、これを現在地に移築した際に、左右を切り詰めて現在の規模に直しているようです。

 

 なので、U氏が「もとの康徳寺の仏堂ってのは、この開山堂よりも規模が大きかったんだなあ、なんで小さく縮めたんだろうなあ」と疑問を呈していたのには同感でした。

 いまの高台寺の敷地は広大で庭園もありますから、建物を小さくしないと収まらない、というような理由ではなかった筈です。なにか特別の事情があったのかもしれませんが、高台寺に関する諸々の文献史料には、一切の説明がありません。不思議なことではあります。

 

 開山堂の見どころの一つとされる、上図の堂内前部の折上小組格天井(おりあげこぐみごうてんじょう)を見上げました。堂内で最も技巧が凝らされた部分で、かつ優美な雰囲気をたたえています。裏板は金箔を押し、小組組子は格間部分を四つに分けて、それぞれの下端に赤、青、白、緑の彩色を施し、各色の境の組子は金箔押しとしています。

 素晴らしいのは、赤、青、白、緑のそれぞれの色が格縁の組手の位置で四枚の組子を合わせた際に組子下端の同じ色が集まって一つのブロックを構成するという、今で言うルービックキューブのような仕掛けが施されている点です。こういったテクニカルな装飾意匠は、安土桃山期特有のものであり、他の時代には見られません。現存する天井としては最も精巧な遺品とされています。

 

 この折上小組格天井については、豊臣秀吉の御座船の天井を転用したものと伝わります。その金具類のなかには、開山堂の天井にはめ込む際に切り詰めたり輪郭を修正したりしたものがあり、これらの改造の痕跡からも、天井が転用品であることが分かります。御座船の天井であったのならば、相当な大きさの船であったことになります。

 これについて、U氏が「御座船って、あれか、大安宅船の「日本丸」のことかね」と私を振り返って問いかけてきました。

「確証はないけど、秀吉の御座船というから「日本丸」よりは「鳳凰丸」のほうかな、どうやろな・・」
「ふむ、船や軍艦のオタクの君が言うんなら、「鳳凰丸」のほうか。・・・てか、「鳳凰丸」って何?初めて聞いた名だぞ・・・」
「大坂城の広大な水濠に浮かんでた秀吉の黄金造りの御座船や。確か、オーストリアのグラーツだったか、そこにあるエッゲンベルク城に伝わっとる豊臣期大坂図屏風に描かれてるんや。それをもとに、最近大阪城の遊覧船として再現されとる・・・」
「あっ、思い出したぞ、あの大阪城のお堀めぐり観光の御座船だな。最近出来て話題になったやつだな」
「そう、あれの元になってる船が「鳳凰丸」や。中央に鳳凰が載った宝形屋根が付いとるんで、その名がある」
「なるほど・・・、すると「日本丸」のほうは違うのかね?」
「あれは、もともとは九鬼嘉隆の水軍の旗艦で「鬼宿(きしゅく)丸」といったらしいが、朝鮮の役の時に名護屋城に回航されたのを秀吉が見て、最も優れた船やということで「日本丸」と名付けたんや。朝鮮の役には九鬼嘉隆が乗って行って海戦とかやってるけど、どうも秀吉自身は乗ってないらしいんで、御座船にあたるかは微妙なんやな・・・」
「ふーん」
「で、その「日本丸」はその後も九鬼氏の鳥羽藩の持ち船として改造して江戸期の安政(1855~1860)ぐらいまで在ったらしいけど、詳細が分からんのよ」
「なるほど、それで「鳳凰丸」が候補に挙がるわけか」
「いや、それも確証はない、って言うたやん・・・。あと、琵琶湖の竹生島の都久夫須麻神社の船廊下というのがあるやろ、国重文の。・・・あれが「日本丸」の遺構と伝わってるんで、本当ならば「日本丸」の上構えの建物をバラしているわけで・・・。(豊臣)秀頼が都久夫須麻神社に建物を寄進したんが慶長七年(1602)やから、その時には「日本丸」は解体されてることになる。その天井部分だけを慶長九年頃に建設中やった高台寺に持ってくる言うのは、実は可能なんやな・・・」
「ふーん、面白いな。すると、「鳳凰丸」のほうはどうなったんだ?」
「そっちはさっぱり分からん。大坂の陣の大坂城落城で運命を共にしたんかも」
「そうか。そうすると、俺たちが見上げてるこの天井、秀吉の御座船の天井を転用してるのが本当だとしても、「日本丸」なのか「鳳凰丸」なのかは分からん、強いて言うと「日本丸」のほうが可能性がある、ということか」
「まあ、そういうことになる」
「面白いなあ、それでいいじゃないか、歴史の秘められた謎ってのはさ」
「まあな・・・」

 

 堂内での歴史談義を終えて堂外に出て、庭園の池を眺めました。この庭園は小堀遠州作と伝わり、開山堂をはさんで東西に二つの池を配置します。西の池は偃月池(えんげつち)、東の上図の池は臥龍池(がりょうち)と名付けられます。周囲には枝垂桜や萩が植えられ、花の名所としても知られます。安土桃山時代を代表する庭園として、国の史跡・名勝に指定されています。 

 開山堂の東から上の霊屋に続く上図の屋根付きの廊下および階段を望みました。龍の背に似ているところから、臥龍廊(がりょうろう)と呼ばれるそうです。

 U氏が「これをまっすぐ行けば、霊屋に行けるのにな」と、立ち入り禁止の木札を見下ろしつつ、ボヤキました。昔は拝観順路になっていたと聞きますが、いまは閉鎖されて立ち入り禁止となっています。

 

 それで、臥龍廊の外観だけを眺めて、いまは南側から回り込む拝観順路へと向かいました。  (続く)

 

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