高台寺の境内の北側に回って茶室「遺芳庵」の右横を過ぎると、前方に上図の景色がひらけてきました。広い庭園の池にかかる細長い屋根つきの楼船廊が、奥の建物の軒下まで続いていました。U氏が「おお、なかなか」と感動していました。
拝観順路は境内地の北側から回り込んで、小方丈跡の横から庭園の南の門へと迂回する形でしたが、いったん庭園の西端をたどりますので、上図のように庭園内に建つ細長い屋根つきの楼船廊、その奥の開山堂がよく見えます。
U氏が、上図の屋根つきの楼船廊の中央に建つ唐破風の建物を指して「あれだな、伏見城から持ってきた観月台というのは」と言いました。
その通り、観月台は、慶長年間(1596~1615)に高台院北政所が伏見城から移築した建物です。豊臣秀吉遺愛の建物と伝わっており、事実であれば、現存する希少な豊臣期伏見城関連の遺構となります。国の重要文化財に指定されています。
この観月台は、現状では、小方丈跡の解体された北書院と開山堂を結ぶ屋根つきの楼船廊の途中に位置し、庭園の偃月池の水面をまたぐ場所にあたっていて、庭園を鑑賞するための建物であることが分かります。高台院北政所が、この観月台にて亡き秀吉を偲びながら月を眺めた、と伝わっていますが、それも史実でしょう。
この観月台が、伏見城にあった頃はどのような状態にあったのかは分かっていません。庭園などを眺めるための展望所でありますから、伏見城の御殿の庭園にあったものと推定されますが、その前に豊臣期の伏見城の詳細がまったく分かっていませんから、現存する観月台が、建てられた当初からこの姿のままであったかは不明です。
ただ、屋根の唐破風が北をのぞく三方に付きますので、もとは北に通路が付いて東西と南に視界をまわした形ではなかったかと考えられます。現状の屋根つきの楼船廊との繋がり方は、ちょっと不自然に見えるからです。例えば、庭園の中に突き出したような位置に建っていて、文字通りの月見や、庭園鑑賞の場にされていたものでしょう。
拝観順路は南へ進んで現在の本堂である大方丈の横から東に折れ、上図の通用口をくぐって庭園の南に回ります。その前にU氏が「大方丈も見とこう」と言ったので、いったん引き返して大正元年(1912)再建の大方丈を見学しました。
現在の本堂である大方丈です。創建当初の大方丈は文禄の役後に伏見城の建物を移築したものであったそうですが、現存していれば豊臣期伏見城の建築遺構として国の重要文化財に指定されていたでしょう。
U氏が「もとの大方丈を見たかったな」と呟きましたが、私も同じ思いでした。いまの京都市の各地に伏見城からの移築と伝える建物が幾つか残っていますが、大部分は徳川期伏見城の遺構と目されますので、それ以前の豊臣期伏見城の遺構の様相や実態は不明のことが多いです。徳川期の建物はだいたいが豊臣期の建物の再興または模倣とみられていますが、それでも豊臣期ならばでの色々な要素や特徴が、かなり省かれたり失われたりしているものと推測されます。
本堂である大方丈の南には、上図の勅使門が建ちます。大方丈の正式な表門にあたり、大方丈と同じ大正元年(1912)の再建です。
庭園の門をくぐって中に入り、正面の開山堂に進む際に、左手の上図の細長い屋根つきの楼船廊を見ました。楼船廊の床が一段高くなっている部分が観月台の床面にあたります。楼船廊の向こうには、2025年秋の竣工を目指して再建工事が進行中の小方丈の覆屋が見えました。
この楼船廊は、もともと小方丈まで繋がっていたといいますから、いまは切れて無くなっている部分は、小方丈の再建にともなって新たに追加されるのでしょうか。U氏も私も屋根銅板の寄進を行ないましたから、竣工後の立派な小方丈の姿を見るのを楽しみにしています。
さて、正面の開山堂に進みました。 慶長十年(1605)に高台院北政所が高台寺の持仏堂としてに建立したもので、その後寛永二年(1625)に増築を受けて現在の姿になりました。
入母屋造本瓦葺きの禅宗様の仏堂で、後に高台寺の中興開山の三江紹益の木像を祀る堂となって、今に至っています。高台寺創建以来の貴重な建築遺構で、国の重要文化財に指定されています。 (続く)