平等院の鳳凰堂を眺めつつ、拝観順路に沿って園池の西辺へまわりました。見学客の多くは西側の「平等院ミュージアム鳳翔館」に入っていきましたが、U氏と私はその脇から塔頭浄土院前の参道に進み、左折して南門へ向かいました。
途中の右側に、上図の養林庵書院がありました。桃山期から江戸初期頃の建築で、国の重要文化財に指定されています。普段は非公開で、特別公開も稀にしか行われないと聞きます。
この養林庵書院も、伏見城からの移築と伝わりますが、確証がありません。文化財関連の資料でも伏見城移築伝承に関しては触れておらず、岩波書店の「平等院大観」の養林庵書院の解説記事においても、建物を江戸初期頃のものとする見解が述べられるにとどまっています。
平等院は江戸期までに度々の火災に見舞われており、それによって寺の歴史史料や記録類の殆どが失われたという経緯があり、そのために文献史料のうえで平等院の歴史を探り確かめるという検証作業がほぼ不可能になっています。私自身も鳳凰堂や本尊の定朝仏を研究するうえで史料不足という分厚い壁に突き当たって苦労させられており、外部の史料や当時の貴族階級の日記類から断片的に情報を得るしか方法がありませんでした。
なので、養林庵書院に関しても、それを管理する塔頭の浄土院が古記録類を火災で失っているため、文献史料がありません。確証が無いのも当然で、伏見城移築伝承に関しても検証して確認することが不可能となっています。残念なことですが、仕方がありません。
あとは、養林庵書院に入って内部の様相を実際に見てみることしか出来ませんが、特別公開されることが稀であるため、いまだに見学の機会を得ていません。U氏も「いつか見に行きたいねえ」と話していました。
養林庵書院の門前を過ぎて石段を登ると、「平等院ミュージアム鳳翔館」の南西隅に上図の丹塗りの門が見えてきました。
いったんくぐって外側に出て、あらためて振り返り門に向き合いました。これが平等院南門です。現在も南の観光駐車場からの拝観路の南の出入口として機能しています。
こちらは脇に案内説明板が設けられています。「伏見桃山城からの移構とされ」とあります。平成二十二年の修復工事に際して材がアカガシであることが確認されていますが、アカガシは戦国期の城門に多用された木であることが諸史料から知られ、この門がもとは城門であったことを示唆しています。
確かに外観は、城郭では一般的な冠木門タイプで、寺院の門としてはあまり見ない形式です。部材が太くて頑丈に造られ、装飾の類が一切みられないのも、寺院の門にはあまりない要素です。
U氏が「これも、さっきの北門と同じでもとは冠木門だったんだろうな、屋根は後から付けたっぽいな」と言いました。しかし、冠木門だったと仮定した場合、その冠木(かぶき)の左右から肘木が張り出しているのには違和感がありました。それを指摘しようと思いましたが、U氏も気付いたようで、「あの出っ張ってるのは何の部材だろう」と付け足しました。
再び近づいて冠木の上の部材を見上げました。上図のように、肘木の内側に水平に板が張られていました。
U氏が「これ、天井の板なのかね?」と言いましたが、私もこういう部材はあまり見た事がないので、「天井と言われれば天井に見えるな・・・」と返すにとどまりました。寺院の門に天井がつくケースは無いわけではありませんが、頭貫にあたる冠木の上に張ってあるのは初めて見た気がします。
さきに見た案内説明板では、「天井板を備えた古式武家門の姿を良く残す」とありましたが、そもそも日本に現存する数多くの武家門のなかの古式な遺構に、こういった天井板が供えられたケースを見た記憶がないのです。
私の覚えている限りでは、現存最古の武家門は、秋田県の角館にある旧石黒家の門、城郭の門としては愛媛県の宇和島城の上り立ち門が挙げられますが、いずれも天井板がありません。それよりも古い遺構があるかどうかは確認していませんが、基本的に武家門に天井を張るケースは珍しいのではないかと思います。
しかも肘木と共に前方へ板が庇のように張り出しているので、天井には見えませんでした。そもそも、この門の主柱が左右とも屋根の棟木まで続いておらず、冠木の上にも出ていません。それで屋根をどう支えているかというと、天井のように張られた板の上に細い材が組まれて屋根を支えている、という変わった構造になっています。
なので、この門がもとからこういう構造ではなくて、後で屋根を追加して現在の姿になったことが理解出来ます。城門であったのをここへ移して平等院の門にした際に屋根と屋根を支える板を追加したのでしょう。
しかも、問題の板は後方へも張り出して、門の支脚の上に通された貫に打ち込まれているのでした。つまり門の主脚上ではやや前に庇のように張り出し、後ろの支脚の上では上図のように張り出していません。つくづく、変わった構造だなあ、と思いました。
U氏が推測したように、これはもとは冠木門だっただろうと思います。ここに移して平等院の門にしたときの改造で、冠木上に天井のような板を張り、そのうえに小屋組を組んで支持材として、屋根を追加して支える形に改造したのだろうと思います。
U氏は「もう一つ考えられるのは、これが元は櫓門で、上に櫓があって、その床板だけが残されている、という・・・」と話していましたが、なかなか面白い推測だと思います。城門だったのならば、その可能性もありますが、寺院の門に改造されて原形を失ったいまとなっては、確認のしようがありません。
門扉の内側の閂です。シンプルな造りです。この門は城門としては小型に属して防御性も高くないタイプですので、伏見城にあったとしても本丸や二の丸といった重要区画に設けられたのではなく、外郭部の通用門クラスであったかと推測されます。
屋根を見上げました。部材は綺麗に保たれており、例の天井板と同じ材が屋根裏にも張られているようでした。さきに見てきた北門と同様、こちらの南門も冠木門の冠木と主柱だけが古くて、さらに材はアカガシであるわけです。かつては伏見城のどこかの通用門クラスの冠木門であった、とみなして移築伝承を前向きに捉えておいても良いでしょう。
最後に屋根の妻飾りをチェックしました。御覧のように下の広がりが小さく、釘隠しの飾りが木製で設えられています。江戸初期によくみられる形式です。屋根が江戸期に追加されたことを示しているのでしょう。
かくして、平等院に伝わる、伏見城移築伝承のある二棟の門を見ました。今も平等院の南北の拝観出入口として使用されており、いずれも元は冠木門であった可能性が高いと考えられます。
時間があるのでU氏が「鳳翔館」も見て行こう、と言い、南門から引き返して「平等院ミュージアム鳳翔館」を見学、それで平等院での拝観見学を終えました。退出する際に、U氏が「次に行く時は、怜子さんを連れていけよ、必ず」と念を押すように勧めてきたので、頷き返しておきました。
京阪宇治駅まで歩いて戻る途中で、U氏が「これで京都にある伏見城移築の伝承の建物はみんな回ったことになるのかね?」と訊いてきましたので、「いや、あと二ヶ所残ってる」と返しました。「そんなら次は秋に行こうぜ」となり、それで秋の京都巡礼の基本プランが決まりました。
「それで秋に残る二ヶ所を回るとして、その次には別のテーマで京都巡りがしたいよなあ」と言うので、どんなテーマかと訊き返しました。U氏はなぜかニヤリとして、「応仁の乱とか、戦国時代の混乱期のさ、足利将軍家とか管領家の拠点とか城とかの史跡を回る、ってのはどうだな?」と言いました。
あ、それええなあ、と思いました。もう少し時代を下げて織田信長の活躍期あたりまでの史跡や遺跡も含めたら面白いかもしれません。一般の多くの京都通や京都ファン、京都の歴史愛好家などでもあまりタッチしていないジャンル、カテゴリーであるので、観光資料やネット上の情報でも網羅されていない未知の事柄、埋もれた情報が数多く発見出来そうな気がします。とりあえず、それでいってみるか、ということになりました。 (続く)