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吉田社から真如堂へ5 真如堂の武人と画人の墓

2023年03月11日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 真如堂こと真正極楽寺の本堂下でしばらく立ち止まり、何度も拝見した本尊阿弥陀如来立像の姿を思い浮かべました。一般には「うなずきの阿弥陀」と呼ばれて親しまれているそうですが、学術的には非常に価値の高い彫刻作品です。

 真如堂の根本縁起である「真如堂縁起」によれば、平安時代の永観二年(984)に延暦寺の僧戒算が夢告によって、延暦寺常行堂の本尊である阿弥陀如来像を神楽岡東の東三条院詮子(一条天皇生母)の離宮に安置したのが寺の始まりとされています。その八年後の正暦三年(992)に一条天皇の勅許を得て本堂が創建されたといいます。

 この「真如堂縁起」の内容を今に伝わる本尊阿弥陀如来立像の実態に即して解釈しますと、延暦寺常行堂の本尊である阿弥陀如来像(円仁が唐から請来した像であったとされている)の模刻像を、東三条院詮子の離宮に安置し、その離宮を寺となして本堂を建立し、これに像を安置した、という流れになります。

 阿弥陀如来像は秘仏で11月15日のみ開帳されますが、国立博物館の特別展などに何度か出陳されていて、私も三度ほど見学した記憶があります。本堂での開帳よりも博物館の特別展示のほうが間近に見られるので、その日本風に翻案された美しい姿や優しい表情がとても印象に残ります。

 その作者に関して、恩師の井上正先生は何度も「康尚(こうじょう)だよ」と断言されていました。時期的にも符合しますし、作風からみても首肯出来るので私も異論が無かったのですが、像の顔の独特の眉の造りがどうしても気になっていて、「あれは連眉(れんび)の名残ですかね」と聞いたのでした。
 すると井上先生は「うむ、いい視点だ、元になった(延暦寺常行堂の本尊)像は円仁の請来像だったのだからね、インド風の表現が色濃く出た像だったんだろうね」と満足げに微笑されました。

 連眉とは、左右の眉が真ん中で連なっている状態のことで、インドや中央アジアの民族に見られる顔相の一要素です。今でもインドではごく普通にみられますし、古代からのインドの仏像や仏画などにも数多く見られます。仏教のアジアへの広がりにともなって、インドの仏像が中国にもたらされ、さらに朝鮮や日本にも請来されていたのが古代の仏教美術の伝播のかたちでしたが、日本はその流れの最終地点にあたりますので、外からもたらされてきた仏像も、当時の有力な寺院であった延暦寺におさめられて安置されたわけです。

 真如堂の本尊像は、その異国からやってきた仏像を、十世紀後半期の日本人の表現感覚で模刻したものです。日本風にアレンジされて優しい姿になっていますが、モデルとなった延暦寺常行堂の本尊像の面影を、連眉という特徴にとどめて受け継いでいるわけです。その作者が康尚(こうじょう)であるとされますが、その康尚の息子が、私の研究対象である定朝(じょうちょう)です。宇治平等院鳳凰堂の本尊阿弥陀如来坐像の作者です。

 なので、康尚の関与した仏像についても、井上先生に教えられるままに一生懸命に勉強したものです。定朝は康尚の息子であると同時に弟子でもありましたから、康尚が製作した仏像の幾つかにおいては、定朝も手伝っている可能性があります。だから長く定朝の仏像を研究している私にとっては、今回の真如堂本尊阿弥陀如来立像のような、康尚時代の基準作例たる仏像というのは、重要な観察検討の対象でありました。

 だから、真如堂へも何度も行き、古文献をあさり、先行研究資料の山と格闘しつつも、本尊阿弥陀如来立像が示す様々な情報を必死で把握して理解しようと努めた経緯がありますが、いまではそれらも懐かしい思い出の一コマになっています。

 

 本堂の脇にある、京都映画誕生の碑と説明板です。初めて見たので、こんなのあったかなあ、と首をかしげつつ、説明板に近寄って読んでみました。

 

 説明文によれば、京都映画誕生の碑そのものは2008年に建てられたようです。なんだ最近のことか、道理でこの碑を以前に見た記憶が無いわけだ、と納得しました。

 

 それから本堂の南の広大な墓地に行き、今まで全く訪れる機会が無かった二人の歴史人物の墓を探して参拝しました。上図の並び建つ二基の墓塔がそれでした。

 

 向かって左の墓石は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で、明智光秀の家臣であった斎藤利三(さいとうとしみつ)の墓です。一般には春日局の父親として知られており、大河ドラマでも何度か登場しています。

 

 そして向かって右の五輪塔は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した絵師で、海北派の始祖とされる海北友松(かいほうゆうしょう)の墓です。その父親は浅井氏家臣の海北綱親(かいほうつなちか)でした。

 この二人の墓が隣り合っているのは、何かの事情があるのだろうか、と思いましたので調べてみたら、生年が一年しか違わない、同時代の人物だと分かりました。
 しかも二人は友人であったのだそうです。斎藤利三が主君明智光秀の謀反に連座して処刑された後、その遺骸を海北友松や真如堂の住職であった東陽坊長盛が夜間に奪い取り、真如堂墓地へ葬ったということです。その関係で、海北友松も墓を斎藤利三の墓の隣に定めて、今なお仲良く眠っているわけです。なんかええ話だな、と感動しました。

 

 二人の歴史人物の墓に詣でた後は、境内を東へと横切って、次第に薄暗くなってゆく中、上図の東参道を降りました。

 

 寺では裏参道と呼ばれる、東参道の入り口です。白川通から真如堂へ参拝する場合の、唯一のルートです。

 

 真如堂は、高台にありますので、白川通へは上図の坂道を南に降りて道なりに東へと折れます。白川通に出て近くのバス停「真如堂前」でバスに乗り、帰路につきました。退勤後約2時間ほどの、ミニ歴史散策でした。  (了)

 


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