吉田神社本社から境内路を南東へ進むと東側に上図の菓祖神社への鳥居および参道がありました。菓祖は「かそ」と読むのかな、変わった名前だな、と思いつつ、そちらへ行きました。
菓祖神社の社殿です。案内板が見当たらないのでタブレットを出して検索しました。それによると、菓子の祖先神の合祀によって昭和32年に創設された神社であるそうです。祭神は、果物の祖とされる橘を日本に持ち帰ったとされる田道間守命と、日本で初めて饅頭をつくったとされる林浄因命の二神です。京都を中心に多くの菓子業界の方々から信仰を集めているそうです。
菓祖神社から境内路に戻って、南へと進んで丘上に登ると、西側に上図の山蔭神社が見えました。山蔭って、吉田神社を創建した藤原山蔭のことかな、と考えましたが、それで正解でした。
山蔭神社の案内板です。吉田神社を創建した藤原山蔭を祀る神社として、昭和32年の吉田神社御鎮座1100年大祭を機に、全国の料理関係者の協賛を得て昭和34年に創設されたそうです。
藤原山蔭は、平安時代の日本料理の流派のひとつ四条流庖丁式の創始者としても知られ、古来より全国の料理関係者の間で包丁の神・料理飲食の祖神として崇められています。最終官位は従三位中納言で、「今昔物語」19巻の第29話にも「亀報山陰中納言恩語」として登場します。山蔭中納言が以前助けてやった亀が、山蔭の息子(如無)を救って恩に報いる説話です。
山蔭神社からさらに南西へ緩やかな登り道を進んで広場に出ると、その南に上図の斎場所大元宮がありました。
斎場所大元宮の案内板です。
かつて左京の室町にあった社を吉田兼倶が文明十六年(1484)に現地に造営して遷座せしめ、吉田神道の根元殿堂として祀られました。吉田神道の教義において大元宮は宇宙軸をあらわし、始まりの神(虚無大元尊神)を中心に祀りました。そこから生まれ来る八百万の神々を祀る事によって、全国の神々を祀る社とみなされました。
したがって祭神は、延喜式内社全3,132座の天神地祇八百万神となっています。これを祀る上図の本殿は八角形の本殿に六角の後房を付けた特異な形状を示します。現在の建物は江戸時代の慶長六年(1601)の再建で、国の重要文化財に指定されています。
本殿の手前の中門も江戸時代の建築で、そちらは京都府の有形文化財に指定されています。 (続く)