車椅子で卓球@渡邊剛

2013年より車椅子卓球をスタート。備忘録の意もこめてここにブログを綴ります。
内容は基本パラ卓球、時々食文化。

自己防衛

2025年01月29日 21時33分42秒 | 日記
今回は卓球の話ではない。

少し前になるけど、衝撃的な話を聞いた。

卓球で時々ご一緒する車椅子のマダムがいるのだけれど、その方がバスの中で盗難被害に遭ったというのだ。

どういった被害かというと、それはスリや置き引きではない。

なんと、車椅子座面下に備え付けてあるネットを張った収納スペースに置いていた、買ったばかりの卓球のラケットをケースごと奪われたというのだ!

「〇ルカリで売れるのが分かっているからみたいね」と本人は笑いながら話していたけど、そんなことがあるの!?と驚かされた。

バスの中で、そのマダムの周りを囲むように若い男性(学生)4人が寄ってきたという。

不気味に思ったというし、怖かったとも言われていた。

だけどその時は特に何をされるでもなかったからホッとしたという。

でも彼らが下りた後、そこにあるはずのラケットケースが無いのに気づいたという。

ちなみにそのケースを彼らが持って歩く様子をバスの運転手も含め目撃した人がいたという。

そのマダムは即時警察に被害届も提出。

そうした目撃証言も伝えたというけれど、明確な証拠にはならないと言われたらしく、マダムは「仕方ないね」と諦めていた。

ちなみにその4人組、その近所では顔も知られていて、全員かどうかは分からないけれど中には知的障害者も含まれるという。



日本社会は世界最高水準の安心安全な社会だと思っている。

個人主義よりも良い意味で全体主義というか集団や社会を意識する傾向が強いからこそ、治安の維持とかソフトハード共に社会インフラのレベルが高い国だと思うし、だからこそ僕らのような障害者も安心して生活していける、社会進出していける国だと思っている。

がしかし、こういう事例を耳にすると悔しさや怒りと共に、大きな危機感を覚える。

「自分だったらどうする?」



障害者、ハンディキャッパーだからこそ、日常生活の様々なところで何かしらの「助け」を得ることが多い。

だから僕らはそれをあてにしがち。

「してもらう」「してもらえる」をある意味当然なことと思ってしまっている場合も少なくないし、そういうシーンを目の当たりにすることも日常的にある。

でも個人的にそれは「間違い」と思うことも少なくないし、むしろそれは「勘違い」と思う瞬間も少なからずある。

障害者だから助けてもらって当たり前、守られて当然という認識を僕は肯定しない。

障害者である前に僕は一社会人でありたい。

だから「自立する」「しようとする」意識と努力(その内容は個人差があって当然で一概のものではない)がまず不可欠だと思っている。

本人の努力が必要でもあり、その気持ちを活かす環境もまた少なからず必要で、そうすることで障害者が社会の一員として同じステージで生きていく、それこそが「共生社会」なのだと考える。



話を戻して、じゃぁこういう時はどうすればいいのだろう?

誰かに助けてもらう?

助けを求めたら誰かが必ず助けてくれる?

助けを求めたけど誰も助けてくれなくて、結果的に被害にあってしまったら「誰のせいだ!」と考える?

先述した通り、障害を持つ社会弱者だから、社会では必ず誰かに守られている、なんて考えるのは僕は間違いだと思っている。

全然知らない見ず知らずの人に守ってもらえるなんて考えは自身の安全の担保には全くならないと思っている。

ドライだと思われるかもしれない。

でも僕はそれもまた現実の一面だとも思っている。

実際の話、僕は道路で段差に躓き車椅子から落ちてしまったことが何度かあるけど、その場合ほとんどは近くの方が助けに来てくれたりあるいは声をかけてもらった。

でもその経験の中で一度だけ、比較的若い夫婦(カップル)に目の前を素通りされたことがある。

素通りするんかい!と心の中でつぶやいた(笑)

別に助けて欲しかった訳ではないし助けを必要としていた訳でもないけど、声もかけずに見て見ぬふりをする社会がその時はすごく残念に思えたのだ。

僕は自分で地面から車椅子へ乗り上がることは出来るので、そんな時でも助けを求めることは基本しない。「あら、落ちちゃった」と自分で車椅子の位置を適正に直し自分で乗り上がる。だから声をかけてもらっても「ありがとうございます。大丈夫です。」という場合が多い。だから怪我でもしていない限り大丈夫なのだけれど、でもその場に遭遇して素通り出来るのはまたすごいことだなと思ったのをはっきり覚えている。



それもまた現実

だから、僕は自分の身は自分で守るのが基本だと考える。

車椅子から一人で乗り上がる、これも自分を守る為、生き抜いていく為に必要なスキルだと考え出来るようにしている。

出来ない時、やりにくい時はどうする?を考え、対処法を想定したりもする。



こんなこと言うのもなんだけど敢えて言う。

例えば財布を奪われる、荷物を奪われる、命を狙われる。

移動が人よりも遅い、瞬発力が無いとなれば格好の餌食になる。

弱肉強食が自然の摂理だとすれば、僕らハンディキャッパーは・・・

だからこそ、進化論じゃないけど僕らもそれぞれ成長していかなければならない。

守ってもらうのではなく、生き残っていく為に自分で自分を守る、その心がけを忘れてはならない。



だけど話を戻せば、「弱きを助け」という倫理観があるからこその人間だと思うし、そうした倫理観とか理性をもって判断行動することが単なる動物、生物ではなく「人間」としての証明になるものだと思っている。

「理性をもって本能や感情を自制するからこその人間なんだよ」

と教えてくれたのはお世話になったシェフだ。

なのに、奪いやすいからと社会弱者をターゲットにするのは様々な点で痛々しいことだと思うし、それは誰の目にも残念に映るものだと思うのだけど(武士道精神や大和魂にも反するし、それこそ「風上にも置けない」日本人としてのアイデンティティを損なう行為)、それが未だ絶えないのは、人類を俯瞰すればものすごく情けないものだと思う。

振り込め詐欺とかロマンス詐欺なんかもそうだし、高齢者宅への強盗なんかもまさにそう。

弱者をターゲットにした犯罪。

犯罪だけじゃない。

飛躍させるけど例えば、男性が女性を「落とす」絶好のタイミングはその女性が「振られた時」とも言われるけど、でもそのタイミングだからってそれを好機と捉えて行動に出るのってどうなの?と僕はそれを否定的に思ったことがある。
それってハイエナみたいじゃない?
「弱者」を狙ってるだけじゃない?
それで良い恋愛が出来るの?
それで「本物」になれるの?
と思うのだ。
もしそれが好きな人であったなら尚の事、敢えて見て見ぬふりをして、弱者から回復したところで正々堂々いう方が僕は「スマート」に思う。

そうしないと、自分を内面的弱者に貶めることにもなるだろうから。

自分がどう思っていても人からそう思われたら、そういうことだ。

だからこそ、武士は食わねど高楊枝、という志、生き様に僕は美を思う。



とにかく、そんな事例が身近で生じたということにまずショックを覚えるし、性善説を信奉したい身としてこの案件は衝撃が強すぎる。

だからこそ、より自衛心が高まるというもの。

様々な角度からあらためて注意しなければならないと思わされた。

すごく残念だ。

そのマダムには最近お会いしていないけれど、お元気にされていることを願う。

と同時に、この社会において弱いとされる立場にある方々にこうした被害が及ばない、そんな環境を作り上げていきたいと願う。

「共生社会」という言葉は立場上よく口にするけれど、その道のりはまだまだ長いということか。

でも出来るからやるのではなく、やるから出来るようになる、頑張り続けるから出来る、実現できるもの。

そこを目指して、フォーカスして、前進していかなきゃいけない。

まず自己防衛を心がける。

その中には「手と手を取り合える環境づくりはまず自分から」という理念も含まれている。

世知辛いけど、頑張っていこう。

皆さんもどうぞお気をつけください。

2024年を振り返る

2024年12月26日 21時42分32秒 | 日記
結論からすると、別段大きなターニングポイントの無い一年だった。

けれど、小さい(という表現は使いたくないけれどw)ところでの変化は様々あったしそれを実感出来た一年でもあった。

その積み重ねというか集合体というか、それが結果的に僕の中で大きな変化をもたらしてくれて、一年の終わりのこの時期にはこれまでにない気づき、発想を得ることが出来た、そんな一年になった。

ここで再三言ってるけど、ホント、積み重ねだと思う。

それがどれくらい積み重なるといいものなのかは分からなくて、基準も明確じゃなくて、でも積み重ねなきゃいけなくて、これでどうだ!と思っても足りていなくて、それで打ちひしがれてるとその間に置いていかれるから、だからとにかく歯を食いしばって積み重ね続けなきゃならなくて・・・の繰り返し。

でもそうしていると「あ、そうだったんだ」と気づく、納得できる瞬間があって、それは積み重ねているからこそ気づけること、得られる答えであり、言い換えるなら努力の証(自己評価でこういう言葉を使うのは好きじゃないけど子供たちを含む他者にはよく使うw)で、結果的にはそれを今まで以上に実感出来た一年に思える。

学ぶとか学習するとか情報のインプットは好きな方なので内側の構築備蓄はそれなりに出来ていると胸を張れる。問題は結果というパフォーマンス、アウトプットの部分なんだなぁ。

12月にあったものすごく大切な試合がまさにそれだった。

非公開で行われる来年度の代表選考会。

そこに合わせて取り組んでいたし、コンディションもバッチリの状態だった。

積み重ねてきたことも今までになく自信を持てていたし、今の自分の力を存分に発揮してやろう!という意気込みもあった。

がしかし、練習の成果を発揮できない(笑)

いつまでそんなことやってんだ!と叱咤×10、激励×0の自己評価だった。

確かに良い部分もあった。

でも反省点の方が何十倍も多かった。

自身があったからこそ、今回は特に酷く感じた。

それをどうすれば解決出来るのか?

どうすべきなのか?

もうずっとそれを繰り返している訳だけど、ここにきてまたこの感じというのには自分自身悔しい思いだったしショックを受けた。

ホント、この繰り返し。

そんな感じでこの一年を締めた訳だけど、でも確実に積み重ねているものは実感出来ていて、今までずっと僕を覆っていたモヤモヤがようやく消えて晴れ渡りそうな機運を感じ得ることが出来た。

長かった(笑)

これこそまさに周囲の支えのお陰。

様々なコーチ達の存在、指導、その学びがあればこそ。

これを維持していくには自分自身の根本的な成長が絶対条件であり、その成長があるからこそそれを取り巻く様々なものが成長していけるのだと思う。



「アスリート・ファースト」

という言葉が一時流行ったけれど、僕のお世話になっている専門家曰く、「あれは間違った言葉なんです」と言っていた。

日本では東京2020が決まった頃から使われるようになった言葉だったけど、欧米ではそんな言葉は使っていなくて、基本理念としてはその当時からすでに「アスリート・センタード」という言葉があったそうだ。

その意味は敢えて割愛するけど、自分自身の活動において、センターに位置する自分の更にセンターの部分を磨き成長させていくことが大切だと思う。

そのコアの部分の成長があればこそ、そこから成長が広がっていくというもの。

枝葉の成長の前にまず幹や根の成長がある訳だし。

そっちが育たなきゃ自立すらできない。

そんなのは嫌だ。

「基礎」とか「土台」というけれど、何をもってそれとするのか、解釈それ自体が人それぞれ。

その点僕のそれはしっかり定めることが出来ている。

だからこそ、それを軸としてこれからもしっかり成長していけるようにまず自分を磨いていく。

それが未来という結果を生むはずだから。

でも世界中のみんながそうやって成長し続けている。

だから競技の世界において成長っていうのは自己満足では成り立たない。

他者の存在を認めつつ、受け入れつつ、磨いていかなければならない。

その為に必要なのは・・・

うん、理解出来ている。

現状に満足する訳ではないけれど、だからこそさらなる成長を求めて試行錯誤していける。

この調子で来年も頑張っていこうと胸を張れる。



人生で大穴を当てるようなことはまず無いと言えると思っている。

ゼロではないだろうけど、だからってそれを当てにするのは僕の生には合わない。

だから、僕はコツコツと積み重ねていく方が良い。

来年もそうしていく。



今年もお世話になりました。

ありがとうございました。

来年もまずは体調管理をしっかり行ってケガなどもしないよう十分に注意し活動していきます。

皆さんもどうぞよいお年をお迎えください。

カモン白蛇!(笑)

大阪遠征

2024年12月06日 21時43分14秒 | 日記
毎年大阪舞洲で年に2回開催されているピンポンパーンという車椅子卓球大会があって、今年も参加させていただいた。

一般的な大会や公式戦とは違って、車椅子の卓球チームが主催するものなのでアットホームな感じで、また「もてなしの心」が様々なところで見受けられる温かくユニークで面白い大会。

でも、参加する選手は国内トップの選手が多く、今年の全日本でクラストップの選手が3人、2位の選手が5人、僕を含めベスト4の選手が4人、他にも国内トップレベルの選手が様々に集った錚々たるメンバーによる大会。

更には立位や健常者の方も車椅子に座って参加OKの大会なので、立位の代表選手やプロコーチなども加わったハイレベルな大会なのだ。

だからこそエントリーする価値があるし、大会スポンサーでもある地元企業のマジで美味しいご当地ソースが参加賞でもらえたりもするので2度おいしいのもあり(笑)、パラ卓球界では時期の風物詩と言える大会でもある。

参加する選手それぞれで目的意識は様々あるだろうけど、僕の場合は次の試合に向けた確認と準備という意味合いが強く、テーマをもって挑むものだった。

僕は金曜日に仕事を終えてから移動し、土曜日は会場でお昼から多くの選手達と一緒に前日練習。

そして日曜日が試合という流れ。

ちなみに僕はいつもマイカーで移動。

日曜日も試合を終えたその足で車を走らせ帰京したのでした。



そして試合。

主催者の判断により選手のレベルに応じた予選リーグが設けられ、更に当日のくじ引きによる組み合わせでメンバーが決まるというシステム。

僕は上位のリーグに入れていただいたのだけれど、そこもすごく濃いリーグに。

パラリンピアンがいれば健常者プロコーチがいて、立位代表選手がいて、さらにもう一人代表選手がいるというもの。

障害によるクラス分けはないけれど、考えてみればリーグ内では僕が最も重いクラスだった。

そんなこと全然意識してなかったけど(笑)

その5人リーグで結果は1位と5位が確定。

2~4位は僕を含む3選手が勝敗数もセットカウントも全く同じということでじゃんけんで順位を決めることに(これも事前にアナウンスされていた方法)。

そのじゃんけんで僕は負けて4位確定。

1~3位が上位トーナメント、4,5位が中位トーナメント(更に下位トーナメントもある)進出なので、僕は中位に進むことに。

そのトーナメントでは嫌なイメージのある選手複数と対戦し、なんとか勝利を重ねて決勝戦まで進み、その決勝も苦手意識のある選手だったけど何とか勝つことが出来て優勝したのでした。

上位トーナメントに進めなかったのは残念だったけど、でも結果的にはより多くの試合を行えたことは僕にとって幸いなことだったし、タイミング的にもそれは良かったと思えていて、様々な点で収穫の多い試合となったのでした。



自分自身の現在地のチェックというのは常々心がけていることだけど、僕の場合それを見誤ることが多い。というか正しく認識できたためしがない。

そりゃそうだ(と肯定する自分もいるw)。

だって、その時の調子の良し悪しもあれば、自分自身の、あるいは環境面などといった外的要因のコンディションの違いもあるだろうし、それだけじゃない、対人競技だからこそ、相手のコンディションの違いもあって然りだから、全く同じ条件なんてのはあり得ない訳だ。

だからこそ、自分の立ち位置を確かめたいなんて思ってみても、正確なことをはかり知るのには無理がある。

でもそれでも知りたい。

知っておきたい。

だからその答えを求めてしまう。

そして結果から自分なりに結論付ける。

だけど、今回もそう、自分が持った印象と実際の立ち位置がどうなのか、そこにはギャップがあるんじゃないかと不安が残る。

まぁきっと誰もがそういうものなのだろうなとも思うのだけれど。

唯一絶対に間違いのない立ち位置、それはチャンピオンのみ。

でも頂点に立てば、立つからこそその位置を失いたくない、奪われたくないという不安がより大きくなるものだろうし、それがより重くのしかかるだろうから、他とは比べようのない大きな不安に苛まれるのだと思う。

であれば、やはり誰でも不安と戦う、ある意味その不安と共存しているのだといえる。

だからこそ、結局その不安を取り除くには毎日の積み重ねしかないなと僕は思っている。

しかしそれで必ずしも不安が取り除けるものではないのもまたリアルなところ。

結局はそのループを繰り返すことになる。



でもそのループを上方向のループにするのか、あるいは下方向にするのか、そこが重要になると考える。

そこには主観だけでなく質の高い客観的評価が不可欠であり、まずその環境を有しているかどうかが大きな分岐点になり得ると思える。

だって、自己評価だけでは都合の良い方向へ向きがちだから。

そしてその客観的評価を受け入れられるだけのコーチャビリティが自分自身どれだけあるかにもよるだろうし、そのフィードバックがどのくらいのレベルで行えるかという相互の信頼関係もあるだろうから、シンプルなことではないけれど、でもループを上下どっちに向かわせるか、それを変化させることは可能だと考える。

だから、柔軟な意思で、信念をもって、突き進むのみ。



なんて言うとカッコいいなぁ(笑)

いずれにしても、立ち位置はよく分からないし不安も拭い去れない。

でも手ごたえを実感できる部分もあったりする訳で、それは日々の積み重ねによるものだと思える。

そうやってPDCAを繰り返していくしかない訳だし、この大阪の試合みたいにそれをチェックできる機会があることをまず感謝したい。



ちなみに、よく聞かれるのが「〇〇で何か美味しいもの食べてきたんですか?」ということ。

今回であれば「大阪」であり、魅力的なメニューはたくさんあるのだけれど、実は試合でも合宿でも遠征に行った際にご当地グルメを食するということは全くと言っていいほど無い。

すごく残念なことではあるけれど、体調管理の為にそうしている。

僕の場合障害の都合上その辺りはよりシビアに管理する必要がある為。

じゃぁ何を食べる?

答えは、コンビニ食。

その方が管理しやすいし調整しやすいしどこでもイコール・コンディションだから。

だからどこへ行っても毎回同じもの、似たようなものになる。

ご当地とは真逆(笑)

で、時々ご当地スーパーのお惣菜。

これは超ドキドキで、その買い物なんかは見るだけで嬉しいし楽しい時間になる。

今回の大阪はコンビニでした。

試合を終えてそのまま帰路につくのだけれど、食事をする時間も惜しいので基本は移動中に車内で食べればいいじゃん、となり、某コーヒーショップのハム&チーズのパンとコーヒー、あるいはコンビニで買ったパンとコーヒーという食事で「腹を満たす」。

コーヒーショップのそのパンは気に入っているので、移動時の食事はむしろそれを意識していて、どこにお店があるというのも頭に入れている(笑)

食べやすさもあるから。

大阪と言えばだれでも思い浮かぶメニューは多数あるけれど、それには一切触れずに帰京。

コーチへのお土産も結局は「名古屋みやげ」を買って帰る始末(帰路途中のSAで、クオリティ重視で選ぶからw)

僕はそんな人間です(笑)



さぁ、季節も進み体調管理がまた一段とシビアな季節がやってきた。

コンディションもスケジュールも様々に自分自身を管理し活動していく。

少しでも上に向くように、それが例えループしていても、上に進んでいればそれもまた良し。

未来の自分を悲しませないように今を頑張る。

第16回 全日本パラ卓球選手権大会(肢体の部)

2024年10月04日 21時20分59秒 | 日記
9月末、パラ卓球日本人プレーヤーである限り最も重要な大会を無事に迎え、終えることが出来た。

結果は混合ダブルス(クラス7以下)3位、男子ダブルス(クラス8以下)4位、シングルス3位だった。



全日本パラはこれまで毎年11月下旬に開催されてきた。

確か2年前から東京での開催になったけど、僕が知る限りそれまではずっと大阪での開催だった。

東京開催は今のところ毎回会場が変わっていて、3回目の今年も初めての会場だった。

そして9月という初めてのタイミングでの開催。

さらには、これまでは2日間での開催だったのが3日間開催となり、試合のスケジュールも今回初めての形となった。

ちなみに初日が混合ダブルス、2日目に男女各ダブルスとシングルスの予選、3日目がシングルスの決勝トーナメントだった。

みんながここに向けて準備する大会で、ただでさえプレッシャーがかかるのだけれど、そこにさらに時期、場所、そしてスケジュールと初づくしが重なるので、個人的には色々不安の多いものだった。

ついでを言えば、8月末にこの体育館で一般の大会が開催されるのでそれに出場し会場を下見しておこうと考えていたけれど、その大会は台風の影響で中止となり、それがまた不安に拍車をかけることにもなっていた。

ほんのちょっとだけだけど(笑)



話を自分の結果に戻せば、まず一番の気持ちはシングルスもダブルスもそれぞれ自身で設定していたラインをクリアできたことにほっとしている。

でも最低ラインをクリアできただけで目標に至れなかったことは悔やまれる。

がしかし、そうした自分を今までにないレベルで客観視し分析出来ていること、それはまさにこれまでのトレーニングの成果を実感できるものであり、そこに大きな喜びを覚える。

だから、結果は少なからず悔しいのだけれど、この先が楽しみで仕方ないと思える自分もいて、「前向き」なんてありきたりな安っぽい言葉では表現したくないぜ!と思えるような心境にある(笑)



試合を振り返るとそれを見ている自分が今までとは違っている。

勝って嬉しい負けて悔しいよりも、感情はそのもっと先にある。

それが今までと異なるポイント。

思考が感情を追い越したというのかな?

いずれにせよ、積み重なっていることを実感。

そして積み重ねている、進んでいる方向の正しさを認識。

それは選択の正しさと理解。

これはエゴイズムと言われるかもしれないけれど、それで構わないと胸を張れる。

自分が正しいと思った主張を押し通す強さも必要だと思うから。

幸い卓球は個人技なので、コートの中ではそういう強さも不可欠だと思うし、見方を変えればそれこそがアスリート・マインドとも言われるものだろうから。



とにかく、今回の大会は結果以上にこれまでにないレベルで収穫の多いものとなった。

その分だけ、課題も実感出来た。

言われて気づくのではない、自分で気づけたのだ。

これまで同様コーチにも帯同いただいた。

それは自分以外の視点での気づきを得たいから。

でも今回はこれまでとは全然違っていた。

それこそが一番の収穫かも知れない。

今までと違うからこそ、違った収穫があり、異なる道を見いだせている。

繰り返すが、結果とは別のところで思いがけず実りの多い大会だった。

だからこそ、ここに至るまでの道程を振り返り、反省もし、修正して、次につなげていく。



視点を変えて自分の試合ではなく大会として俯瞰した振り返りを行うと、思っていた以上に疲れていた(笑)

大会期間中はそういう自覚は全くなかった。

これこそがアドレナリンうんぬんなのかなと思ったほど。

でも終わると身体の疲労は思っていた以上にあった。

出場した3種目は全て準決勝まで進み3位決定戦もあったのでフルの試合数だった。

2日目が思っていた以上に身体が疲れていたようだ。

ダブルスを6試合、その後5時間くらい間をあけてからシングルスの予選2試合。

この間、僕は調整を行いたかったので会場を一度出て別の場所へ練習に向かった。

1時間程度の軽い調整を行い会場へ戻る。

昼食は取らなかった。

それはいつものこと。

「身体を休める」という休憩も取らなかった。

当日のコンディションもそれを必要とは全くしていなくて、万全の状態と自覚していた。

がしかし、そうではなかったようだった。

見ていた人が言うには、「午前中と身体の動きが全然違っていた」らしい。

腕の動き、同じ動きでも腕の上がり方、角度が大きく違っていたという。

「身体が重そう」だったらしい。

だからなのか?

夕方の2試合はサーブミスを連発した。

なんで?と思うくらいに上手くできなかった。

この日を振り返ると、確かにそうなっていても不思議ではないなと反省。

休憩と栄養補給の重要性を改めて学ぶ。



そして2日目に僕が気にしていたのは足の「ケイセイ」。

僕は足を自分で動かせないけど、伸びたり曲がったり震えたりと勝手に動く、力が入る。

それを「ケイセイ(医学用語)」と呼ぶ。

それが生じると上半身にも影響を与えるので、姿勢が崩れたりして安定しないのだ。

同じ姿勢が長く続くとケイセイが生じやすいので、それは必ず発生するものと捉え、それをどうマネージメントするかを考えていた。

試合の間が長く空くことをプラスになると捉え、その時間の過ごし方をシミュレーションし、リスクを踏まえた上でのマネージメントを心がけた。

成功したつもりではいたけど、結果的には失敗の方が大きいように思う。

でも、そうしたことを学べたという点では成功とも言える。

これもまた次に生かしていきたい。

3日間を終えると疲れが一気に出た(笑)

自宅からの移動だったので起床時間も早く移動時間も長かったのも当然ある。

でもそれも承知の上だし、その疲労感の最も強かった部位などはそれだけ使っていたからということでもあり、それこそが収穫で喜びでもあった。



とにかく大会を無事に終えられたことを嬉しく思う。

技術的な部分だけでなく3日間というスケジュールのマネージメントが今後の課題にもなった訳で、そうした反省を次につなげていく。

今回はパリのオリパラで学んだ直後でもあったので、モチベーションというかテンションにも多少の違いがあったのかもしれない。

それを一過性のもので終わらせず、メリデメも客観的に捉えた上でそうした経験を自身の財産とし今後に活かしていきたい。

最後に、大会に関わった多くの方々、応援に来てくれた方々、コーチをはじめサポートしてくださった方々、この場を借りて御礼申し上げます。

「あいつは頑張ってるよ」とお世辞ではなく素直に言ってもらえるように、評価してもらえるように、これからも積み重ねていきます。

集団浅慮!

2024年09月16日 21時27分05秒 | 日記
恐ろしい言葉を学ぶ。

それがタイトルの「集団浅慮」。

練習の待ち時間に読んだ本に書いてあった。

それは僕が所属する会社の元上司に勧められて読んでいる本。

尊敬するメンタル・トレーナーも読んだというので尚の事僕には意味のある本なのだ。

それを読み進めていると出てきたのがこの言葉だった。

どういう意味か興味ある方はご自身でお調べください、敢えてここでは書きません。



その言葉を知り、僕は納得がいった。

人付き合いとか人間関係で、僕が苦手とする人たちってこれで定義付け出来ると思えたから。

真っ先にイメージしたのが太平洋戦争時の旧日本陸軍。

そのほかにも思い当たる集団や組織、団体、グループなどは多々あるし、僕が経験しただけでも思い浮かぶものは複数ある。

どうもそういうのが苦手だなと思っていたけど、それは心理学とか専門家の見地からすると明確に分類できるようなのだ。

実際に研究データもあるらしい。

自分のイメージが言語化された思いで驚いたし、それを知ることが出来て嬉しかった。

ちなみにその本には「ボスとリーダーは違う」とも書いてあり、それも納得。

あぁあの人はただのボスだ、あの人はリーダーだったなと自分史を振り返りもした。

そのボスとリーダーのことには持論もあって、僕は30代前半の頃にリーダーとマネージャーの違いというのを学んだので、リーダーの在り方、マネージャーの在り方というのにも自分なりの考えがあり、ダメなリーダー像が「ただのボス」になるのだなと理解。

自分の知識と新しい情報がリンクするのはとても刺激的だしものすごくプラスになる。

こういう学びを得られるのは心底嬉しい。

だから「読書」というのはものすごく有意義であり価値を生み出すものだと思っている。

元本屋の倅として(笑)



今や「本」は読むだけでなく「聞く」時代になっている。

これは効率のいいことだと思う。

けれど、それが本当に効率良いものなのかどうかはおそらく人によって異なると思う。

個人差があるということだ。

なぜ?

だって、その情報の入り口が「視覚」と「聴覚」で異なるから。

耳から入る情報と目から入る情報で脳の分析速度が違ってくるというし、そこには個人差があってこっちの方が速いとか遅いとか、得手不得手が人によって存在するものらしい。

これは脳科学の分野の話。

僕から説明は出来ないけど、だから本を「読む」のと「聞く」のでは情報処理能力、速度に個人差が生じるだろうからより効率の良い方法をそれぞれが選択しなければならない新しい時代を迎えていることになる。

いずれにせよ、「書物から学ぶ」ということは自分以外の知識、他者の経験に触れることなので、それだけで大きな価値があると思っている。

賢者の学び方、なのだな。

子供の頃はあんなに読書が嫌いだったのに(笑)



話を戻す。

「集団浅慮」という現象を目の当たりにした時、自分はどう判断し行動するのか、出来るのか、それは自分の意志の固さ、意識の高さに直結するものだと思うけど、別段これまでと変わることはなく自分に嘘をつかずに正直にいたいと思うし、あらためて、そこは潔く誇り高くありたいと思う。

「集団浅慮」という状況をよしとする、あるいは心地よく思うのは一部の「ボス」であり、それは裸の王様のようなもので、忖度を受けてその立場にあることを心地よく思う人。

逆に「有能なリーダー」はそんな状況を絶対に認めないだろうし、悲しむ、あるいは叱咤する、そして改善しより良い状態、チーム・ビルディングを図り、より良い方向へ導いていける人だと思う。

そんなチームの一員であることがどれだけ誇り高い事だろう。

どれだけ幸せなことだろう。

僕はリーダーになりたいわけではないし、僕にその度量はないと自覚している。

けれど、マネージャーとしてリーダーを支えるポジションはこれまでも経験しているし、そういう仕事にあこがれも持っていた。

例えば秘書とか、執事とか、晩餐会のディレクターとか。

自分が「この人は!」と思える人を支えて差し上げたい、それを仕事に出来ればそんな嬉しく楽しいことはない、と思ってきた。

逆に、リーダーじゃなくてただのボスだ、と思ってしまえば見切りをつけるのはきっと早いと思う。

だからこそ自分が人の上に立つ時には、見切りをつけられないよう自分自身が成長し続けないといけないと思うし、リーダーやマネージャーとは本来そうしてチーム全体での成長を促していくものだと考える。

だから、「集団浅慮」なんてことはものすごく恐ろしいし、凄く嫌だ。



超、見切りの対象(笑)



今までそんな気持ちを抱いていたけど、今回元上司から教えてもらった本でその言語化にたどり着けたのはものすごく嬉しい。

言語化出来たから、より明確にしていける。

そういう知識や情報を共有し活用していける会社の心地よさ(笑)

集団浅慮のまさに対極。

ホント、いろいろ学ばせてもらっている。



「フィードバック」、そして「コーチャビリティ」。

これも会社で学んでいること。

僕が取りまとめる車椅子卓球チームには中学生や高校生も複数いるけど、彼らはいずれ社会に出る、まさに「社会人」となるわけだから、その時にただ障害者雇用枠で採用されるだけの人間ではなく、障害の有無を問わず一人の「人材」として企業や組織にとって「価値ある存在」となるべく学んでいってほしいという観点から、この2つの言葉をコンセプトとして活動している。

そうすれば、「集団浅慮」なんていうことがどれだけ馬鹿らしいことか、ネガティブなことかを理解出来るだろうし、そうなってはいけないと判断・行動できるだろうし、それこそが「人材」として輝けることになると思っている。

現時点で彼らにこの言葉の意味を理解しろとは言わない。

ただこの単語を覚えておいて欲しいと伝えている。

そうすることで、将来その言葉に接した時の理解度は大きく違っているはずだから。

彼らが安易に「集団浅慮」に流されるリスクを回避させることの一助になるのではと思うし、少なくとも、それに流されるようなそんな大人にはなってほしくないから。

「類は友を呼ぶ」というから、そういう人ばかりで徒党を組むともう後戻り出来なくなっちゃうよ、と言いたい。

怖い怖い(笑)



隙間時間の読書で思いがけず良い学びを得られた。

こうやって与えてもらったチャンスを活かし、掴み、自身の成長として行きたい。

別に専門家になりたいわけではなく、知った風な口をきいてドヤ顔を見せたいとかイニシアチブを取りたいとか、そんな気持ちは全くないつもり。

だから僕は人と話す時でも「〇〇さんが言ってた」「本に書いてあった」と注釈をつけることが多い。

そこで見栄を張りたくないし、その言葉に信憑性を持たせたいから。

その為にも、真摯な態度で多くを学び知識を重ね、でも謙虚な姿勢で歳を重ねていきたい。

それが僕にはカッコいいと思えるから。

少なくとも、集団浅慮を構成するような大人にはなりたくないなと思う。

でも小心者だからなぁ・・・(笑)

とにかくいくつになっても学ぶことをやめず、それこそまさに日々精進していきたい。