都内ではなく地方でのパラ卓球の大会開催の連絡をいただいた。
でも僕は周囲に相談というか確認の上、その大会には出場しないことを決めた。
ほぼ即決。
今回はその理由を書こうと思う。
大会開催の知らせを複数の友人からもらい、ついに来た!とノリノリだった。
でも大会要項を見ると(それは団体戦なのだけど)ダブルスを含む試合構成になっていた。
ダブルスかぁ・・・
と、そこで気持ちが立ち止まる。
というのは、去年5月に日本卓球協会がプレーヤーと大会主催者それぞれに向けてこのコロナ禍における感染対策のガイドラインを打ち出しているのだけれど、その中には「ダブルスの自粛」というものがある。
当面の間「ダブルスの練習は避けることを推奨」「シングルスのみを推奨」とある。
これはITTF(国際卓球連盟)のガイドラインに準拠するものだそうだ。
確かに、密を避けるという点においてダブルスは選手同士の距離がかなり近くなるので、その話を聞いたときに「そりゃそうだ」と納得した。
でもまぁ、現実的にダブルスで感染したなんて話も全く耳にしないし、ダブルスにどれだけリスクがあるのかという「エビデンス」も見受けられない。スーパーコンピューターでそのリスクを計算すると、どの方向にせよ想定外な結果が出るかもしれない。もっとスキンコンタクトの激しい競技は多々あるわけで、それらが全て禁止されているわけでもなければ、その選手の皆さんも細心の注意をしながら日々頑張って活動されていると思う。
ダブルス・・・
「大丈夫なんじゃないの?」
とマインドBがささやく。
「禁止」じゃなくて「自粛」だし。
そろそろ試合したいし。
でも、今回は出場しないことに決めた。
貴重なチャンス、すごく残念だけど。
「禁止」じゃなくて「自粛」
別に僕は自粛警察を肯定するつもりもなければそれを好みもしない。
「自粛」はあくまでもその選択権を自分が有していることになるし、「禁止」ではないから対策を「しっかり」行っていれば認められる、いや、否定はされないことだと思う。
まぁその「しっかり」を科学的根拠に基づいてとか数値化してというのが後の争点になりそうで怖いところでもあるけど。
いずれにしても「自粛」というのは、主催者側、プレーヤー側にその選択権があるということで、それに参加するかどうかも個人の判断が認められるということになる。
言ってみれば、「ルール」ではなく「マナー」といったところか。
これだけ長い期間、我慢が強いられているのだから、誰にだってストレスは生じている。
僕もそうなのだけど、とにかくまず「試合をしたい!」という気持ちが強くある。
「リスクがある」と言われていても、そのリスクが数値化、あるいは具現化されていなければ中々実感出来るものではないから、リスクを「感じる」こともなく人はスルーしがちだろうし、「したい」という欲求がそれを遥かに上回るのがまさに人であり、それが多数を占めるものだとも思う。
でも、その欲求という「主観」と、自分自身を俯瞰する「客観」のバランス、自分がどの道へ進むのかその舵取りがまさに人生そのものだと思っている。
一個人として自分がどうしたいかだけでなく、僕たちは「家族」「市民」「国民」「職場」「所属(登録)団体」などそれぞれ何かしらの立場にあるのだから、公人として自分がどう判断・行動すべきか、その「私」と「公」のバランスもまた大切だと思う。
その点において、幕末の吉田松陰は幼少期に叔父からかなりのレベルのスパルタ教育を受けていたらしいけど、僕は公私の分別をそこから学ばせていただいた。
同時代の偉人達、橋本佐内、山田方谷、河合継之助、高杉晋作、川路聖謨、江川英龍、渋沢栄一、さらには緒方洪庵なども同様ではなかろうか。
みんなそれぞれ「私」を持っているのだけれど、同時に「公」も有している。
僕たちは個人として「権利」を持っているけれど、同時に社会に対しての「義務」も有している。
だからどう行動するかも大切であり、それを偉人達から学ぶことが出来る。
そりゃぁ試合は当然出たい。
でも今最も優先すべきものは何なのか。
僕の場合、今回は「私」ではなく「公」の視点で判断をしそういう決断をした。
練習を含め「ダブルスは控える」という指針が出ているので、もちろん、この一年ダブルスの練習なんて一度も行っていない。
「半分遊びみたいなもんだからダブルスの練習なんてしなくてもいいよ」とすると、そんなリスクを伴った遊びをしていいの?ともなる。
それもまたおかしな話。
もし万が一申し込み期間内に「ダブルス解禁」が発表されたら、その時はあらためて考えると思う。
解禁されたからといって必ずしも安全になったとは限らないし、シングルスだって環境によってはまだまだ不安でもあるから、そこも細心の注意を払いつつ、何でも良いではなく自分の意志で見極め、責任をもって判断、行動を取らなければならないとも思っている。
このコロナ禍を抑えるのは政府でも自治体でもWHOでもなく、自分自身の注意と努力、それとある意味我慢でもあり、ひとりひとりのそれだと思う。
「社会」というのはそういう「物体」が存在するものではなく、「個」の集団により生じるものなのだから、その「社会」を動かすのもまた「個」の集団の力だと思う。
余談になるけど、「社会」を動かすそれ以外の力となるとそれは「外圧」であり、人以外の力となればそれはまさに「天変地異」であり「自然災害」であり、それこそ今のこのパンデミックがそうなのかもしれない。事実、人類の歴史から鑑みればパンデミックはその後の社会に大きな変化を生じさせているといわれる。
試合はしたい。
自分の立ち位置を確かめたい。
でもそれは「私」的発想であり、「公」としての自分はどう行動すべきなのか、冷静に判断する。
品行方正。
今も両親から度々言われること。
わかっちゃいるけど・・・ですね(笑)
まぁ、日々精進、明けない夜はない。冬来たりなば春遠からじ。
過去の偉人たちの困難や苦労に比べたら、今の僕らなんてまだまだかわいいものだ。
晴れて、大手を振って試合に出場できる日が来ること、そして、このコロナ禍の終焉が少しでも早く訪れることを切に願う。
さぁ、明日も頑張っていこう!
でも僕は周囲に相談というか確認の上、その大会には出場しないことを決めた。
ほぼ即決。
今回はその理由を書こうと思う。
大会開催の知らせを複数の友人からもらい、ついに来た!とノリノリだった。
でも大会要項を見ると(それは団体戦なのだけど)ダブルスを含む試合構成になっていた。
ダブルスかぁ・・・
と、そこで気持ちが立ち止まる。
というのは、去年5月に日本卓球協会がプレーヤーと大会主催者それぞれに向けてこのコロナ禍における感染対策のガイドラインを打ち出しているのだけれど、その中には「ダブルスの自粛」というものがある。
当面の間「ダブルスの練習は避けることを推奨」「シングルスのみを推奨」とある。
これはITTF(国際卓球連盟)のガイドラインに準拠するものだそうだ。
確かに、密を避けるという点においてダブルスは選手同士の距離がかなり近くなるので、その話を聞いたときに「そりゃそうだ」と納得した。
でもまぁ、現実的にダブルスで感染したなんて話も全く耳にしないし、ダブルスにどれだけリスクがあるのかという「エビデンス」も見受けられない。スーパーコンピューターでそのリスクを計算すると、どの方向にせよ想定外な結果が出るかもしれない。もっとスキンコンタクトの激しい競技は多々あるわけで、それらが全て禁止されているわけでもなければ、その選手の皆さんも細心の注意をしながら日々頑張って活動されていると思う。
ダブルス・・・
「大丈夫なんじゃないの?」
とマインドBがささやく。
「禁止」じゃなくて「自粛」だし。
そろそろ試合したいし。
でも、今回は出場しないことに決めた。
貴重なチャンス、すごく残念だけど。
「禁止」じゃなくて「自粛」
別に僕は自粛警察を肯定するつもりもなければそれを好みもしない。
「自粛」はあくまでもその選択権を自分が有していることになるし、「禁止」ではないから対策を「しっかり」行っていれば認められる、いや、否定はされないことだと思う。
まぁその「しっかり」を科学的根拠に基づいてとか数値化してというのが後の争点になりそうで怖いところでもあるけど。
いずれにしても「自粛」というのは、主催者側、プレーヤー側にその選択権があるということで、それに参加するかどうかも個人の判断が認められるということになる。
言ってみれば、「ルール」ではなく「マナー」といったところか。
これだけ長い期間、我慢が強いられているのだから、誰にだってストレスは生じている。
僕もそうなのだけど、とにかくまず「試合をしたい!」という気持ちが強くある。
「リスクがある」と言われていても、そのリスクが数値化、あるいは具現化されていなければ中々実感出来るものではないから、リスクを「感じる」こともなく人はスルーしがちだろうし、「したい」という欲求がそれを遥かに上回るのがまさに人であり、それが多数を占めるものだとも思う。
でも、その欲求という「主観」と、自分自身を俯瞰する「客観」のバランス、自分がどの道へ進むのかその舵取りがまさに人生そのものだと思っている。
一個人として自分がどうしたいかだけでなく、僕たちは「家族」「市民」「国民」「職場」「所属(登録)団体」などそれぞれ何かしらの立場にあるのだから、公人として自分がどう判断・行動すべきか、その「私」と「公」のバランスもまた大切だと思う。
その点において、幕末の吉田松陰は幼少期に叔父からかなりのレベルのスパルタ教育を受けていたらしいけど、僕は公私の分別をそこから学ばせていただいた。
同時代の偉人達、橋本佐内、山田方谷、河合継之助、高杉晋作、川路聖謨、江川英龍、渋沢栄一、さらには緒方洪庵なども同様ではなかろうか。
みんなそれぞれ「私」を持っているのだけれど、同時に「公」も有している。
僕たちは個人として「権利」を持っているけれど、同時に社会に対しての「義務」も有している。
だからどう行動するかも大切であり、それを偉人達から学ぶことが出来る。
そりゃぁ試合は当然出たい。
でも今最も優先すべきものは何なのか。
僕の場合、今回は「私」ではなく「公」の視点で判断をしそういう決断をした。
練習を含め「ダブルスは控える」という指針が出ているので、もちろん、この一年ダブルスの練習なんて一度も行っていない。
「半分遊びみたいなもんだからダブルスの練習なんてしなくてもいいよ」とすると、そんなリスクを伴った遊びをしていいの?ともなる。
それもまたおかしな話。
もし万が一申し込み期間内に「ダブルス解禁」が発表されたら、その時はあらためて考えると思う。
解禁されたからといって必ずしも安全になったとは限らないし、シングルスだって環境によってはまだまだ不安でもあるから、そこも細心の注意を払いつつ、何でも良いではなく自分の意志で見極め、責任をもって判断、行動を取らなければならないとも思っている。
このコロナ禍を抑えるのは政府でも自治体でもWHOでもなく、自分自身の注意と努力、それとある意味我慢でもあり、ひとりひとりのそれだと思う。
「社会」というのはそういう「物体」が存在するものではなく、「個」の集団により生じるものなのだから、その「社会」を動かすのもまた「個」の集団の力だと思う。
余談になるけど、「社会」を動かすそれ以外の力となるとそれは「外圧」であり、人以外の力となればそれはまさに「天変地異」であり「自然災害」であり、それこそ今のこのパンデミックがそうなのかもしれない。事実、人類の歴史から鑑みればパンデミックはその後の社会に大きな変化を生じさせているといわれる。
試合はしたい。
自分の立ち位置を確かめたい。
でもそれは「私」的発想であり、「公」としての自分はどう行動すべきなのか、冷静に判断する。
品行方正。
今も両親から度々言われること。
わかっちゃいるけど・・・ですね(笑)
まぁ、日々精進、明けない夜はない。冬来たりなば春遠からじ。
過去の偉人たちの困難や苦労に比べたら、今の僕らなんてまだまだかわいいものだ。
晴れて、大手を振って試合に出場できる日が来ること、そして、このコロナ禍の終焉が少しでも早く訪れることを切に願う。
さぁ、明日も頑張っていこう!