「努力は無駄にはならない。経験という財産になる」
は僕の信条。
人前でお話をさせていただく際によく取り上げるネタなのだけど、最近あらためて「ホント、そうだよなぁ」と思えたので書き記す。
備忘録として。
努力が必ずしも結果を生むか、実るものなのかというと、それはまた別の話になるけれど、でも、積み重ねた努力は身についていて自分の中に残るものだと確信している。
例えば、テストで100点を取るために勉強する。
一生懸命に勉強をする。
だけどそのテストでは98点しか取れなかった。
じゃぁ、その為に勉強したことは、努力は無駄になるのか?という話。
100点が取れなかったから、残念ながら結果には至らなかったことになる。
けれど、98点を取るだけの実力はついたことになる。
その分の努力は身についている訳で、ただ目標達成には2点足りなかったということ。
それだけの力は確実に身についたことになる。
であれば、次は2点分の努力を積み重ねれば事足りることになる。
結果をすべてとすれば白か黒の評価になる。
スポーツはもちろん、ビジネスなどにおいてもそういう評価や判断基準があるのは事実だし仕方のないことではあるけれど、例えば一個人を評価する場合は必ずしもそうではなく、グレーゾーンが幅広くあるものだと思っている。
だって評価なんていうのはする側の立場で、見る角度で全く異なってくるものだと思うから。
例え結果を得られなくても努力して積み重ねたものは確実に自分のものに出来ているということ。
イコール、財産となっていると断言する。
なんでこんなことを言うのかというと、評価の仕方あり方をどうこう言う為ではない。
あらためて、自分の過去の経験が財産になっていると強烈に思えたから。
自画自賛(笑)
ふと、飲食時代に心がけていたキーワードを思い出した。
僕の中で大切にしていた言葉。
当時サービスの最高峰と評価されていたホテルの支配人の言葉。
この数年その言葉自体を忘れていたし、使うことはなかったけれど、それを思い出した時に自分のバックボーンとして深く刻まれているんだなと実感し、それが嬉しく思えた。
と同時に、思い出したその言葉を自然と卓球に当てはめてみた(笑)
いや、まじめに。
するとどうだろう、コーチ達が今までさんざん僕に言ってきた言葉の意味が、今まで言葉の意味は理解出来ていたけれどそれは言葉を理解していただけで、その理解度が格段に上がったというか、今までのその言葉がフラッシュバックし、スッと腹落ちするような感覚を覚えた。
飲食時代の経験やその当時大切にしていたキーワードに変換して考えることは今まで度々行ってきたけれど、今回は今までで最もインパクトのあることのように思える。
だから、やっぱり努力って言うのは自分の財産になっていて、だからそれはどんなステージに立っても、どんなシーンでも自分の武器として活かすことが出来るということだと思えた。
だから今回もその先へとつながるアイデアが瞬時に湧き、これから先がさらに楽しみに思えたし、そんな自分を嬉しく思えた。
努力は財産になる。
でも「努力」でなければある意味経験という財産にはならないのかもしれない。
「思い出」っていうのは感動したりすごく悲しんだり、感情が動かされた大きさに比例してその大きさも変化するものだと思う。
ということは、感情が動く程の努力、頑張りでなければ「思い出(経験)」という名の財産には至らないのかもしれない。
歯を食いしばって頑張った、いばらの道を耐え抜いて切り抜けた、あの長い距離を必死で走り抜いた、などなど。
それは誰かに与えられた基準のものでなくても、自分がそう思えるものであれば良いと思うけれど、自分に嘘はつけないので「俺はやった!」と思えるだけの努力でなければならないと思うし、そもそもそうでなければ感情も動かない。
余力を残す程度のものでは思い出にはなりきらないように思う。
であれば、感情が動きやすいようないわゆる「熱い人」は思い出をより多く蓄えやすいのかもしれないし、そうなるとそれは得をしている人と言えるのかもしれない。
まぁあくまでも僕の個人的な考えだけど。
逆の場合、感情の動きが小さかったり動きの幅が狭い、クールな人?冷めた人?常に動じずに冷静に物事を判断・分析・評価できるような人は「思い出」や「経験」として記憶されるのはより限られたものになるだろうし、あるいは「思い出」「経験」としての情報ではなく、シンプルに「記憶」として保存する為脳内の保存箇所が別のフォルダになるのかもしれないから、引き出す位置も異なるのでデータの立ち上がりの速度に違いが生じるかもしれない。
まぁどっちの方が速いのか、良いのかは分からないけど。
いずれにしても、努力した、頑張った、真面目にやったという経験はあればあるほど良いだろうし、それがあることで損をすることはないと思う。
逆に、歳を重ねてから「あぁあの時もっと真面目にやっていればよかったなぁ」と後悔するのは残念なことだし、ましてやそれを口にすることはものすごく格好悪いことだと思う。
だから若い世代には、子供たちには、大人になってからそう思わないように今を頑張ってほしいと願う。
「若いうちの苦労は買ってでもしろ」
という言葉があるけど、まさにそう言うことだと思っている。
と言われたってリアルタイムで理解出来る子供なんていやしないとも思う。
僕がそうだったから(笑)
でも、この言葉を心の片隅に留めることが出来る子も中にはいて、そういう子はもっと、あるいはもう少し大きくなって、大人になってから「あぁあの時言ってたのはこういうことだったんだ」と閃くように理解出来る瞬間が訪れると思う。
それは何も10代20代に限ったことではなく、いくつになってもその瞬間は訪れると思う。
一生懸命に聞くからその言葉が自分の中に残る。
適当に聞く、聞き流していたのではそうはいかない。
努力という経験も同様。
一生懸命にやるから残る。
適当では残らないし、残せたとしてもそれなりのものに留まってしまう。
それを言葉でもっともそうに語ることは出来るけど、メッキはやがて剝がれてしまうし、本物を知る人からすればそんな言葉は簡単に見透かせるから、結果的には言葉だけの自分ではその言葉が通用する井の中だけに留まり、大海を泳ぐには至らない。
僕は飲食時代に本当に多くの凄い方々から多くのことを学ばせていただいた。
あの人があの時にいったあの言葉、あの時教えてくれた言葉、あの本から、あの雑誌から、あの新聞記事からというそれぞれのシーンを今でも鮮明に覚えていることが多い。
それだけ印象深い学びを与えてくださった方が大勢いるというのは、自分がいかに人に恵まれていたかということだと思う。
そりゃそうだ。
当時のフランス料理というのは高嶺の花で、それ以前の時代に給料何か月分の渡航費を払って渡仏し現地で芋の皮むきから厨房での勉強をスタートさせたような方々が現役だった時代。中には船で密航したという方の話も聞いたし、渡仏していきなり包丁を持ったり火の前に立ったり出来るのは有力者(それこそ政治家等)のつてのある人だけなんて時代であり、そんな時代に渡仏して勉強するなんていうのはよほどの熱量を持った人ばかりだし、僕が現場を共にした友人達も次の世代とはいえその直系であり、負けず劣らずの熱量を持った連中ばかりだった。
だから、「学ぶ」ということはそういうことだと自然に感覚が養われたのかもしれない。
来日したグランシェフから学ぶ、来店したグランシェフから学ぶ、一時帰国した友人から学ぶ、その時間はほんの一瞬、その僅かな時間に聞いたほんのわずかな一言を心と頭に留める。
そうした経験が今の財産になっているのだと思える。
努力は確実に積み重なる。
努力は自分を裏切らない。
努力して結果が得られなければ、それは自分の努力が足りなかっただけ。
もっと努力すればいい。
そして、努力した自分も、誤魔化した自分も、自分がちゃんと見ている。
嘘はつけない。
だから、正直に、真摯に努力していく。
次の世代の手本になるように。
なんてカッコいいことを言う(笑)
いや、全ては自分の為ですから(笑)
誰かの為に?
そんな余裕はございません(笑)
でも今の努力次第で明日が変わるし未来が変わる。
未来の自分を作るのは今の自分次第だと思っている。
今日の食事で明日の体調が変わるのと同じ。
未来の自分を裏切らない為に、今日の努力という経験を積み重ねていけよ、自分。
は僕の信条。
人前でお話をさせていただく際によく取り上げるネタなのだけど、最近あらためて「ホント、そうだよなぁ」と思えたので書き記す。
備忘録として。
努力が必ずしも結果を生むか、実るものなのかというと、それはまた別の話になるけれど、でも、積み重ねた努力は身についていて自分の中に残るものだと確信している。
例えば、テストで100点を取るために勉強する。
一生懸命に勉強をする。
だけどそのテストでは98点しか取れなかった。
じゃぁ、その為に勉強したことは、努力は無駄になるのか?という話。
100点が取れなかったから、残念ながら結果には至らなかったことになる。
けれど、98点を取るだけの実力はついたことになる。
その分の努力は身についている訳で、ただ目標達成には2点足りなかったということ。
それだけの力は確実に身についたことになる。
であれば、次は2点分の努力を積み重ねれば事足りることになる。
結果をすべてとすれば白か黒の評価になる。
スポーツはもちろん、ビジネスなどにおいてもそういう評価や判断基準があるのは事実だし仕方のないことではあるけれど、例えば一個人を評価する場合は必ずしもそうではなく、グレーゾーンが幅広くあるものだと思っている。
だって評価なんていうのはする側の立場で、見る角度で全く異なってくるものだと思うから。
例え結果を得られなくても努力して積み重ねたものは確実に自分のものに出来ているということ。
イコール、財産となっていると断言する。
なんでこんなことを言うのかというと、評価の仕方あり方をどうこう言う為ではない。
あらためて、自分の過去の経験が財産になっていると強烈に思えたから。
自画自賛(笑)
ふと、飲食時代に心がけていたキーワードを思い出した。
僕の中で大切にしていた言葉。
当時サービスの最高峰と評価されていたホテルの支配人の言葉。
この数年その言葉自体を忘れていたし、使うことはなかったけれど、それを思い出した時に自分のバックボーンとして深く刻まれているんだなと実感し、それが嬉しく思えた。
と同時に、思い出したその言葉を自然と卓球に当てはめてみた(笑)
いや、まじめに。
するとどうだろう、コーチ達が今までさんざん僕に言ってきた言葉の意味が、今まで言葉の意味は理解出来ていたけれどそれは言葉を理解していただけで、その理解度が格段に上がったというか、今までのその言葉がフラッシュバックし、スッと腹落ちするような感覚を覚えた。
飲食時代の経験やその当時大切にしていたキーワードに変換して考えることは今まで度々行ってきたけれど、今回は今までで最もインパクトのあることのように思える。
だから、やっぱり努力って言うのは自分の財産になっていて、だからそれはどんなステージに立っても、どんなシーンでも自分の武器として活かすことが出来るということだと思えた。
だから今回もその先へとつながるアイデアが瞬時に湧き、これから先がさらに楽しみに思えたし、そんな自分を嬉しく思えた。
努力は財産になる。
でも「努力」でなければある意味経験という財産にはならないのかもしれない。
「思い出」っていうのは感動したりすごく悲しんだり、感情が動かされた大きさに比例してその大きさも変化するものだと思う。
ということは、感情が動く程の努力、頑張りでなければ「思い出(経験)」という名の財産には至らないのかもしれない。
歯を食いしばって頑張った、いばらの道を耐え抜いて切り抜けた、あの長い距離を必死で走り抜いた、などなど。
それは誰かに与えられた基準のものでなくても、自分がそう思えるものであれば良いと思うけれど、自分に嘘はつけないので「俺はやった!」と思えるだけの努力でなければならないと思うし、そもそもそうでなければ感情も動かない。
余力を残す程度のものでは思い出にはなりきらないように思う。
であれば、感情が動きやすいようないわゆる「熱い人」は思い出をより多く蓄えやすいのかもしれないし、そうなるとそれは得をしている人と言えるのかもしれない。
まぁあくまでも僕の個人的な考えだけど。
逆の場合、感情の動きが小さかったり動きの幅が狭い、クールな人?冷めた人?常に動じずに冷静に物事を判断・分析・評価できるような人は「思い出」や「経験」として記憶されるのはより限られたものになるだろうし、あるいは「思い出」「経験」としての情報ではなく、シンプルに「記憶」として保存する為脳内の保存箇所が別のフォルダになるのかもしれないから、引き出す位置も異なるのでデータの立ち上がりの速度に違いが生じるかもしれない。
まぁどっちの方が速いのか、良いのかは分からないけど。
いずれにしても、努力した、頑張った、真面目にやったという経験はあればあるほど良いだろうし、それがあることで損をすることはないと思う。
逆に、歳を重ねてから「あぁあの時もっと真面目にやっていればよかったなぁ」と後悔するのは残念なことだし、ましてやそれを口にすることはものすごく格好悪いことだと思う。
だから若い世代には、子供たちには、大人になってからそう思わないように今を頑張ってほしいと願う。
「若いうちの苦労は買ってでもしろ」
という言葉があるけど、まさにそう言うことだと思っている。
と言われたってリアルタイムで理解出来る子供なんていやしないとも思う。
僕がそうだったから(笑)
でも、この言葉を心の片隅に留めることが出来る子も中にはいて、そういう子はもっと、あるいはもう少し大きくなって、大人になってから「あぁあの時言ってたのはこういうことだったんだ」と閃くように理解出来る瞬間が訪れると思う。
それは何も10代20代に限ったことではなく、いくつになってもその瞬間は訪れると思う。
一生懸命に聞くからその言葉が自分の中に残る。
適当に聞く、聞き流していたのではそうはいかない。
努力という経験も同様。
一生懸命にやるから残る。
適当では残らないし、残せたとしてもそれなりのものに留まってしまう。
それを言葉でもっともそうに語ることは出来るけど、メッキはやがて剝がれてしまうし、本物を知る人からすればそんな言葉は簡単に見透かせるから、結果的には言葉だけの自分ではその言葉が通用する井の中だけに留まり、大海を泳ぐには至らない。
僕は飲食時代に本当に多くの凄い方々から多くのことを学ばせていただいた。
あの人があの時にいったあの言葉、あの時教えてくれた言葉、あの本から、あの雑誌から、あの新聞記事からというそれぞれのシーンを今でも鮮明に覚えていることが多い。
それだけ印象深い学びを与えてくださった方が大勢いるというのは、自分がいかに人に恵まれていたかということだと思う。
そりゃそうだ。
当時のフランス料理というのは高嶺の花で、それ以前の時代に給料何か月分の渡航費を払って渡仏し現地で芋の皮むきから厨房での勉強をスタートさせたような方々が現役だった時代。中には船で密航したという方の話も聞いたし、渡仏していきなり包丁を持ったり火の前に立ったり出来るのは有力者(それこそ政治家等)のつてのある人だけなんて時代であり、そんな時代に渡仏して勉強するなんていうのはよほどの熱量を持った人ばかりだし、僕が現場を共にした友人達も次の世代とはいえその直系であり、負けず劣らずの熱量を持った連中ばかりだった。
だから、「学ぶ」ということはそういうことだと自然に感覚が養われたのかもしれない。
来日したグランシェフから学ぶ、来店したグランシェフから学ぶ、一時帰国した友人から学ぶ、その時間はほんの一瞬、その僅かな時間に聞いたほんのわずかな一言を心と頭に留める。
そうした経験が今の財産になっているのだと思える。
努力は確実に積み重なる。
努力は自分を裏切らない。
努力して結果が得られなければ、それは自分の努力が足りなかっただけ。
もっと努力すればいい。
そして、努力した自分も、誤魔化した自分も、自分がちゃんと見ている。
嘘はつけない。
だから、正直に、真摯に努力していく。
次の世代の手本になるように。
なんてカッコいいことを言う(笑)
いや、全ては自分の為ですから(笑)
誰かの為に?
そんな余裕はございません(笑)
でも今の努力次第で明日が変わるし未来が変わる。
未来の自分を作るのは今の自分次第だと思っている。
今日の食事で明日の体調が変わるのと同じ。
未来の自分を裏切らない為に、今日の努力という経験を積み重ねていけよ、自分。
先日旭市の中学校でご一緒しました、まいまいです。
その節は、お疲れ様でした。
渡邊さんのお話しに感銘を受け、お名前を検索してこちらのブログに辿り着きました。
あの時の渡邊さんのお話でとても胸に残った言葉があります。
パラ卓球を始めて短期間で日本代表になれたのは、中学の部活を一生懸命頑張っていた土台があったからだ。今の努力が、未来の自分を助ける。と言ったお言葉です。
私もこの年齢になってから、学生の頃に中途半端になってしまった夢に向かって、再度頑張っている途中です。
またいつかご一緒できる日があれば、今度はラタトゥイユのお話を詳しく聞かせてください♪
その節は大変お世話になりました。
ありがとうございました。
まいまいさんにそう言っていただけて光栄です。
でもあれは戒めとして自分自身へ言ってるようなものなんですが(笑)
ラタトゥイユの話になるとめちゃくちゃ長くなりますのでそのおつもりで(笑)
今後ともどうぞよろしくお願いします。