東京2020の際に広く使われた言葉。
トレーナーからこの言葉の意味を教わった。
きっかけは「日本では間違った意味で使われちゃってるんですよね」の一言だった。
どういうこと!?
そういう話にはめちゃくちゃ興味を示すのが僕なのだ(笑)
詳しくは敢えて言わない。
だってその「解釈」は様々だろうから。
でも言われてみれば、「アスリート・ファースト」という言葉、何となくわかったつもりでいたけど深く考えたことはなかった。
コロナ禍で東京を訪れるアスリートをゲストとして丁重に迎える、もてなす、そのキャッチフレーズだと単純に捉えていた(逆にアスリートという立場においては勘違いを与えるんじゃないの?という思いも少なからずあった)。
あるいは視点を変えて、競技団体の不祥事などが度々報道されてもいたので、何のための団体なの?その存在意義は組織や利権の為ではなくまず選手の為だよね?という注意喚起にはもってこいの言葉だとも思っていた。
でも、パラにおいてその意味は全く違ったものだったらしい。
だから自分でも「アスリート・ファーストとは」で検索してみた。
以外にも明確な回答は見いだせなかったし、専門家でもはっきりしたコメントは見つけられなかった。
逆に「その意味は分からない」というスポーツ関係者のコメントがあったくらい。
その中で印象的だったのは、「アスリート自身はアスリート・ファーストを誰も求めはしないと思う」という一文だった。
僕もそれに同意する。
最適な環境でプレーすることは誰もが強く望むことだけど、だからといって「ファースト」として扱ってほしいという心理は全くないし、国賓でもないのにそのような対応を受けることに自分であれば違和感を覚える。
これまで海外へ行った際にも、親切に接してもらう、対応してもらうことはあちこちであったし、そこにその国の人柄を感じたりもして心地よく思ったりもしたけど、でもその心地よさのベースにあるのは「普通」という距離感であり、イーブンの立場で親切に接してもらえることの嬉しさ、温かさ、それこそが心地よさなのだと僕は思っている。
逆に丁重にもてなされるというと恐縮してしまうし委縮してしまうかもしれないから、僕はそれを求めたくはない。
でも東京2020の際はコロナ禍。
だからこそ、イレギュラーな環境下でゲストを丁重に扱うことへの・・・と、ただそのように認識していただけだった。
でも、その言葉には真意があったのだ。
賛否はどうあれ、東京2020ではそうしたキャッチフレーズとして使われたのだと思う。
でも、そもそもその言葉を生んだ方の真意はそうではなかった(と考える)。
全然違う意味だった。
それは僕の理想にピタリと一致するものであり、背筋が伸びる思いのする見事な文言なのだった。
もったいぶるようだけど敢えて言わない(笑)
あくまでも解釈の一つと捉えるから。
この言葉を胸に、あらためて取り組んでいこうと思う。
でもこれは僕のスポーツ活動に限った話ではない。
車いすで生活するようになって、社会に出て、その時胸に抱いた思いを象徴する言葉でもある。
だからこそ、僕の座右の銘の一つとなった。
やっぱりプロは凄い。
専門家だからそうした知識や情報がさらりと出てくる。
「餅は餅屋」
という子供の頃に覚えた言葉が好きだ。
時に本業ではないけどものすごいスキルを持つ方がいたりもする。
でもそれはかなり稀なことで、やっぱり餅は餅屋が良い。
餅屋だったらなんでもいいのかというとそうではなく、やはりより良いものを生み出す力のあるホンモノがいい。
そういう方から学べることは本当にありがたい。
ちなみに、東京2020的意味合いの「アスリート・ファースト」、専門家の感覚では「ファーストではなく『センタード(アスリートを中心として周りがサポートしていく)』というのが一般的」ということだった。
別のトレーナーの言葉を借りると、「インクルーシブとか今の考えに合致することばですよね」という。
しっくりきた(笑)
サッカーやバスケといった団体競技ではなく、テニスや卓球という個人競技の選手でもトップ選手というのは「チームの勝利」を口にするらしい。
自分が頑張ったからではなく、それを支えてくれた様々な人たち全体を一つの「チーム」と捉えて、自分のその結果はチームがあったからこそという評価をする、というデータがあるらしい。
それこそまさに「センタード」だと思う。
「ファースト」では確かにそうはならないかもしれない。
そうした「感覚」も学んでいかなければならない。
障害者であればこそ、「してもらう」ことに慣れている。
慣れているからこそ「してもらって当たり前」となってしまっているところがあるかもしれない。
それは共生社会実現へのハードルだと僕は思っているから、当事者として常に気をつけなければならないし、是正の必要な点だとも思う。
逆にしてあげる側からすればそれは当然の事という認識なのかもしれないけれど、それにつけこんで得をしようとする連中がいても不思議はない。
そんなのでは「センタード」の関係性は築けはしない。
いや、利害関係があれば別か(笑)
今回偶然にも学べた「ファースト」の意味、これを胸に刻み活動していく。
来週からはいよいよパリ・パラリンピックが始まる。
世界中からセンタードで頑張ってきた選手が華やかな舞台でその雄姿を見せる。
正直、羨ましく思えるし、悔しさも覚える。
まぁいずれにせよ、その舞台に立つ彼らを応援したい。
そして、そこから学びたい。
そしてそれを糧とし、歩みを進めていきたい。
結びとして、パリ・パラリンピックにおける全ての選手の健闘を祈ります。
トレーナーからこの言葉の意味を教わった。
きっかけは「日本では間違った意味で使われちゃってるんですよね」の一言だった。
どういうこと!?
そういう話にはめちゃくちゃ興味を示すのが僕なのだ(笑)
詳しくは敢えて言わない。
だってその「解釈」は様々だろうから。
でも言われてみれば、「アスリート・ファースト」という言葉、何となくわかったつもりでいたけど深く考えたことはなかった。
コロナ禍で東京を訪れるアスリートをゲストとして丁重に迎える、もてなす、そのキャッチフレーズだと単純に捉えていた(逆にアスリートという立場においては勘違いを与えるんじゃないの?という思いも少なからずあった)。
あるいは視点を変えて、競技団体の不祥事などが度々報道されてもいたので、何のための団体なの?その存在意義は組織や利権の為ではなくまず選手の為だよね?という注意喚起にはもってこいの言葉だとも思っていた。
でも、パラにおいてその意味は全く違ったものだったらしい。
だから自分でも「アスリート・ファーストとは」で検索してみた。
以外にも明確な回答は見いだせなかったし、専門家でもはっきりしたコメントは見つけられなかった。
逆に「その意味は分からない」というスポーツ関係者のコメントがあったくらい。
その中で印象的だったのは、「アスリート自身はアスリート・ファーストを誰も求めはしないと思う」という一文だった。
僕もそれに同意する。
最適な環境でプレーすることは誰もが強く望むことだけど、だからといって「ファースト」として扱ってほしいという心理は全くないし、国賓でもないのにそのような対応を受けることに自分であれば違和感を覚える。
これまで海外へ行った際にも、親切に接してもらう、対応してもらうことはあちこちであったし、そこにその国の人柄を感じたりもして心地よく思ったりもしたけど、でもその心地よさのベースにあるのは「普通」という距離感であり、イーブンの立場で親切に接してもらえることの嬉しさ、温かさ、それこそが心地よさなのだと僕は思っている。
逆に丁重にもてなされるというと恐縮してしまうし委縮してしまうかもしれないから、僕はそれを求めたくはない。
でも東京2020の際はコロナ禍。
だからこそ、イレギュラーな環境下でゲストを丁重に扱うことへの・・・と、ただそのように認識していただけだった。
でも、その言葉には真意があったのだ。
賛否はどうあれ、東京2020ではそうしたキャッチフレーズとして使われたのだと思う。
でも、そもそもその言葉を生んだ方の真意はそうではなかった(と考える)。
全然違う意味だった。
それは僕の理想にピタリと一致するものであり、背筋が伸びる思いのする見事な文言なのだった。
もったいぶるようだけど敢えて言わない(笑)
あくまでも解釈の一つと捉えるから。
この言葉を胸に、あらためて取り組んでいこうと思う。
でもこれは僕のスポーツ活動に限った話ではない。
車いすで生活するようになって、社会に出て、その時胸に抱いた思いを象徴する言葉でもある。
だからこそ、僕の座右の銘の一つとなった。
やっぱりプロは凄い。
専門家だからそうした知識や情報がさらりと出てくる。
「餅は餅屋」
という子供の頃に覚えた言葉が好きだ。
時に本業ではないけどものすごいスキルを持つ方がいたりもする。
でもそれはかなり稀なことで、やっぱり餅は餅屋が良い。
餅屋だったらなんでもいいのかというとそうではなく、やはりより良いものを生み出す力のあるホンモノがいい。
そういう方から学べることは本当にありがたい。
ちなみに、東京2020的意味合いの「アスリート・ファースト」、専門家の感覚では「ファーストではなく『センタード(アスリートを中心として周りがサポートしていく)』というのが一般的」ということだった。
別のトレーナーの言葉を借りると、「インクルーシブとか今の考えに合致することばですよね」という。
しっくりきた(笑)
サッカーやバスケといった団体競技ではなく、テニスや卓球という個人競技の選手でもトップ選手というのは「チームの勝利」を口にするらしい。
自分が頑張ったからではなく、それを支えてくれた様々な人たち全体を一つの「チーム」と捉えて、自分のその結果はチームがあったからこそという評価をする、というデータがあるらしい。
それこそまさに「センタード」だと思う。
「ファースト」では確かにそうはならないかもしれない。
そうした「感覚」も学んでいかなければならない。
障害者であればこそ、「してもらう」ことに慣れている。
慣れているからこそ「してもらって当たり前」となってしまっているところがあるかもしれない。
それは共生社会実現へのハードルだと僕は思っているから、当事者として常に気をつけなければならないし、是正の必要な点だとも思う。
逆にしてあげる側からすればそれは当然の事という認識なのかもしれないけれど、それにつけこんで得をしようとする連中がいても不思議はない。
そんなのでは「センタード」の関係性は築けはしない。
いや、利害関係があれば別か(笑)
今回偶然にも学べた「ファースト」の意味、これを胸に刻み活動していく。
来週からはいよいよパリ・パラリンピックが始まる。
世界中からセンタードで頑張ってきた選手が華やかな舞台でその雄姿を見せる。
正直、羨ましく思えるし、悔しさも覚える。
まぁいずれにせよ、その舞台に立つ彼らを応援したい。
そして、そこから学びたい。
そしてそれを糧とし、歩みを進めていきたい。
結びとして、パリ・パラリンピックにおける全ての選手の健闘を祈ります。