車椅子で卓球@渡邊剛

2013年より車椅子卓球をスタート。備忘録の意もこめてここにブログを綴ります。
内容は基本パラ卓球、時々食文化。

渡邊剛、凹む

2022年06月17日 22時18分11秒 | 日記
ラタトゥイユといえば夏を代表する野菜料理。

思いつきで作ったそれが実に美味かった(笑)

でもこれは「エセ(似非)」である。

なぜかというと、本来ラタトゥイユに加わるべきナスとパプリカが入っていなくて、更に本来加わることの無いであろう人参が入っているから。

だから、名付けて「エセ・ラタトゥイユ」(笑)

調理手順は全く持ってラタトゥイユ。

でも似て非なるものなんだな、僕からすれば。

でもこれが実に美味かった。

それには理由がある。

それはミキサーにかけてピュレ状にしたから。

これが大正解。

そして、それを冷蔵庫でストックすれば、冷たい状態で食べられるので、この季節にはもってこい。

ラタトゥイユというのは無水調理であり、調味料は塩のみ。

塩で味を「つける」のではなく、「野菜の旨味を引き出す塩」なのだ。

僅かなオリーブオイルと、後は全く持って野菜しか入らない。

だから、野菜の旨味をそのまま食べることになる。

加工食品もトマトの水煮缶以外は入らないから、多角的に身体に嬉しい料理と思っているけれど、でも何よりもまずはその味わいが好きなんだな。

だから、僕は時々作る。



「ラタトゥイユはミキサーで回せばソースでも使えるし何でも応用が利く」

と教えてくれたのは今から約四半世紀前、僕が上京したばかりの頃、その店で一緒に努めていた、当時フランスの料理学校から帰国したばかりの仲間だった。

その言葉は僕の中にずっと残っていたけど、でも自分で試すことは一度も無かった。

が今回、人参も入ってるしと思いつきでやってみたら、いやぁ見事だった。



そしてそのエセの立役者となる人参。

他の野菜とは火の入りが異なるので個別に、僕のニンジンしりしりの手順で、弱火で下ごしらえすることに。

更に、じゃぁ玉ねぎもということで、あらかじめ個別にシュエ(素材の水分を飛ばすように弱火で火を入れる)する。

すると今度はフランスのミシュランで20代のうちに星を獲得した別の友人の言葉を思い出す。

「究極のラタトゥイユは野菜ごとにそれぞれ火を入れること」

いや、さすがにそこまではしない(笑)

でも、素材によって特性は違うのでそれはすごく理にかなったことだと思う。

その調理法のネガティブな要素はただ一つ、「手間」ということか。

そこで更に偉大な料理人ジョエル・ロブションの名言を思い出す。

「手間を惜しむな」

いや、すみません、今回は玉ねぎと人参まで。手間を惜しみます(笑)



そして、オリーブオイル(スペイン産)を鍋に入れ、そこに細かく切ったニンニクを約2欠片分程度加えその香りを映し、そしてカットしたズッキーニ2本を加え炒める。

そして人参と玉ねぎを投入し、ミニトマトは半分に切って入れて(鍋の上で切りながら入れる(笑))、更にトマトの水煮缶を投入し、後は蓋をして煮るだけ。

実はこのズッキーニの存在が今回のラタトゥイユへと導いたのだ。

1本はスーパーで100円で売られていたので衝動買いしたもの。

もう一本は県外遠征の帰りに立ち寄った高速のSAで売られていた地元野菜(生産者の名前付き)。

そこで一緒にニンニクと人参も購入。

その時自宅にはスーパーで買った熊本県産のミニトマトが10個ほど残っていた。

玉ねぎもある。

トマトの水煮缶もある。

当初はズッキーニをグリルして食べ比べしようと思っていたけれど、めんどくせぇ、一緒に煮てまえ!とラタトゥイユ(エセ)になったのでした。



その美味しいラタトゥイユ(エセ)が、凹んだ僕を立ち直らせてくれる。



その日は終日冴えなかった。

コーチと練習している時、どうも身体の動きが悪い。

いつもよりモチベーションが下がっている。

だからか頭も働かない。

思うようにプレーできない。

ここしばらくずっと張りつめていたものがふとしたきっかけで音を立てて崩れていくような時間だった。

数年に一度レベルのテンションの低さで、ストレスフルな一日となった。



でも、そんな暗雲を一気に吹き飛ばしたのがそのエセ・ラタトゥイユだった(笑)



だから?かどうかは分からないけれど、翌日の練習ではここ最近で一番の調子良さを実感できた。

「なんだそれ?」

と自分で自分にツッコむほど(笑)



気持ちが凹む瞬間は不意に、予期せぬところから訪れるものだし、その頻度は人によるとはいえ、決してごく稀なものではなく日常的に訪れても不思議なものではないと思う。

がしかし、それはまた日常のありふれたもの、足元に転がる幸運や道端に咲いた小さな花の美しさなどで案外簡単に払拭することが出来るとも思っている。

気持ちが下がる、テンションが落ちる、いや、それどころか絶望してしまう・・・なんて心境に陥ることは誰にだってあること。

でもそれは見方を変えれば心の有り様であり、心境の変化がそうさせている訳で、その変化は脳内で起こっていることに過ぎない。

その瞬間の脳以外の身体機能は全く衰えてはいない。

筋力が衰えることも無ければ、関節の可動範囲が狭まることもない。

身につけた身体能力が奪われることは全くない。

もし出来ないとすれば、それは自分自身が「出来なくさせている」だけ。

全ては自分次第なのだ。

だから、出来るようにする為に常に自分を磨く。

人に嘘はつけても、自分に嘘はつけない。

頑張るのか、怠けるのか、飴をもらうのか、鞭をもらうのか、自分次第だし、そんな自分は常に自分から見られている。

磨き上げた自分のスキルは、例えメンタルが落ちている時でも簡単に落ちることは無い。

頑張って積み重ねた自分の財産はしっかりそこに存在するもの。

努力は自分を裏切らない。

その努力の量が、逆境への耐性に比例すると思う。



ラタトゥイユが僕を救ってくれた。

支えてくれた。

エセだけど(笑)

でもそれは僕の今までの人生で出会ったみんなの存在があればこそのラタトゥイユであり、彼らが生んでくれた味わいであると思っている。

エセだけど(笑)

努力は裏切らない。

過去の頑張りが今の自分を支えてくれているんだとあらためて思う。

凹むのが一瞬で終わって良かった。

ただし、季節の変わり目もあるから、体調管理には重々気をつけていなきゃいけない。

ほんのわずかな体調の変化が重大なケガやアクシデントを招きかねないから。

でもこの経験は自分でもしっかり覚えておくことにする。

反面教師として、自分の糧にする。

ラタトゥイユはそのまま身体の糧にする。

エセだけど(笑)

サラダチキンとも相性がいい。

カッペリーニの冷製ソースにすると美味いと思う。

白身魚やジャガイモにソースとして合わせても美味そう。

パンにチーズと一緒にしても良いかもしれない。

けど、多分今回は全部そのまま食べると思う(笑)

それが楽だし、それで十分に美味しいから。

そこでも手間を惜しむ。

さぁ、明日も練習。

暑くなってきたからこそ、疲労回復の為にも野菜の栄養価が欠かせない。

昔取った杵柄を実感出来ることがどれだけ幸せなことか。

よっしゃ、頑張るぜ!

ありがとう、ラタトゥイユ。

エセだけど(笑)

身体障害者の身体能力

2022年06月06日 22時04分07秒 | 日記
パラ卓球は身体障害者と知的障害者の競技なのだけれど、そのクラスは全部で11に分けられる。

その内1~10が身体障害者のクラスになる。

大半が身体障害者の競技ということになる。

で、そのクラスがどのように分けられるか?

それは専門のライセンスを持ったドクターの診断を受け、協議の上で正式に決定される。

障害も人それぞれだし、同じ障害でも完全麻痺とか不全麻痺とかもあり人によって異なれば、中には世界的に超レアなケースもあったりして、決して一概に言えるものではないし、だからこそ、同じクラスでも障害の内容は人それぞれ異なるのだ。

中にはドクターも悩むようなケースも少なくはなく、その判定は選手のその後を大きく分けるのでとてもセンシティブでデリケートなものになる。

多分、パラ卓球に限らずクラス分けを求められる競技はどれも同じだと思うし、その問題?課題?とは絶えず向き合っていかなければならないことになる。

だから?「トレーニングをして身体能力を上げるとクラスを変えられるぞ」と言われたこともある。



でもそれってどうなんでしょう?(笑)

僕は脊髄損傷。

この部分を損傷しているから機能するのはこの部分、ここから下は動かせないし動きません、といった「一般的」な基準が医学的に世界レベルで認知共有されている。

でも、それはあくまでも一般的な脊髄損傷者であり、普通に生活を送っている脊髄損傷者だと思う。

でもパラアスリートは必ずしもそうではないと思うし、むしろ違っていて当たり前だと思う。

だって、オリンピック選手だって身体能力は水準をはるかに超えているのだから、パラのアスリートも同様のことが言えるはず。

日々トレーニングを行い、自分を追い込むように活動を行っている人は、必然的に水準を上回る身体能力を身につけていくはず。

だから、「普通じゃない身体の動き」がごく自然と出来ると思うのだ。

障害によって分けられるパラ卓球のクラス。

でも「あのクラスであの動きは普通じゃない」と言わせる動きが出来るからこそのアスリートなんじゃないかなと考える。

でもそれは最初から出来たことではなくて、出来るようになるまで頑張ったから出来ることなのだ。

その方が断然カッコいい。

頑張って出来るようになって、動けるようになって、それでもしクラスを変えられるなんてことがあれば、それはそれで称えられることだと僕は思う。

努力の証なのだから。

競技としては厳しくなるかもしれないけれど、一生の財産になることは間違いない。

そもそも、専門のドクターはそれがトレーニングの結果によるものなのかそうでないのかを見抜く目を持っているものと思われる。

身体能力は高いに越したことは無いし、磨くに越したことは無い。



でも、その「普通じゃない動き」の評価を、その人の努力をたたえるのではなく「障害が軽いから」とあたかも言いがかりをつけるようなシーンを度々目にする。

まぁ確かにそういうこともあるかもしれない。

かつては障害を偽って低いクラスでプレーした選手もいたと聞くし、国際大会でも専任のドクターが常にチェックを行っているから、クラスの変更を指示される場合も少なくはないし、そもそもクラスの判定を受ける時点で万が一に備えているケースもあると思われる。

とにかく、本来のアスリートマインド、スポーツマンシップはまず相手をたたえる、その努力をたたえることにあると思うのだ。

動かせない部分は確かにある。

けれど、動かせる部分も立派に存在し、その部分を鍛え上げる、磨いていくことは出来るのだ。

その結果、「普通」を超えたフィジカルを得ることが出来、そうした動きが可能になると思う。

本人の努力が成せるものなのだな。

それが「障害」という雲に隠れてしまいがちなところはパラスポーツのちょっと残念なところ。

アスリートなのだから、普通じゃなくて当然。

それを障害とかクラスで括った目で見るのは歪んだものの捉え方なのかもしれない。

素直に「すごいね!」「さすがだね!」と見るべきだし、だからこそ、「自分もそうなりたい!」という熱伝導が生じることになる。

生まれた時からプロという選手はいない。

努力したからそうなれる訳だし、努力し続けるからそう居続けられると思うのだ。



障害があるから「出来ない」「出来なくて当然」と考えるのではなく、「どうやったら出来るか」「どうやったら近づけるか」を考えて努力していかなければならない。

けれど、先述したように障害の内容は人それぞれ。

だから、答えも人それぞれ。

どこに正解があるか分からないし、誰かが明確に教えてくれるものでもない。

自分で見つけるしかないのだ。

だから、絶えずトライ&エラーを繰り返し行って、でも諦めずにまた様々考えて、行動し、反省と修正を繰り返し活動していくものなんだろうな。

考えて分からないことも、考え続ければ分かる・・・のかな?(笑)

継続は力なり。

その質が高ければ高いほど、積み重なるものはより大きくなる。

直ぐには分からないけどそれでも考え続け頑張り続けるから身につくものがある。

それが、「普通」「常識」の範囲を超えたレベルへと導く。

パラアスリートってそういうものだろうし、それが世界レベルであれば尚の事。

そんな舞台でやり合うのであれば、「普通」ではきっと厳しい世界になると思う。

そんなレベルではなく、常識を超えた世界でお互いの一番優れた部分をぶつけ合い、正々堂々挑み合うから見る人に感動を与えるのだと思う。

それがスポーツの力だ。



言うのは簡単なんだよなぁ(笑)

理屈は分かるんだよなぁ(笑)

問題は行動すること、そして結果だ。

普通じゃないと評価され、それを誇りに出来るように、毎日をしっかり頑張っていかなきゃならない。

慌ただしい毎日が過ぎていく。

ただ流されるのではなく、自分で進むべき道をしっかり捉えて、自分の足で一歩ずつしっかりと前進していかなければと思う。

車椅子だけど(笑)

自分磨き、多角的に磨いていく。

自分で考えるからこそ成長できる。

自分一人で成長していく訳ではないけれど、成長とは自分で「させていく」ものなのだとあらためて思う。

誰かに「してもらう」ことではない。

自分でする。

雨ニモマケズ、風ニモマケズの心意気で。

でも傘のさせない車椅子では雨には負けがち(笑)

歯を食いしばって頑張るのだ!