車椅子で卓球@渡邊剛

2013年より車椅子卓球をスタート。備忘録の意もこめてここにブログを綴ります。
内容は基本パラ卓球、時々食文化。

集団浅慮!

2024年09月16日 21時27分05秒 | 日記
恐ろしい言葉を学ぶ。

それがタイトルの「集団浅慮」。

練習の待ち時間に読んだ本に書いてあった。

それは僕が所属する会社の元上司に勧められて読んでいる本。

尊敬するメンタル・トレーナーも読んだというので尚の事僕には意味のある本なのだ。

それを読み進めていると出てきたのがこの言葉だった。

どういう意味か興味ある方はご自身でお調べください、敢えてここでは書きません。



その言葉を知り、僕は納得がいった。

人付き合いとか人間関係で、僕が苦手とする人たちってこれで定義付け出来ると思えたから。

真っ先にイメージしたのが太平洋戦争時の旧日本陸軍。

そのほかにも思い当たる集団や組織、団体、グループなどは多々あるし、僕が経験しただけでも思い浮かぶものは複数ある。

どうもそういうのが苦手だなと思っていたけど、それは心理学とか専門家の見地からすると明確に分類できるようなのだ。

実際に研究データもあるらしい。

自分のイメージが言語化された思いで驚いたし、それを知ることが出来て嬉しかった。

ちなみにその本には「ボスとリーダーは違う」とも書いてあり、それも納得。

あぁあの人はただのボスだ、あの人はリーダーだったなと自分史を振り返りもした。

そのボスとリーダーのことには持論もあって、僕は30代前半の頃にリーダーとマネージャーの違いというのを学んだので、リーダーの在り方、マネージャーの在り方というのにも自分なりの考えがあり、ダメなリーダー像が「ただのボス」になるのだなと理解。

自分の知識と新しい情報がリンクするのはとても刺激的だしものすごくプラスになる。

こういう学びを得られるのは心底嬉しい。

だから「読書」というのはものすごく有意義であり価値を生み出すものだと思っている。

元本屋の倅として(笑)



今や「本」は読むだけでなく「聞く」時代になっている。

これは効率のいいことだと思う。

けれど、それが本当に効率良いものなのかどうかはおそらく人によって異なると思う。

個人差があるということだ。

なぜ?

だって、その情報の入り口が「視覚」と「聴覚」で異なるから。

耳から入る情報と目から入る情報で脳の分析速度が違ってくるというし、そこには個人差があってこっちの方が速いとか遅いとか、得手不得手が人によって存在するものらしい。

これは脳科学の分野の話。

僕から説明は出来ないけど、だから本を「読む」のと「聞く」のでは情報処理能力、速度に個人差が生じるだろうからより効率の良い方法をそれぞれが選択しなければならない新しい時代を迎えていることになる。

いずれにせよ、「書物から学ぶ」ということは自分以外の知識、他者の経験に触れることなので、それだけで大きな価値があると思っている。

賢者の学び方、なのだな。

子供の頃はあんなに読書が嫌いだったのに(笑)



話を戻す。

「集団浅慮」という現象を目の当たりにした時、自分はどう判断し行動するのか、出来るのか、それは自分の意志の固さ、意識の高さに直結するものだと思うけど、別段これまでと変わることはなく自分に嘘をつかずに正直にいたいと思うし、あらためて、そこは潔く誇り高くありたいと思う。

「集団浅慮」という状況をよしとする、あるいは心地よく思うのは一部の「ボス」であり、それは裸の王様のようなもので、忖度を受けてその立場にあることを心地よく思う人。

逆に「有能なリーダー」はそんな状況を絶対に認めないだろうし、悲しむ、あるいは叱咤する、そして改善しより良い状態、チーム・ビルディングを図り、より良い方向へ導いていける人だと思う。

そんなチームの一員であることがどれだけ誇り高い事だろう。

どれだけ幸せなことだろう。

僕はリーダーになりたいわけではないし、僕にその度量はないと自覚している。

けれど、マネージャーとしてリーダーを支えるポジションはこれまでも経験しているし、そういう仕事にあこがれも持っていた。

例えば秘書とか、執事とか、晩餐会のディレクターとか。

自分が「この人は!」と思える人を支えて差し上げたい、それを仕事に出来ればそんな嬉しく楽しいことはない、と思ってきた。

逆に、リーダーじゃなくてただのボスだ、と思ってしまえば見切りをつけるのはきっと早いと思う。

だからこそ自分が人の上に立つ時には、見切りをつけられないよう自分自身が成長し続けないといけないと思うし、リーダーやマネージャーとは本来そうしてチーム全体での成長を促していくものだと考える。

だから、「集団浅慮」なんてことはものすごく恐ろしいし、凄く嫌だ。



超、見切りの対象(笑)



今までそんな気持ちを抱いていたけど、今回元上司から教えてもらった本でその言語化にたどり着けたのはものすごく嬉しい。

言語化出来たから、より明確にしていける。

そういう知識や情報を共有し活用していける会社の心地よさ(笑)

集団浅慮のまさに対極。

ホント、いろいろ学ばせてもらっている。



「フィードバック」、そして「コーチャビリティ」。

これも会社で学んでいること。

僕が取りまとめる車椅子卓球チームには中学生や高校生も複数いるけど、彼らはいずれ社会に出る、まさに「社会人」となるわけだから、その時にただ障害者雇用枠で採用されるだけの人間ではなく、障害の有無を問わず一人の「人材」として企業や組織にとって「価値ある存在」となるべく学んでいってほしいという観点から、この2つの言葉をコンセプトとして活動している。

そうすれば、「集団浅慮」なんていうことがどれだけ馬鹿らしいことか、ネガティブなことかを理解出来るだろうし、そうなってはいけないと判断・行動できるだろうし、それこそが「人材」として輝けることになると思っている。

現時点で彼らにこの言葉の意味を理解しろとは言わない。

ただこの単語を覚えておいて欲しいと伝えている。

そうすることで、将来その言葉に接した時の理解度は大きく違っているはずだから。

彼らが安易に「集団浅慮」に流されるリスクを回避させることの一助になるのではと思うし、少なくとも、それに流されるようなそんな大人にはなってほしくないから。

「類は友を呼ぶ」というから、そういう人ばかりで徒党を組むともう後戻り出来なくなっちゃうよ、と言いたい。

怖い怖い(笑)



隙間時間の読書で思いがけず良い学びを得られた。

こうやって与えてもらったチャンスを活かし、掴み、自身の成長として行きたい。

別に専門家になりたいわけではなく、知った風な口をきいてドヤ顔を見せたいとかイニシアチブを取りたいとか、そんな気持ちは全くないつもり。

だから僕は人と話す時でも「〇〇さんが言ってた」「本に書いてあった」と注釈をつけることが多い。

そこで見栄を張りたくないし、その言葉に信憑性を持たせたいから。

その為にも、真摯な態度で多くを学び知識を重ね、でも謙虚な姿勢で歳を重ねていきたい。

それが僕にはカッコいいと思えるから。

少なくとも、集団浅慮を構成するような大人にはなりたくないなと思う。

でも小心者だからなぁ・・・(笑)

とにかくいくつになっても学ぶことをやめず、それこそまさに日々精進していきたい。

パリ・パラリンピックが終わる

2024年09月12日 21時28分28秒 | 日記
目指していたけど行けなかったパリ・パラリンピック。

それが終わった。

テレビで結果はちらほら報道されていたけど、それはメダル獲得のニュースだけ。

それはそれで楽しめたけど、でも中継等が無かった?(のは僕が分かっていないだけだとして)、いずれにしてもメディアの扱いにおいてオリンピックとの差があまりにも大きいのにはちょっと残念な思いもある。

それが日本社会の現状。

もしTOKYO2020が有観客で開催されていたらまた違っていたのかもしれないと思う反面、「らしさ」を感じるところに俯瞰している自分がいる。

でも試合はネットで配信されていたので色々見れて楽しめたし、これまで以上に勉強になった。

多くを学べたパリだった。



じゃぁ自分はどうする?

そう考えた。

それが問題だ。

パラスポーツの為に?パラ卓球の為に?ではなく、あくまでも一個人として自分の為に自分がどうあるべきかを考えた。

もっと上に向かうために、前に進むために、どうするべきか、何をしなきゃいけないのか、そう考えさせられた。

ある意味それがパリ・パラリンピックが僕に与えた一番の影響といえるし、今までとはまた違った捉え方が出来たのにも手ごたえを覚えたところ。

例えハードルがあったとしても、諦めることなく見定める方向へと足を進めていきたい。

その為に何をどうすべきか?

まずは自分で考えて判断し行動していきたい。



でもその前に、僕にはパラ卓球の全日本選手権が目の前に迫っている。

だからパリを見ながらも自分のことでいっぱいいっぱいだった。

それは今も同じ。

コンディショニングに注意し、トレーニングを行い、チェックし、毎日を過ごす。

パリの結果はすごく気になるから確認するし動画も見る。

だから期間中はちょっと寝不足だった(笑)

でもその対価は大きいものだった。

がしかし、それはそれ、これはこれ。

僕の目の前にはまず全日本が存在する。

そのステップを踏まなければ、その先はない。

だから、まずは自分のことを精一杯やる、それを意識していたし、それは今も変わらない。

その甲斐あってか、コンディションは現状良い感じ。

でもそれで足元をすくわれることが無いよう注意し、無事に当日を迎えプレー出来るようにしたい。



「努力は自分を裏切らない」

好きな言葉だしある意味信念とする言葉でもある。

逆に努力が必ずしも結果を生むわけではないことも重々承知している。

けれど、重ねた努力は確実に積み重なるものであり、それを実感出来ていれば、それこそが自分を裏切ることがないものであるとも理解している。

だからこうして活動していけるのだし、さらに上を目指していける。

努力というのは、年齢に関係なく積み重ねていけるものだと思う。



今回のパラリンピック、有観客のパラリンピック会場がどれほどのものなのかを思い知らされた。

やはりものすごい熱量に満ちている。

通常の国際大会とは比べ物にならない。

2018年にインドネシアで開催されたアジアパラは経験あるけれど、それとも全然桁が違う。

スロバキアでのパラ卓球の世界選手権も経験したけど、比べ物にならない。

パラ卓球をはじめて2年目に出場した全国障害者スポーツ大会(略して全スポ、いわゆる障害者の国体)、あの盛り上がりを初めて体験した時は凄いなと思ったけれど、そのスケールを何十倍にもした熱量の空間なのだと思う。

ちなみに全スポは障害を持つ人のスポーツ活動の登竜門であり、競技レベルの向上ではなく障害者の社会進出を促すことが目的とされているらしい。だから僕は一度経験したのでもう出場しないことにしている。その席を必要とするこれからを目指す若い世代の為に。

話が逸れたけど、有観客のパラリンピック、あの雰囲気の中で試合をするということがどれほどのことなのか、自分だったらどうなのかも少し考えてみた。

多分、それほど変わらないと思う(笑)

ワールドツアーなのかパラリンピックなのか、いずれにしても試合に変わりはない。

だから、全日本も同じ試合なのだ。

環境面は大きく違う。

宿舎からバスで向かうのか、自宅から車で向かうのか、セキュリティの有無やレベルの違い、そうした環境面の違いに合わせてコンディショニングを行いベストを尽くすだけ。

こういう気持ちで迎える試合だからこその緊張やプレッシャーはあるけど、積み重ねているものを十分に発揮できるように、トレーニングの成果を発揮できるように頑張りたい。

その為にはまずコンディションの維持。

ケガをしたりアクシデントに見舞われないように気をつけていく。

見定めるこの先の道へ前進していけるように取り組んでいく。



口で言うのは簡単なんだなぁ(笑)

何とでも言えるものだから(笑)

でも行動は結果を伴って可視化出来るもの。

それは物理的なところにも表れるし、人はそれ評価するものだと思えば、いわゆるイメージの大半はそこから生じるものだと思う。

だからこそ、「あの人は口先だけだ」と言われないように、行動と結果でちゃんと示せるようにしていきたい。

と、自分にプレッシャーをかける(笑)

まずは体調管理。

先を見定めしっかり頑張っていく。