最近あらためて、「障害者」としての自分自身の立ち位置を考えた。
というか、再確認した。
なぜ?
「車椅子の障害者」
「車椅子の障害者スポーツ選手」
として、イベントへの出演や講演を承ったから。
それは何も今に始まったことではないけれど、そういったものに出演させていただき、主催者の意向を伺ったうえで話をさせていただいたり身体を動かしたりしていると、社会が僕のような車椅子利用者に何を求めているのかがより明確に見えてくる感がある。
僕の感じたそれが果たして正解かどうかは分からないし、もしかしたら僕の思い過ごしかもしれないけれど、僕の目にはこれだというものが見えていて、自分自身がそれを理解できたことに喜びを覚えるというか、自信が持てたような、そんな気がしている。
社会が求める理想の障害者像、理想の車椅子利用者像。
その先にあるパラ・アスリート像。
それをパラ卓球(車椅子)に当てはめた時、どうあるべきなのだろう?
どんなプレーが良いのだろう?
卓球は一対一で、選手が2740mmの長さの台を挟んで向かい合い、約40mmのボールを打ち合い、点を奪い合う競技。
対人競技で点を奪い合う競技だからこそ、「相手をだます」「弱点を突く」といった技が必要不可欠になる。
でも、卓球に限らずすべての競技には公平性を保つためのルールが存在するし、フェアプレー、スポーツマンシップといった精神、マナーも求められる。
ルールにのっとっていれば「相手をだます」「弱点を突く」ことは許される。
でもそれはスポーツマンシップやマナーに相反することではないのか?
いや、1点を奪い合う競技だからこそ、そんな綺麗事は言ってられない。
スポーツは勝負の世界。
勝ってなんぼ。
負けたら終わり。
勝たなきゃ意味が無い。
ごもっとも。
それは当然理解できる。
理解しているつもり。
だけど・・・と、僕は考える。
勝たなければ意味が無い。
確かにそう。
でも、「勝つために手段を択ばない」という選択を、特に日本人は嫌うものだと思う。
それは、日本に古くから存在する「道」の精神の表れだと考えるし、そこには作法という美しい所作も含まれるから、ある意味それを正々堂々と競い合うことに美学を見出す、そんな気質が日本人の中には根深く存在しているのだと思う。
そして、現代のスポーツというのはプレーする自分だけでなく、応援してくれる方々があればこそだとも思うのだ。
プロとして活動すればなおのこと。
応援してくれる方々に認めてもらえるプレー、ファンに感動を与えるプレーが無ければ、結果的に自分の首を絞めることにもなりかねないんじゃないかなと思う。
弱点が顕著なパラ卓球、車椅子卓球でその重要性はより高い。
「障害者(車椅子)があんなに頑張っている!」
という姿がパラスポーツには特に必要不可欠な要素で、その姿が見る人に感動を与えるものだし、それを見せてくれる、与えてくれる選手や競技がファンを獲得するものだと思うし、健常者目線で見れば、それこそがパラスポーツに求めるものだと考える。
逆に、その姿を見せることなく、ただ相手の弱点を突くことに徹して勝利を得る、それこそ「こズルい」「せこい」プレーばかりで点を取りに行く、そんなプレーに人の心は魅了される?そんな選手が果たしてどれだけのファンを獲得できるのか?と思うのだ。
競技種目が何であれ、社会が求める理想像を踏まえたうえで取り組み、磨き上げていかなければ、もしかすると、社会で日の目を浴びることは無いのかもしれない。
スポーツとして、その選手が人に感動を与えることが出来なければ、そうしたプレーが出来なければ、何をどう言葉で説明したところでそんなものは付け焼刃でしかないし、逆にその言葉が虚しく響くだけになってしまう。
「障害者」として公の場に出ると、思いのほか様々なことが見えてくる。
逆に、自分がいかに無知だったか、視野が狭いのかを思い知らされる。
「障害者」として話をさせていただく。
でも僕は車椅子の身体障害者でしかない。
この社会には同じ障害者でも様々な方がいて、それぞれ様々な問題を抱えている。
身体障害者の僕がこの社会全体の「障害者」を語ることは出来ない。
僕が語れるのは身体障害者の、それも車椅子という部分だけ。
でも、そこに社会が何を求めているのか、何を知りたいのか、その扉を少しだけ開くことが出来た、そんな気がしている。
その意識をもって、僕はパラ卓球に取り組んでいきたい。
パラ・スポーツ選手としての自分を磨いていきたい。
日本人として、美しく思われる選手でいたい。
だけど、結果もしっかり出していきたい。
道は決して平坦ではない。
でも、その道を進む力が今の僕にはある。
応援してくれる方々も大勢いる。
「王道」で「圧勝」の「横綱相撲」が理想的じゃないか。
その横綱は見えないところでものすごくハードな稽古を積み重ねていって横綱になり、そうなってからも自分磨きを怠らずに稽古を重ねているのだと思う。
「横綱の相撲にふさわしくないですね」
という解説を時折耳にする。
それが日本人の美学であり、伝統なのだ。
障害者スポーツにも同様の美学は存在するはず。
勝利は大切。
でも、そこへのアプローチはある意味もっと大切。
幸い僕の美学とコーチ達のそれは重なっている。
多少遠回りかもしれない。
それでも良い。
信念を貫いてやる。
「障害者」「車椅子」として、格好よくプレーし、生きていこうと思う。
いくつになっても学びは終わらない。
謙虚に低姿勢で、でも、威風堂々と胸を張っていられる車椅子でいたい。
というか、再確認した。
なぜ?
「車椅子の障害者」
「車椅子の障害者スポーツ選手」
として、イベントへの出演や講演を承ったから。
それは何も今に始まったことではないけれど、そういったものに出演させていただき、主催者の意向を伺ったうえで話をさせていただいたり身体を動かしたりしていると、社会が僕のような車椅子利用者に何を求めているのかがより明確に見えてくる感がある。
僕の感じたそれが果たして正解かどうかは分からないし、もしかしたら僕の思い過ごしかもしれないけれど、僕の目にはこれだというものが見えていて、自分自身がそれを理解できたことに喜びを覚えるというか、自信が持てたような、そんな気がしている。
社会が求める理想の障害者像、理想の車椅子利用者像。
その先にあるパラ・アスリート像。
それをパラ卓球(車椅子)に当てはめた時、どうあるべきなのだろう?
どんなプレーが良いのだろう?
卓球は一対一で、選手が2740mmの長さの台を挟んで向かい合い、約40mmのボールを打ち合い、点を奪い合う競技。
対人競技で点を奪い合う競技だからこそ、「相手をだます」「弱点を突く」といった技が必要不可欠になる。
でも、卓球に限らずすべての競技には公平性を保つためのルールが存在するし、フェアプレー、スポーツマンシップといった精神、マナーも求められる。
ルールにのっとっていれば「相手をだます」「弱点を突く」ことは許される。
でもそれはスポーツマンシップやマナーに相反することではないのか?
いや、1点を奪い合う競技だからこそ、そんな綺麗事は言ってられない。
スポーツは勝負の世界。
勝ってなんぼ。
負けたら終わり。
勝たなきゃ意味が無い。
ごもっとも。
それは当然理解できる。
理解しているつもり。
だけど・・・と、僕は考える。
勝たなければ意味が無い。
確かにそう。
でも、「勝つために手段を択ばない」という選択を、特に日本人は嫌うものだと思う。
それは、日本に古くから存在する「道」の精神の表れだと考えるし、そこには作法という美しい所作も含まれるから、ある意味それを正々堂々と競い合うことに美学を見出す、そんな気質が日本人の中には根深く存在しているのだと思う。
そして、現代のスポーツというのはプレーする自分だけでなく、応援してくれる方々があればこそだとも思うのだ。
プロとして活動すればなおのこと。
応援してくれる方々に認めてもらえるプレー、ファンに感動を与えるプレーが無ければ、結果的に自分の首を絞めることにもなりかねないんじゃないかなと思う。
弱点が顕著なパラ卓球、車椅子卓球でその重要性はより高い。
「障害者(車椅子)があんなに頑張っている!」
という姿がパラスポーツには特に必要不可欠な要素で、その姿が見る人に感動を与えるものだし、それを見せてくれる、与えてくれる選手や競技がファンを獲得するものだと思うし、健常者目線で見れば、それこそがパラスポーツに求めるものだと考える。
逆に、その姿を見せることなく、ただ相手の弱点を突くことに徹して勝利を得る、それこそ「こズルい」「せこい」プレーばかりで点を取りに行く、そんなプレーに人の心は魅了される?そんな選手が果たしてどれだけのファンを獲得できるのか?と思うのだ。
競技種目が何であれ、社会が求める理想像を踏まえたうえで取り組み、磨き上げていかなければ、もしかすると、社会で日の目を浴びることは無いのかもしれない。
スポーツとして、その選手が人に感動を与えることが出来なければ、そうしたプレーが出来なければ、何をどう言葉で説明したところでそんなものは付け焼刃でしかないし、逆にその言葉が虚しく響くだけになってしまう。
「障害者」として公の場に出ると、思いのほか様々なことが見えてくる。
逆に、自分がいかに無知だったか、視野が狭いのかを思い知らされる。
「障害者」として話をさせていただく。
でも僕は車椅子の身体障害者でしかない。
この社会には同じ障害者でも様々な方がいて、それぞれ様々な問題を抱えている。
身体障害者の僕がこの社会全体の「障害者」を語ることは出来ない。
僕が語れるのは身体障害者の、それも車椅子という部分だけ。
でも、そこに社会が何を求めているのか、何を知りたいのか、その扉を少しだけ開くことが出来た、そんな気がしている。
その意識をもって、僕はパラ卓球に取り組んでいきたい。
パラ・スポーツ選手としての自分を磨いていきたい。
日本人として、美しく思われる選手でいたい。
だけど、結果もしっかり出していきたい。
道は決して平坦ではない。
でも、その道を進む力が今の僕にはある。
応援してくれる方々も大勢いる。
「王道」で「圧勝」の「横綱相撲」が理想的じゃないか。
その横綱は見えないところでものすごくハードな稽古を積み重ねていって横綱になり、そうなってからも自分磨きを怠らずに稽古を重ねているのだと思う。
「横綱の相撲にふさわしくないですね」
という解説を時折耳にする。
それが日本人の美学であり、伝統なのだ。
障害者スポーツにも同様の美学は存在するはず。
勝利は大切。
でも、そこへのアプローチはある意味もっと大切。
幸い僕の美学とコーチ達のそれは重なっている。
多少遠回りかもしれない。
それでも良い。
信念を貫いてやる。
「障害者」「車椅子」として、格好よくプレーし、生きていこうと思う。
いくつになっても学びは終わらない。
謙虚に低姿勢で、でも、威風堂々と胸を張っていられる車椅子でいたい。