えん罪・布川事件 国賠を求めてたたかう夫の傍で

えん罪を晴らし、普通の一市民に戻った夫。二度と冤罪が繰り返されないようにと、新たな闘いに挑む夫との日々を綴ります・・・。

両親と思いを一つにして・・・

2011-11-20 | 日記
夫が長いえん罪生活の中で、最高裁で上告が棄却され「無期懲役」が確定したとき、その決定に対し
「えん罪の訴えと最高裁の対応」というタイトルで唯一社説を書いてくれた読売新聞の記事に支えられたことは、夫の口からいろんなところで語られているが、
この、当時の新聞記事が「無期確定」のその日の記事と一緒に、義父の遺品の中からも出てきた。
1978年7月の記事。
もうすっかり色も黄ばんでしまっている。
でも小さく畳まれて、その年の「第4回守る会総会」(1978.9.26)の写真記録の間に挟まれてあった・・・。

義父の思いもまったく夫と同じだったのだろう・・・。

          

 そして、同じようにまだ未決で東京拘置所にいた1976年。
義母が危篤状態にあったとき、「母に面会のため拘置停止申請」をしたが認められなかった無念の思いを朝日新聞に自ら投書した記事も、大切に義父のもとで保管されていた。(清水誠先生が『拘置停止申請に非常な扱い』と投書いただいたあとに投稿)

          

 私は、当時の義母の思い、義父の思いを想像することだけしかできないが、夫が両親や兄姉妹とどんな涙を流して来たのか忘れないためにも、これらの記事をこんどは私が守っていこう、と思った。
そして、両親の遺影の前でそのことを誓った・・・。


 「無実の者は無罪に!」

 この当たり前のことが、全く守られていない。いちど被疑者と疑われた段階から人権が無視され、非人間的扱いをされ、無実を証明する証拠は隠され、有罪を導く証拠のねつ造がされる。
裁判官は、その不正行為を見抜けない。当事者の「真実の訴え」に耳を塞ぎ、弁護人の主張より、同じ司法の仲間である「検察官の声」に心を開いてその声しか聞こうとしない。

 布川事件も、夫と杉山さんの「無罪」こそ確定したが、44年もの時間を奪ったことに裁判所からはもちろん誰一人、夫たちに謝罪は無いし、布川事件に関わった捜査官、裁判官の誰一人責任を問われていない。
このようなことが、現実、許されていることに「おかしい」と思うのは当事者だけではないだろう。
普通の市民感覚で十分理解していただけることだと思う。
私は2007年、国連欧州本部(ジュネーブ)で行われた拷問禁止条約日本政府報告第1回審査の折、審査員との公式ミーティングで、直接日本における冤罪被害者の家族として審査委員に訴える機会を戴き、
「えん罪は、国家の誤りであり、それを放置し続けるのは『国家の犯罪』です。夫たちは、40年もの間、えん罪の精神的苦痛を受け続けています。一日も早く日本の再審制度に道が開かれるよう、厳しい勧告をお願いします」と訴えた。

 折も折、審査会の当日の朝、現地新聞は日本における「えん罪・志布志事件」を大きく取り上げていて、日本政府代表者への質問の際、
「新聞を見たが、これら過ちを犯した担当官はどのような責任をとったのか」という質問が出された。
政府代表者は、「おきまり」の文言を読み上げ「適正に処理した」風な言い方で逃げた。

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 夫のたたかいはこれからも続きます。
味わった家族の苦しみ、悲しみ、無念の思いをも背負いながら・・・。
国家の責任を求めて。

それが、えん罪で今も苦しんでいる仲間を一日も早く救出する力になること、ふたたびえん罪で泣く人が出ない司法の改革につながることを信じて・・・。





息子から父へ・・・

2011-11-20 | 日記
 義父の遺品の中に
28年前、夫が獄中から、茨城県本部の旗開き(新年会)に参加する父にメッセージを託した手紙があった。

これは、親族の父親以外に認められていた「保護者」の高橋勝子さんあてに送られた手紙の一部で、一枚一枚に千葉刑務所の検閲の判が押されていて、「83.1.28 勝子の許に」と父の筆跡によるメモが加えられていた。

               

読みながら、夫と義父の心の通いを想像して胸が熱くなった・・・。



ページは、便箋の21ページ目。
 
追伸
 父ちゃん、手紙は1/21日に届いたよ。29日は旗開きに行ってくれるのですか。ご苦労さまです。そういう行動が、少しずつ運動を大きくして行くのですね。私も茨城の皆さんに挨拶を送りますから、当日、持って行って下さい。

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明日、36才になりますが、考えると私は、父ちゃんが36才の時の子供なのですね。当時は、どんな生活をしていたのでしょうか、

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この中の36才は別に何もありませんが、元気でやってますので、どうかご安心を。
 それじゃ、風邪に注意してね。また来月に。



                 


22、23ページ、

茨城県本部の皆さんに年頭のご挨拶を申し上げます。
昨年度は、種々とお力添えを戴きまして、どうもありがとうございました。

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この新しい年には念願の再審請求が実現できる見通しとなりました。
これも皆さんのお力添えのお陰と、心から感謝申し上げております。

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この闘いは、或いは今日までの闘いよりも厳しいものが待っているかもしれませんが、私は、今後も皆さんのお力添えを支えと致しまして、焦らず、あわてず、そして揺るぎなく真実を叫び、求め続けるつもりです。

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日本国民救援会茨城県本部大会にて

2011-11-20 | 日記
      

  茨城県本部第32回定期大会が行われた。
今年は、長い間、地元事件として支援を続けた「えん罪・布川事件」が「完全無罪判決」(2011.5.24)を得ての記念の大会ともなった。
夫たちの勝因の一つに、「日本国民救援会との出会い」があったことはこれまでにもなんども語られてきたが、私も救援会員の一人としてそのことがとても嬉しい。
 そして、それは夫ばかりでなく、まったくたたかいの先が見えない時代を救援会の皆さんに励まされながら「息子の無実をあかすために」訴え歩いたという義父の姿に、思いが重なる。
義父の遺品をあらためて手にする機会が増え、先日も胸を熱くすることがあった・・・。
私は、発言の中でそのことに触れ、みなさんに改めて家族の立場から感謝の言葉を述べた。

 (写真は、晴れやかに、勝利を得ることのできた報告と感謝のことば、これからのたたかいを述べる夫)



2011.11 in 沖縄

2011-11-20 | 日記
            

沖縄に行ってきました。天気が悪く「沖縄の海」を見られなかったことが残念
でも、沖縄特有の「風」、「空気」、「歴史」を感じながら那覇市以南を歩いてきました。
相変わらずボーっとしていて、カメラの充電器を忘れ、写真はほんの一部しか撮れていませんが・・・。

 そして、沖縄の皆さん、とても親切な方が多く、安心して一人旅をしてくることができました。

映画「ショージとタカオ」も観て来ました。
知人との4年半ぶりの再会も、楽しいひと時となりました。
次にいつ行くことができるかわかりませんが、また行きたい所の一つになりました
こんどは、夫といっしょかな?・・・