えん罪・布川事件 国賠を求めてたたかう夫の傍で

えん罪を晴らし、普通の一市民に戻った夫。二度と冤罪が繰り返されないようにと、新たな闘いに挑む夫との日々を綴ります・・・。

東海第2原発の再稼働に反対する理由

2020-01-15 | 日記
 東海第二原発の再稼働の是非を問う、県民投票条例を求めた署名活動が始まった。

私が原発に反対する理由は簡単だ。
 2011年の福島原発の事故を間接的と言われるかもしれないが、それでも私なりにこの茨城で直接体験したからに他ならない。

当時、私は総合病院に勤務していて、地震を5階建ての建物の3階で経験した。大きな揺れの中、患者さんを建物外に避難誘導する際に嗅いだ埃の匂い、見たひび割れ、外来の椅子を外に出し座らせ、ブルーシート、外の寒さ対策にリネン室の毛布を全部運びだしたこと、その後の停電、(断水も?)により、一旦病棟に戻った患者さんの夕食(弁当とペットボトルのお茶)を5階まで階段を使って運んだこと、それでも管理職の皆さんが泊り込みになる中、私は7時前には帰途についたが、市内は大混乱。渋滞で、進まず、やむなく車を知り合いの駐車場において歩いたこと。どこまでも続くテールランプの列を追い越し、車が途切れると全くの漆黒の闇が続き、すれ違うまで人の気配を感じる余裕もなく、崩れた塀で足元を取られながら歩いたこと。幸い迎えに来てくれた夫と会えた時の安ど感。時間は深夜11時になっていた。自宅は、団地の4階。夫が「寝るスペースだけは作っておいたから」ということで、懐中電灯でガラスなどが散乱している畳の上をじゃりじゃりとスリッパで踏みながら部屋に入り、洋服を着たまま寝たこと。家の中は恐いと言って車に寝る人が多かったけれど、夫は「家の中の方がまだ寒さはしのげる」と言った事。寝てからも余震が続き眠れなかったけれど、傍に夫がいてくれたことの心強かったこと。
その後も、通勤のためのガソリンが確保できない現実。流通も止まり、お店から品物が消え、線路も落ち、電車も止まったまま・・・。今までに体験したことのない異常な光景がそこにあった・・・etc.

その時、福島だけでなく、東海原発もあと一歩のところまで危険が迫っていたことを知った。
そして、私たちは、福島の汚染を事故後に降った雨を何の意識もせずに浴びた後に知らされたのだった。

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(あの3月・・・。
地震の二週間後、
44年かかってやっと再審で「無罪判決」が夫に下されることになっていた裁判所も被災し、結局、5月に判決日が延期された。)

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「原発は安全でクリーン」と言われてきたことが完全に崩れ、地元でどれだけ悲惨な状況が生まれたか、そして地元ばかりでなく隣県、関東圏で(陸上ばかりでなく海洋にまで)汚染が実際に起こり、家族の絆を割き、自然の恩恵を受けながら自然と共に生きて来た日本人の生業を奪い、生きる希望まで奪った事故を、二度と繰り返してはならない。

人間の力で事故の終息をなしえないものを動かしてはならないということ。
自然災害は止められないが、原発事故は原発を止めることで防げることを学んだ。

そして、次の時代を担い、引き継いでくれる子どもたちに「負の遺産」など絶対残してはいけないということ。

日本のエネルギーは、原発に代わる再生可能エネルギーに転換が可能なはず。
再稼働の是非、それを選ぶのは、私たち国民、地元住民ではないのか。

先ずは、大井川茨城県知事に「県民投票条例」を求める声をまっすぐ届けたい。


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