緒方洪庵の妻 名塩出身 八重さんの像
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蘭学通り
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/fc/e8142e67a7aa370dbb27dd066e821013.jpg)
名塩蘭学塾について
名塩蘭学塾(なじおらんがくじゅく)
名塩はむかしから紙すきの小さな村ですが、人々はとても研究熱心(けんきゅうねっしん)でした。紙の原料に土を入れて、熱に強い名塩紙を作り上げ、藩札(はんさつ)や金をのばす箔打紙(はくうちし)として有名にしました。
江戸時代の終わりごろ、名塩と新しい学問との深いつながりがありました。これも名塩の人たちの研究熱心の表れと言えます。その新しい学問は「蘭学(らんがく)」とと言って、オランダの学問です。まだまだ日本では特別な人たちの学問でした。
当時は、オランダの医学が西洋医学(せいよういがく)の代表でした。日本はその学問のおかげで、医学や物理学(ぶつりがく)など科学がずいぶん進歩したのです。今までの東洋(とうよう)の学問から西洋の学問へ、人々の目が開かれていきました。
名塩の里の億川百記(おくがわひゃっき)も、蘭学を学ぶことのできた一人でした。初め、紙すきの仕事をしていましたが、新しい勉強がしたいと考え、大阪の中天遊(なかてんゆう)というえらいお医者さんについて、オランダ医学を学びました、そして名塩にもどってお医者さんになりました。
百記は新しい勉強をしてきたお医者さんということで有名になり、名塩の村人はもとより、小浜(こはま)村や山口(やまぐち)村などから、たくさんの人がみてもらいに来ました。
その百記に、八重(やえ)という娘さんがいました。勉強もよくできて、気立てのいい人でした。八重は、百記が中天遊先生の所で勉強していた時いっしょにいた緒方洪庵(おがたこうあん)の夫人になりました。
百記は緒方洪庵の人物を見こんでいました。
「彼はきっと偉大(いだい)な蘭学の先生になる。」
百記の信じていたとおり、洪庵は長崎に留学し、日本の蘭学の大家(たいか)となりました。その後、大阪に「適塾(てきじゅく)」という学校をつくり、一千人もの弟子を持つ大先生になったのです。
洪庵が長崎に行く時には、百記をはじめ名塩の人たちがお金を集めて助けました。
八重さんは、その洪庵夫人として、適塾で大勢の門下生(もんかせい)のお世話をしました。
お弟子さんの中に、洪庵の片腕とも言われた伊藤慎蔵(いとうしんぞう)という人がいました。山口の萩(はぎ)の出身で、秀才(しゅうさい)でした。八重さんは、生まれ故郷の名塩から、お嫁さんの世話をしました。けれども不幸なことに、そのお嫁さんは若くしてなくなってしまいました。八重さんは心配し、再び名塩からお嫁さんの世話をします。その方も病気になってしまうのです。
「これはいけない。」
と八重さんは、父の百記や名塩の人たちに相談しました。そして、慎蔵に、奥さんの病気を治すために、名塩へ来ることを勧めました。もちろん、慎蔵にもいっしょに来てもらい、名塩の村で蘭学塾を開いてもらうことを考えたのでした。
こんないなかでの勉強と言えば、寺小屋(てらこや)しかなかった時代です。こんな小さな村で、最も新しい西洋の学問の学べる所をつくるなんて、名塩の人たちは、よほど進んだ考え方を持っていたのでしょう。
名塩の青年たちは、新しい学問に大きな魅力(みりょく)を感じ、熱心に勉強しました。多くのりっぱな人たちが名塩蘭学塾(なじおらんがくじゅく)から出たと言われています。遠く丹波(たんば)や播州(ばんしゅう)からも集まり、塾生は百人にも達しました。この塾は九年間つづきました。
このような山村に蘭学塾が開かれたことは、ふしぎと言うほかありませんが、また当然のことと思われます。八重さんとのつながりと同時に、名塩の人たちが学問に対して強い熱意(ねつい)を持っていたからです。
今、蘭学塾のあった億川(おくがわ)家の建物は残っていません。ただ、そばに八重さんの胸像(きょうぞう)と碑(ひ)が建っています。碑には、
「名塩蘭学塾遺跡(いせき)、旧億川邸跡(きゅうおくがわていあと)」
と刻まれて、私たちに名塩の里の学問の歴史を伝えて暮れます。
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蘭学通り
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名塩蘭学塾について
名塩蘭学塾(なじおらんがくじゅく)
名塩はむかしから紙すきの小さな村ですが、人々はとても研究熱心(けんきゅうねっしん)でした。紙の原料に土を入れて、熱に強い名塩紙を作り上げ、藩札(はんさつ)や金をのばす箔打紙(はくうちし)として有名にしました。
江戸時代の終わりごろ、名塩と新しい学問との深いつながりがありました。これも名塩の人たちの研究熱心の表れと言えます。その新しい学問は「蘭学(らんがく)」とと言って、オランダの学問です。まだまだ日本では特別な人たちの学問でした。
当時は、オランダの医学が西洋医学(せいよういがく)の代表でした。日本はその学問のおかげで、医学や物理学(ぶつりがく)など科学がずいぶん進歩したのです。今までの東洋(とうよう)の学問から西洋の学問へ、人々の目が開かれていきました。
名塩の里の億川百記(おくがわひゃっき)も、蘭学を学ぶことのできた一人でした。初め、紙すきの仕事をしていましたが、新しい勉強がしたいと考え、大阪の中天遊(なかてんゆう)というえらいお医者さんについて、オランダ医学を学びました、そして名塩にもどってお医者さんになりました。
百記は新しい勉強をしてきたお医者さんということで有名になり、名塩の村人はもとより、小浜(こはま)村や山口(やまぐち)村などから、たくさんの人がみてもらいに来ました。
その百記に、八重(やえ)という娘さんがいました。勉強もよくできて、気立てのいい人でした。八重は、百記が中天遊先生の所で勉強していた時いっしょにいた緒方洪庵(おがたこうあん)の夫人になりました。
百記は緒方洪庵の人物を見こんでいました。
「彼はきっと偉大(いだい)な蘭学の先生になる。」
百記の信じていたとおり、洪庵は長崎に留学し、日本の蘭学の大家(たいか)となりました。その後、大阪に「適塾(てきじゅく)」という学校をつくり、一千人もの弟子を持つ大先生になったのです。
洪庵が長崎に行く時には、百記をはじめ名塩の人たちがお金を集めて助けました。
八重さんは、その洪庵夫人として、適塾で大勢の門下生(もんかせい)のお世話をしました。
お弟子さんの中に、洪庵の片腕とも言われた伊藤慎蔵(いとうしんぞう)という人がいました。山口の萩(はぎ)の出身で、秀才(しゅうさい)でした。八重さんは、生まれ故郷の名塩から、お嫁さんの世話をしました。けれども不幸なことに、そのお嫁さんは若くしてなくなってしまいました。八重さんは心配し、再び名塩からお嫁さんの世話をします。その方も病気になってしまうのです。
「これはいけない。」
と八重さんは、父の百記や名塩の人たちに相談しました。そして、慎蔵に、奥さんの病気を治すために、名塩へ来ることを勧めました。もちろん、慎蔵にもいっしょに来てもらい、名塩の村で蘭学塾を開いてもらうことを考えたのでした。
こんないなかでの勉強と言えば、寺小屋(てらこや)しかなかった時代です。こんな小さな村で、最も新しい西洋の学問の学べる所をつくるなんて、名塩の人たちは、よほど進んだ考え方を持っていたのでしょう。
名塩の青年たちは、新しい学問に大きな魅力(みりょく)を感じ、熱心に勉強しました。多くのりっぱな人たちが名塩蘭学塾(なじおらんがくじゅく)から出たと言われています。遠く丹波(たんば)や播州(ばんしゅう)からも集まり、塾生は百人にも達しました。この塾は九年間つづきました。
このような山村に蘭学塾が開かれたことは、ふしぎと言うほかありませんが、また当然のことと思われます。八重さんとのつながりと同時に、名塩の人たちが学問に対して強い熱意(ねつい)を持っていたからです。
今、蘭学塾のあった億川(おくがわ)家の建物は残っていません。ただ、そばに八重さんの胸像(きょうぞう)と碑(ひ)が建っています。碑には、
「名塩蘭学塾遺跡(いせき)、旧億川邸跡(きゅうおくがわていあと)」
と刻まれて、私たちに名塩の里の学問の歴史を伝えて暮れます。