24/21℃
今日から梅雨前線が北上しここ1週間ほど本番の梅雨模様でうっとうしい日が続きそうだ。 12日(火)から所要で郷里新潟県新発田市へ里帰りし一昨日夕刻帰宅した。少々疲れも出たのか昨日はゆっくり休養し買い物などで一日過ごし今日は久しぶりの書き込み更新となる。12日は梅雨空で朝から神戸は小雨模様、長女の車で大阪/伊丹、空港までフライト時間2時間前前まで着くよう自宅を出発した。新発田へ行く目的は今年1月に逝った兄の特別な法要行事で行くのだが昼食と思い空港の食堂街の和風レストランに入ると亡くなった兄の遺族の家族が昼食していた。予定通り伊丹空港を飛び立ったが高度7000m(推測)で飛行体制に入ると眼下は梅雨空で厚い雲ばかりだ。機内アナウンスで新潟空港まで約45分のフライトだとアナウンスがあり機内のティーサービスが始まりアイスコーヒーを飲み終わり暫らくすると、もう着陸体制に入った。新潟付近の上空は晴れており佐渡ケ島が見えた。1時時間足らずで到着した。日本海縦断鉄道を利用すると新発田まで3度ほどの乗り換え、8時間以上の時間がかかるので高齢者には移動時のエスカレーター等の無い乗り換えは不向きなのである。新発田へは新潟駅から日本海縦断鉄道の一部である白新線で約40分(特急20分)を要する。
新発田市は新潟県下越地方に位置し、越後山脈の北部 の二王子岳があり古来より 信仰の対象となっておりその裾野、五十公野山には鎌倉時代、戦国期に鎌倉時代初期に幕府設立に戦功のあった佐々木盛綱の傍系である戦国武将、新発田氏による築城と考えられている。代々新発田氏の居城となっていたが1581年(天正9年)、新発田重家が上杉景勝に対して反乱を反乱を起こした(新発田重家の乱)が1587年(天正15年)、景勝により新発田城は落城し新発田氏は滅亡した。 その後秀吉の命により、上杉氏の会津転会津移封に伴い、1597年(慶長2年)、豊臣秀吉から秀の一字を賜った溝口秀勝が加賀国、大聖寺藩から6万石の所領を得て新発田に入封。新発田藩領内を治めるための拠点として新発田重家の旧城の地を選び、新発田城の築城を行っていった。(wikipediaより引用)
溝口藩は明治維新まで10万石の外様大名として存続し、維新後は旧日本陸軍の“新発田歩兵第十六連隊”が置かれ新潟県下越地区の郡都として栄えた城下町である。予約していた駅前のホテルには16時過ぎにテックインし夕刻には実姉2人と長姉の家で夕食をして、新発田へ来た目的の翌日行う「閉眼法要(閉眼供養/お魂抜き)」の説明と打ち合わせを行った。1月に逝った兄は菩提寺の檀家を務めてきたが新発田市内に嫁した83歳の長姉と80歳になった次姉と末弟の我輩の3人となり檀家としての将来の継承が困難となり親族一同協議して閉眼法要して大阪に移墓することゝしたのである。 戦後の日本の家族は核家族して地方から都会に流出して高齢化して、氏や家系の存続が薄れて地方にある寺は檀家離れが多くなったと、よく新聞等で「現代お墓事情」として目にするのである。
新発田駅は、白新線と羽越本線の分岐駅として、かつては、さらに多くの専用線が分岐していたようで賑やかだったのでしょうね。
お早うございます。コメント
戦前の子供の頃、広域の日本海縦断鉄道は羽越線が新潟駅を通らなく、県都、新潟市は北陸・信越線は新津駅でT字型で新潟駅へ行き、また新潟から羽越線の新津へ引き返して秋田・青森方面の特急「白鳥」等が運行して不便なものでした。
戦前から白新線(新潟市白山駅⇔新発田)計画があり戦争で中断されましたが昭和33年頃全線開通し現在は特急「いなほ」・「べにばな」が運行しています。また新発田⇔赤谷の鉱石貨物運輸目的とした赤谷線もありました。(現在は廃線)
新発田のことは良く知りませんが、Uchanのブログでその歴史を知りました。
私は暫らく飛行機での旅行をしていません。久しぶりに飛行機に乗ってみたくなりました。
コメント
新発田の酒蔵元では全国の愛飲家に名が通っているのは「菊水と王紋」です。
菊水はアルコール度数が19℃と辛口です。一方の王紋はどちらと言えば甘口で女性に人気があるようです。
拙者も「呑み助」で何でもよいのですがこちらは天下の酒、処の灘の酒です。
やはり法要の席で菊水を飲んできました。dojyou38さんも菊水好み、大分イケるようだと想像しています。