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「龍谷山本願寺(西本願寺)」の阿弥陀門からに入ると南北に大きな二つの本堂があり、堂の大きさに圧倒された。 南の堂は親鸞聖人御真影が安置されている「御影堂」で北には阿弥陀如来像が安置されている堂で「阿弥陀堂」と両堂とも国の重要文化財だと若い僧から説明を受けた。
西本願寺は「お西さん」京都駅の烏丸七条上ル西に東本願寺は「お東さん」と呼ばれ京都市民に親しまれている。 御影堂からお堂に入った。
大阪の御堂筋にも南北の御影堂があるが深い関わりがあるのだろう。
御影堂から阿弥陀如来堂への渡り廊下は知恩院同様の鴬張りとなっている。
三連休後の平日なので参拝者や観光客は疎らである。
初期の戦国時代に浄土真宗が摂津、難波に石山本願寺(寺城)を建て独立共和国の武装宗教勢力を持ち、天下統一を目前にする織田信長と長期にわたって交戦対立していたが信長の戦力が優勢になると石山本願寺の城明け渡しの条件で講和が持ち上がった。 信長は「比叡山の焼き討ち、僧の惨殺」、「越前朝倉義景の一乗上谷の合戦」や「北陸の一向一揆」の戦いでは「根切り」と称する一族郎党や門徒衆を皆殺してしまうので恐れらていた。 石山本願寺でも、信長に徹底抗戦派と講和派に分裂したが、明智光秀は信長に丹波から備中攻めの羽柴秀吉の援軍を命ぜられ、出兵した明智光秀は大江山にさしかかるや、右すれば備中に走る道を「敵は鷺の森の本願寺に非ず、本能寺にあり」と言って、京都洛中の本能寺を攻めた「本能寺変」である。 明智光秀は信長は自分の意に抗する者は一族、郎党を皆殺し、朝廷(天皇)の失政を狙い、自分が日本の国王となり天皇の座を画策していた「神仏をも恐れぬ非望な人間」として本能寺の事件を起こしたと歴史時代小説やドラマで描かれている。
信長の死後、天下を取った羽柴秀吉は石山本願寺と和睦し、難波の石山本願寺跡地に現在の大阪城を築いた。 その代償として浄土宗門徒の総本山、京都の西本願寺であり、大阪の御堂筋の南北の御影堂だそうである。
御影堂、阿弥陀堂をお参りして再び境内を散策したが、境内には秀吉が庇護した寺で桃山文化を代表する建造物や庭園が数多く残されており、国の史跡に指定され、ユネスコの文化遺産に「古都京都の文化財」として登録されている。 無料茶所で休憩し茶所のおばさんに、堂から見えるドーム型の洋風建造物を聞くと「お西さんのお坊はんが勉強しはる講堂」で京都市の指定有形文化財だと教えてくれた。 堀川の東は西本願寺の門前町で仏具店、土産店、漬物店や宿屋があった記憶があるが定かでない。 お昼を過ぎているのでタクシーで四条烏丸へ向かった。
私も大分前に、観光バスで前を通った事が有りますが、敷地はとっても広いですね。どれ位有るのでしょうか・・・・?
もう少し、しましたら、彼方此方観光したいと、思っております。
それも、元気な内で無かったら、行けませんね。
主人が早Ucanさんのように、落ち着いて欲しいと思っています満喫しました。
コメント
豊臣秀吉から土地を寄進された地は東西4..2km、南北5.7kmだったそうですが、現在の地に移転した地は4町(1町=120m四方)四方だそうですが、正確にはには解りません。
我輩の観た、お西さんはほんの入り口程度で境内には国宝級の建造物、文化財や寺宝があるようです。 もっと西本願寺について、知識武装して、再訪してみたいと思っています。
広大な敷地に古代人は素晴らしい建築術を残して呉れましたね。
もう遅い!建築設計士になればよかった
コメント
会合の日取りを間違えるとは少々ボケ症状が
西本願寺は1636年の建築でその後、数度の大改修されているそうですが日本の木造建築技術は素晴らしい
同寺には重文の桃山時代の建築物、庭園が沢山あるそうです。
京や奈良のの寺社仏閣は建築の規模や名園が多くあり、地方の寺社は見劣りします。
ジョー爺さんが建築設計士で、ご一緒したら、もっと楽しく拝観できたでしょう