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昭和6年(1931)9月1日神戸市の行政区設置に伴い「灘区」が誕生したと先月書き込んだが。 その記念行事が11月中旬まで行われている。 10月1日灘区区民ホールで、なだ音楽絵巻「真・平清盛伝・灘編」<改革者、海に見た夢>を講談師・旭堂南左衛門とテレマン室内オーケストラ(指揮延原武春)と変わった音楽絵巻が演ぜられた。 前売りチケットを購入していたので開場13時30分前に灘区民ホール5階のマリンホールへ入った。 入ってみるとピアノを調律していたが、音楽に疎い拙者でも弦楽演奏にピアノと不振に思っていたが、演奏会で室内オーケストラの指揮者延原武春氏がチェンンバロはピアノと同じく鍵盤が2段ある打弦楽器であることが分かった。 そう説明されてみるとチェンバロは浜松の「楽器博物館」で見たことがあるのを思い出したが“室内弦楽オーケストラ”の演奏を聴くのは初めてである。
演奏が開演すると撮影は一切禁止であるが最初は「テレマン室内オーケストラ」の指揮者延原武彦氏のバロック音楽の名曲を解説入りで数曲の演奏でバロックは15世紀頃の王宮や教会で演奏する音楽で退屈すると思っていたが解説を聞いていると退屈感は無く、ドイツの聖楽バッハから始まったバロックはフランスとイタリーののバロックの演奏の変化も分かった。 特にイタリヤのヴィヴァルディの四季協奏曲第3番”はこの時期に相応しい秋の生で聞く演奏は実に素晴らしかった。 他にはヴァイオリンとフルートのソロもあり1曲ごとに解説が入るのでクラシックに疎い者でもうなずけた。
(下画像は画像検索を引用した)
第2部はなだ音楽絵巻「真・平清盛伝・灘編」だが、開演準備中休憩の合間にに一枚だけ舞台の様子をとと思いコンデジのシャッターを押した。 左がオーケストラ演奏席で右が講釈師、旭堂南左衛門師匠が演ずる講釈高台である。
講談は「平氏にあらずんば人にあらず」の清盛が「平治の乱」で認められて初めて武士が太政大臣に任じられ、娘徳子を高倉天皇へ入内させたが対立し、平氏の権勢に反発した後白河法皇を幽閉し平家の独裁体制を敷き、神戸福原に遷都したまでの大言表現のない語り講談で語りの節目にテレマン室内オーケストラの演奏が入り指揮者のオーボエの演奏もあり講談の内容を引き立て講談と調和がとれていた。 灘区には平清盛が福原遷都の時、京都石清水八幡宮を勧請して摂津国八幡宮と河内国魂神社から戦後分離し、清盛ゆかりの厳島神社と名づけられた神社がある。 講談は平清盛の理念は六甲山系摩耶山から流れ込む清き水は都賀川に流れ瀬戸内から大海をに渡りと清盛の夢と結んだ。 しかしその夢は大海まで流れず平家一門は瀬戸内海の最西「壇ノ浦合戦」で源氏により滅亡し清盛の夢は成し遂げられなかった。 清盛はで平家討伐で頼朝挙兵の1年後、64歳で京都で歿したが墓所は神戸3・京都2下関1ヶ所あるが清盛の遺骨は不明で謎のままである。
いずれにしても清盛の最盛期は宋との交易航路を開発のため一時期神戸福原に遷都した時期で、来年1月から始まるNHK大河ドラマは平家一門の栄枯盛衰の物語で神戸が舞台になるのを神戸市民は期待している。 家内は大河ドラマはあまり好まなかったが、なだ音楽絵巻「真・平清盛伝・灘編を観て関心を持つだろうと思っている。
平家が全盛の頃、源氏は人間ではないと言うような意味でしょうか
私の写真を見て、昔写真通からよく言われました。
言われた側にすれば厳しい言葉ですよね。
岡山香川でも源平合戦が沢山行われています。
悲しい結末があちこちに残っています。
私もゆっくり史跡を見てみたいです。
北陸でも越中五箇山、能登の奥能登、等行って知っていますが、いずれも地の果てと云われる山奥深い人里離れたに集落で哀れな生活が戦前まで続いいたそうです。
世界中のどこの国にでも人種差別があったようで、拙者が知る限り昭和50年代前半頃でも現憲法を無視して大手企業は就職、良家等は結婚など出生履歴を重視していました。