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法要とお墓の撤去は15時時過ぎに終わり親戚との夕食会まで時間があったのでほゞ寝たきり状態の入院中の義兄の見舞いに行った。病院は二王子岳の麓の温泉病院(介護療養型病院)へ見舞いに行った。 故郷新発田の主な生活は幼年、青春期の高校時代まで過ごしたが60年を経た山河は景色は変わりはないが日本200名山に数えられる「信仰の山二王子岳」もスキー場も開発され温泉つきの介護療養施設など開発されいる。 育った街も町名も変わり戦前の昭和、戦後の昭和の姿は全く見当たらない。 幼き竹馬の友、高校時代友も家督を継いだ以外の友は新潟市や首都圏に居を構え、近くの友は指で数えるほどしかいなく、健在は3名だけだ。 生家の向かいの友は我輩同様に坐骨神経気味で近くに子供はいるが一人暮らし同様の生活だ。 朝の散歩中諏訪神社の石卒塔婆には氏子“役員責任者”の名前が目に入った。 彼は小学校から中学までの同級生で悪たれガキ大将的存在だった。
彼は家業を引き継ぎ、食品製造業の会社の会長だが新発田の私立高校の理事長も務め市の主要行事に関わり彼方此方飛び回っている。 家や会社、更に携帯へ電話しても連絡がとれない。 やむなく再び奥さんに電話したら朝なら必ず家に居るとのことで神戸へ帰る日の早朝に家へ訪ねることとなた。 彼と小一時間ほど談義したが健在なのは開業医の友と数えるほどしかいなく、どこか傷んでいるか子ども家族と同居して会う機会は薄れてきているようだ。 となると、昔の昭和の面影は無く姉弟や友が加齢が進み懐かしさは無くなってきたようだ。 二人の姉と友と再会を約してきたが、墓も撤去すると再び訪れることが出来るか不確定なのである。 現役時代を含めて京阪神での生活は15年となるが、長女夫婦・孫や大阪府の三親戚と京都と神戸いる故郷の友人のいる神戸が故郷と思い暮らして行くことになるだろう。 大阪/伊丹空港行きの新潟空港のフライト時間は14:30空港でゆっくり昼食をと思い早めに兄家族と新発田駅を10:30の電車で新潟へむかった。
私も郷里で生活したのは高校まで、それ以来点々と転勤しながら遠く離れて生活しているので、
Uchannが久しぶりに帰省した時の感情・感想良く理解できます。
同年代で同じような人は沢山いるだろうと思います。
特に高度成長期の転勤族に多く、元会社の長男である友人は早くから閉眼供養を行い、永代供養をした人が多いように思います。
吾輩の場合の「閉願法要」は逝った兄に代わって兄の遺族と供養しました。
今度は自分番ですが日蓮宗に関わりなくフリーですが、どうなることやら