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大型台風6号は伊豆諸島方面に去り、進路を北東に変え関東、東北の太平洋側沿岸に沿い荒れているようだ。 先日の日曜、長女から中2の孫の「サッカーの練習試合を見に行くので・・・」と電話があり車に同行した。 試合の場所と相手は大阪平野区“阪神高速IC喜連瓜破”の近くにある長吉中学である。
大阪にいた頃地下鉄谷町線には喜連瓜破(キレウリワリ)駅があり奇妙な名前の駅を思い出したが、駅にはローマ字又はふりかな表示があるから読めたのだが、サッカーの別のチームユニホームにローマ字で“HANATEN”とあり、中学生の選手に“ハナテン”はどんな文字なのかと聞くと「放出」中学だそうで「こんな事も知らないのか」と中学生は奇妙な顔付をしていた。 やはり大阪にいた頃、ご当地の方に笑われるかも知れないが、JR片町線(現、学研都市線)で放出駅があり今まで“ほうで駅”と長いあいだ、間違った読み方が頭に入っていたのだ。 若い頃、富山市へ行った際も繁華街に総曲輪(そうがわ)と読む地名が読めなかったが、その土地に住む人は地名の由来は殆ど聞いても知らなかったが、何処の土地へ行ってもその土地独特の読み方の地名は一つや二つあるが、大阪には難読な地名(駅)が特に多い。 道修町、放出、杭全、兎我野、加美鞍作、雁多尾畑、寺林、沢良宜、讃良東町・・・・太秦、高麗橋このへんになると太秦映画村や高麗人参で有名で大抵の人は読めるが我輩は後の地名は満足に読めないのである。
試合が始まるまで時間があるので近くの長吉商店街を散策してみたがこ辺は商店街の幟に「河内夜市」とあるから摂津国との接点のようだ。 喜連瓜破は一つの地名ではなく実は1つの地名ではなく、喜連(きれん)という地名と瓜破(うりわり)という地名が一緒に言われたものであり、喜連は摂津国で瓜破は河内国で昔は何事につけても子供から大人まで喧嘩や争い事が絶えな無かったらしい。
暑い大阪でのサッカーの試合の相手はは瓜破地区の長吉中学(縦縞ユニホーム)で、 0-0で引き分けた。 長吉中学は平野区長良町の高層大阪市営住宅が建ち並んでいるが、河内国の北にあり生駒山が見え、その先は大和国(奈良)である。 古代の大阪は中国大陸、朝鮮や九州などから東進して来た人の地で難波津(なにわつ)とされていた。 大和朝廷が都を難波宮(なにわぐう)へ遷都し朝鮮半島の高麗国と交易が盛んだった。 高麗が蒙古帝国のジンギスカンに服従し属国になった時に集団で高麗から亡命渡来し帰化人(現代の国際避難民?)となり定住したとあり、その時代に高麗の高度な工芸技術が当時の日本文化にに大きく影響を与えた。 その影響で大阪、難波(なにわ、浪速、浪花とも書き。朝鮮語で太陽を意味する)には朝鮮半島(高麗)読みの難読な地名が多いと言われる。 大阪ばかりでなく高麗から渡来して定住した地には難読な地名となっている事を知ったのである。
例えば埼玉県には高麗郡、高麗川、西部電鉄の高麗駅があり高麗神社もあるがいずれもコウライと読まず、コマと読むが、神社の狛犬も高麗犬(想像上の生物)のことだそうです。 さらに調べてみると7~8世紀頃朝廷が高麗(こうらい)の渡来人を駿河や武蔵野の国など7ヶ国に移住させたとあるから、その地にも高麗地名が多いと云われる。
サッカーの試合を連写撮影の練習と思い行ったのだが、いざ連写となると設定切り替えができず、一眼レフカメラの慣れるまではまだ時間がかゝりそうだが、難読な地名の由来などを知ることができた。
私は四国生まれで社会人スタートが大阪でした。
喜連瓜破をはじめ難解な地名が読めるようになるまで時間が掛かりました。
17年も居ましたので大抵は読めるようになりましたが、加美鞍作、雁多尾畑、寺林、沢良宜、讃良東町は読めません。
下の孫は兄より運動神経が劣るようで控のメンバーです。
つい最近までは、難波をナンバと呼んでいましたが、読みは“なにわ”が正しいようです。(今はどちらでも可)
大阪の地名は自分に係ることは憶えますが、歳のせいか、聞いてもすぐ忘れます。