メガリス

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赤松小三郎暗殺に西郷ら薩摩藩首脳が関わっている可能性は有る。

2016年10月04日 11時18分02秒 | 幕末維新

 幕末の兵学者・政治思想家である赤松小三郎の暗殺事件には西郷・小松帯刀・大久保ら薩摩藩首脳が関わっている可能性は有ると思う。
 当時、薩摩藩は武力討幕・新政府樹立政変の計画を着々と準備しつつあった。薩摩軍を永年に亘って指導錬成してきた赤松だが、彼は譜代である松平氏が治める上田藩の藩士。共に縁の深い薩摩と幕府方による内戦を避けたい彼は、薩摩の武力倒幕方針に反対し西郷・小松らの説得を試みる。そんな時に度重なる上田藩からの召還命令を拒否し続けることが出来なくなった赤松は帰郷せざるを得なくなる。幕府側もボーッとしていたわけではなく薩摩の動きは把握していたはずで薩摩もまたそのことは判っていただろう。だが、やはり薩摩の軍事機密と武力討幕準備を熟知している赤松が幕府方に取り込まれる可能性は好ましくない。
 赤松小三郎という人物の重要度は坂本龍馬のような小物とは違う。 

 だた、有馬藤太の証言自体はさほど信頼出来ない。そもそも彼は暗殺事件には不関与で詳細を知らないのではないか。薩摩藩士内での噂話に基づく彼の認識をもとに、薩藩首脳陣を庇うつもりで”俺たち4人が独断でやった。俺も現場に居た”という事実とは違うことを言い、後には真相を明かすつもりで”大久保・西郷らが桐野に密命をくだした”と語っただけではないのか。

 ノンフィクション作家だという宮原安春という人物が、赤松小三郎に関する文章を『週刊朝日』に書いている。
----------------引用開始

 好戦的な西郷には平和主義の赤松が邪魔だったのかもしれない。
 赤松の死後1カ月後に慶喜は大政奉還、翌年1月から戊辰戦争が始まった。
 「たら、れば」ではあるが、民間からの初の憲法構想である赤松の建白書が採用されていれば富国強兵に走ることもなく、日清、日露戦争も起こらなかったかもしれない。

引用終了----------------

 薩摩軍を指導錬成していた兵学者である赤松が「平和主義」なのだそうだ。どうしてそんな辻褄の合わない発想が出来るのか?
 日清・日露戦争だけではなく、富国強兵さえも怪しからんとする姿勢は何なのか?
 朝日新聞的ハンセンヘーワ主義の視点から何十年もの先の事を都合良く妄想する愚かしさ。
 失笑するしかない。