“坂本龍馬は死ぬまで勝海舟の愛弟子であった”という龍馬伝説「生涯海舟愛弟子伝説」はウソである。
龍馬単独名義で海舟宛てに出した書簡の現物は存在しない(龍馬から海舟宛ての手紙の写しと推定されている資料が1件在るには在る)。また、海舟から龍馬単独宛名で出した書簡も存在しない。後述する佐藤与之助と連名の書簡・来簡が数通残るだけである。師弟関係が間違いなく存在していたと思われる時期でも、両者の関係は一般に考えられているほど親密ではなかったようである。(単に現存していないだけで手紙の遣り取り自体は有ったのかもしれない。だとすると、龍馬も海舟も受取った手紙をしっかり保存しなかった、場合によってはさっさと捨ててしまった、ということになる。龍馬と海舟が常に一緒に行動していたなら、手紙を書く必要自体が無いわけだが、実際にはそんなことはない。)
そして、「龍馬公金横領事件」が発覚した頃から、両者の間に直接の交渉は一切無くなる。
元治元年(西暦1864年)に勝海舟は軍艦奉行を罷免され、後に神戸海軍操練所も閉鎖された。「龍馬公金横領事件」が明るみに出たのはその海舟罷免の直後だ。
以下、幕末明治期の政治・思想史研究者として著名な松浦玲氏の『検証・龍馬伝説』(論創社刊)から引用する。文中に登場する「与之助」とは、神戸にあった勝の私塾における事実上の「塾頭」と言える立場だった佐藤与之助〔さとう よのすけ。後の「鉄道の父」佐藤政養(まさやす)〕のことである。(坂本が神戸の海軍操練所や勝の私塾で、「塾頭」やそれに相当する立場だった事実は無い。この「海軍学校塾頭伝説」も後世の創作である。正式発足後の海軍操練所に関しては「塾頭」どころか一練習生ですらない。龍馬のような浪人は入所出来ないことになったからだ。)文字強調は私メガリスによる。
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前年の海舟軍艦奉行罷免の報らせを受けて驚いた手紙で与之助は、松平大隅に預けてあった海舟の金四百両を受取り、指示された支払に三百両を使い、残り百両は自分が持っていると書いた。実は与之助の手許に残ったのは百両ではなくて五十両だった。五十両は松平大隅のところから坂本龍馬ら土佐人が持出していたのである。
与之助は現金五十両の代りに松平大隅の家来が書いた〆金五十両の「覚」を受取った。この「覚」や他の現金を受取ったのは元治元年十一月二十四日だが、与之助は「覚」のことを伏せた。慶応元年の六月十日になって遂に隠しきれず、海舟宛の手紙に同封したのである。
その「覚」は十両を坂本龍馬殿へ、十両を高松太郎殿へ、三十両を近藤長次郎殿へで計五十両だった。この順で松平大隅の手許から持出したのである。まず顔の効く龍馬が十両を借りだし、それが先例になって高松太郎が十両、最後に近藤長次郎が纏めて三十両を引き出して合計が五十両になった。各人それぞれがいつ持出したのか記録されていないけれども、元治元年(子年である)十一月二十四日に与之助が引継いだときには五十両に達していたので、松平 大隅の家臣が「子十一月」付の〆金五十両の「覚」を渡したのである。与之助が全部で四百両の筈だった海舟の金を受取ったとき、その内の五十両は土佐の人たちに先に渡してありますという話だったのである。
与之助は高松太郎や近藤長次郎に返金を掛合ったけれども返事も無い。龍馬には大坂で会ったとき詰問したけれども、とてものこと返納の手段は無いとのことだった。
(中略)
そのとき与之助は、龍馬が金の持出しを海舟に告白していないことを確認し、返すあてのないことを聞取った。与之助はなおも熟慮を重ね、六月十日に至り遂に報告することに決めたのである。これも龍馬と海舟の関係を考える上での重要なデータとなる。
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佐藤与之助が“龍馬らの粗雑より起こったことで悪意の横領ではない”と庇ってくれたおかげで、勝海舟も大事にはせず済ましたらしいが、勝に一切断り無く大金を持出し使い返却しなかったのだから“横領”と言うしかない。
この頃の1両は現代の5万円程に相当するという見解があり、それに従うと現代の価値で約250万円の横領ということになる。
この「龍馬公金横領事件」発覚の頃から龍馬と海舟は一切の交渉が無くなる。其れが理由であると断定は出来ない。だが、常識的に考えれば大いに関係あるはずだ。
“龍馬は死ぬまで勝海舟の愛弟子だった”という龍馬伝説「生涯海舟愛弟子伝説」はウソである。