メガリス

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龍馬伝説「薩長連携発案仲介伝説」はウソである。

2015年03月16日 09時36分57秒 | 幕末維新

 “薩摩と長州が手を結ぶことを坂本龍馬が発案し、彼が薩長を仲介し気乗りしない両者を説き伏せて実現した”という龍馬伝説「薩長連携発案仲介伝説」はウソである。 

 彼が薩摩・長州の和解連携運動に関連したことや、慶応二年(西暦1866年)正月に京都で結ばれた薩長間の六箇条の密約の成立に貢献したのは事実だ。
 
だが、その薩長密約が結ばれる前年に事実上成立している、薩長密約の前提となる薩長の和解連携自体を龍馬が発案したという話には一切根拠は無い。  薩長の和解連携を第三者として最初に提唱したのは福岡は「筑前勤王党」の加藤司書(かとう ししょ)・月形洗蔵(つきがた せんぞう)・早川勇(はやかわ いさみ)らで、彼らに共鳴し運動を行ったのが土佐の中岡慎太郎(なかおか しんたろう)と土方久元(ひじかた ひさもと)両名と言われる。
 しかし、実際に成立した薩長の和解連携は他ならぬ薩摩藩が構想し西郷隆盛などを中心に工作を進めて成立したもので、当時薩摩の庇護下にあった龍馬は小松帯刀・西郷らの指示を受けて動いていた。
 幕末維新史に詳しい作家桐野作人氏のブログ『膏肓記』「龍馬伝30」より引用する。「龍馬伝30」はNHK大河ドラマ『龍馬伝』第30回「龍馬の秘策」に対する氏の感想を述べた文章である。文字強調は私メガリスによるものである。
----------------引用開始

薩摩藩は慶応元年前半、すでに対幕自立=割拠方針を藩論として定めており、その方針に沿って動き出していたのです。その要点は、藩政改革による軍事力強化、そのための封建商社育成構想、そして対外的には対長州接近策です。
近藤長次郎たちや龍馬が相次いで鹿児島入りし、近藤らは長崎に行き、長州の武器購入を斡旋したのも、龍馬が陸路から太宰府の五卿に会い、長州に行って木戸貫治(のち孝允)と会見したのも、薩摩藩の対長州接近方針に沿った動きでしょう。
すなわち、龍馬たちは薩摩藩の対外方針を実現すべく動いていたといえそうです。
長崎でのあれこれはどうもかったるいというか、歯がゆい動きですね。
龍馬の先見性と国事周旋力を際立たせるために、薩摩藩がまだ時勢に遅れており、薩長和解に踏みきれずにいるという演出になっていますが、実際は逆だと思うんですけどねえ。

引用終了----------------

 また、同ブログ「龍馬伝31」より引用する。同様に『龍馬伝』第31回「西郷はまだか」に関する文章であり、文字強調も私メガリスによるものである。

----------------引用開始

時系列が混乱しているのと、龍馬の居所がフィクションばかりなので、肝心の薩長和解の流れが寸断されて、よくわからないようになってますね。

その最大の要因は、龍馬やその仲間たちの鹿児島行きをスルーしてしまったことです。
それはかなり意図的な操作と思われ、薩摩藩が長州との和解に前年の元治元年暮れあたりからすでに乗り出したことつまり、龍馬の登場とは別のところで、すでに薩長和解が動き出していたことを意識的に無視し、薩長和解における龍馬の主導権を強調し、薩摩藩の迷いや逡巡を際立たせることにあるのでしょう。

龍馬は同年5月に鹿児島に行き、西郷の世話になっています。その後、薩摩を出国した龍馬が横井小楠、太宰府の三条実美ら、長州の桂小五郎に会ったのは単なる偶然ではなく、薩摩藩の意向を受けての行動だと推測するのが合理的です。

 

西郷はすでに前年の元治元年(1864)12月、豊前小倉で、中岡慎太郎とも会い、さらに筑前藩の月形洗蔵や早川養敬らの勧めで馬関海峡を渡り、下関で長州藩の諸隊長と会見しています。すでに薩長和解のレールは敷かれていたのです。
龍馬の役割はそれを促進したことであり、主導したわけではありません。
 

引用終了----------------

 “龍馬が薩長に手を組ませることを思いつき、彼が薩長を仲介して乗り気でない両者を説得し実現した”という「薩長連携発案仲介伝説」は司馬遼太郎の空想歴史小説『竜馬がゆく』その他により世間に広まった、数多くのウソ話「龍馬伝説」の一つに過ぎない。

 正式発足後の神戸海軍操練所は浪人を受入れないことになり、龍馬は「塾頭」どころか一練習生にさえなれなかった。
“龍馬が神戸の勝海舟の海軍学校で塾頭だった”という「海軍学校塾頭伝説」も作り話である。『氷川清話』の中で勝海舟が「坂本龍馬が塾頭であった」と語っているが、仮に海舟が「塾頭」という言葉を使いこの通りに新聞記者に語ったとしても、これは文脈からして、勝のもとに集まった塾生達のリーダー格であったという程の意味だ。現代風に言うと生徒会長(あるいは番長)だったということだ。
 
『氷川清話』(勝海舟 江藤淳・松浦玲編 講談社学術文庫)より引用。
----------------引用開始
 塾生の中には、諸藩の浪人が多くて、薩摩のあばれものも沢山居たが、坂本龍馬がその塾頭であつた。当時のあばれもので、今は海軍の軍人になつて居るものがずいぶんあるョ。
引用終了----------------
現代で言う理事長・学長・教授を兼ねるような本当の意味での「塾頭」は、後に日本最初の鉄道建設に尽力し「鉄道の父」と呼ばれることになる佐藤与之助〔さとう よのすけ。後に政養(まさやす)〕である。

 行き場を失いつつあった龍馬ら土佐浪人一党が助けを求め、其れに応じたのが薩摩の西郷・小松帯刀だった。
 彼らに導かれて龍馬は慶応元年(西暦1865年)五月に半月ほど薩摩に滞在した。その薩摩滞在中に龍馬は西郷・小松らから薩長連携構想を明かされたと思われる

 その後、
小松帯刀が龍馬を除く土佐浪人一党を長崎に連れて行き、後世に「亀山社中」と呼ばれるようになった、現代の言葉で例えるなら“鹿児島県庁長崎支所勤務の臨時職員”の集団を作ったのも、彼らに薩長和解連携の為に働いてもらう為である。(念の為に繰り返すが、いわゆる「亀山社中」を作ったのは龍馬ではなく小松帯刀である。そもそも「亀山社中」成立時に坂本龍馬は長崎に居ない。“龍馬が「亀山社中」を作った”という「亀山社中設立伝説」もウソである。

 京都で出版された『その時、龍馬は、新撰組は 維新の胎動 幕末年表帖 京都観光便利帖3』(株式会社ユニプラン)という本がある。書名を見てもわかるように坂本龍馬の行動を重要視して書かれた本だが、その中にも龍馬の鹿児島滞在後の出来事として次のように記述されている。

 

(引用開始)

 5月16日 ■龍馬(31歳)、陸路長州を目指し、鹿児島を出立。西郷吉之助の配慮で、薩摩藩士児玉直右衛門、同行。西郷に薩長和解実現を指示されたのか?

(引用終了) 

 歴史的実在の坂本龍馬について勉強している本物の龍馬ファンは「薩長連携発案仲介伝説」に根拠は無いことをちゃんと知っているのだろう。
 平成20年度NHK大河ドラマ『篤姫』をご覧になった方は、第41回「薩長同盟」で、小松帯刀(瑛太)・西郷隆盛(小澤征悦)・大久保利通(原田泰造)・坂本龍馬(玉木宏)の4名が車座になり、小松が薩摩長州が手を結ぶ構想を語り始めるという場面があったのを記憶されているかと思う。薩長連携発案の史実に近い描写と言えるかもしれない。







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