最近、科学におけるねつ造が新聞をにぎわしている。「ねつ造とか、虚言とか、嘘とか」いう「人間のこころ」の問題と「自然そのものを探求する科学」との間で揺れ動く、科学の姿を考えてみよう。
「ねつ造、虚言、嘘」はいずれも、事実を知っていながら、それとは別のことをあたかも事実であるかのように言うことである。あるいは、事実が存在しないのに、あたかも事実であるかのように記すことである。科学は自然の真理を発見する人間の知的作業であるから、そこへ「人間の心」が入り込むのである。
「うそかまことか」の判定は、科学の世界では、再現可能あるかどうかによって行う。理論において、誰がやっても同じ結論になるのは、一見容易に見えるが、その論理に抜けや欠陥がないかは徹底した検証にかけられる。しかし、その理論が自然に実際に存在する「事実」かどうかは、理論が予見する現象が実際に発見されるか否かを観察・観測によって探される。そして発見されたとき、その理論は証明された、とよび「事実の殿堂入り」を果たす。
理論が予見する現象を実験によって再現することも、証明の方法である。ただ、実験は初期条件とか、境界条件という(微分方程式を解くと必ず出てきますね)ものを人間が勝手に与えるので、それが人間のこころの入り込む隙にもなる。一見似た現象であっても、それは虚像かもしれない。大型コンピュータを使ってなされるシュミレーション(数値実験)も、現象を再現するのが目的である。これらの「証明の方法」はそれでも観測や観察に比べて比較的容易である。予見する事実の再現過程で、予見しなかった、あるいは予見と矛盾する現象が発見され、それが新しい原動力となってまた科学は前へすすむ。実験の再現性は比較的容易なので、そこにウソが入り込んでもすぐに見破られる。
もっと難しい、しかし科学で大きな部分を占めるのは、自然の観察とか観測と呼ばれる作業である。観察というのは、自然の中の現象をじーと眺め、その中に規則性があることを見いだすことですね。これはA、これはB、これはC、と分ける。あるいはこれが一番先、これが二番目、これが最後、などと順番を決める。これは、人間の科学事始めでもあったのですね。今でももちろん極めて重要な科学ですね。
観測とは、そのような観察を数値化すること。この数値がデータですね。その数値には物理的な数値と化学的な数値がありますね。そして、その数値の間の関係を式で表す。単純なことは、例えば数値をグラフに落とし、傾向があればそれを最も近い式で表す。すると、式は数学であるから、必ず関数となりますね。そして、中学でも習ったように、xがなんぼであればyがなんぼという関係が得られる。そのxとyの関係を原因と結果に置き換える。そこまでが、観測である。その式は、自然の一部を切り取っていると考えるのである。
そして、この観測から得られた、数値の間の規則的な関係を、既に分かっている理論から如何に説明できるかを示して「事実の殿堂入り」を果たすのである。これまでの理論では説明できないことが、自然には山のように無限に存在する。人間の頭の中の脳細胞の数、それらを総て相互に組み合わせた数、よりも、もっともっと多い。しかし、観察そしてそれを数値化する観測は、ある意味で自然に最も近いと言える。これまでのちっぽけな理論(自然に比べてですよ、理論に取り組んでいる科学者はいつも頭脳を使っている、すごい人たちであり、彼らがちっぽけなのではないのですよ)では説明できないことこそ重要であり、それが科学をすすめる原動力になるのですね。ですから、「説明できない!」と科学者や学生諸君は悩みにぶつかりますが、その時こそ、実は大いなるチャンスなのですね。悩める諸君、今こそチャンス!
さて、そのような観察や観測は、人間の五感、様々な観測装置を使いますから、そこに自然の事実と違う事柄、すなわち「誤り」が入りますね。その誤りを故意に行った時「嘘つき、ねつ造、虚言」となり、最近、問題となっているのですね。そして「科学は堕落した」とマスコミから徹底的にたたかれる。最初ついてしまった「嘘」で一流科学誌に載り、いい気分になる。誰も気がつかない。もうちょっといいかと、どんどんエスカレートする。人間なのですね。「嘘つきはドロボウのはじまり」ですね。韓国そして日本でも、有名な科学者が「落ちる」のは、きっとそのような「小さな嘘」のはじまりが、彼らの科学者人生のどこかにあったのですね。「名声」という科学とは無縁な人間の心がもたらした悲惨な結果です。
次回は、この「誤り」と「嘘」(この2つは厳然と違う)は、科学において、どのように正されるのか、について見てみる事にしよう。ポイントは「科学雑誌の論文」と「週刊誌記事」は明確に異なることにある。
つづく