滝蔵が12歳になり、高等小学校へ通う様になった時、家の一大事が起こった。
家長だった祖父・亀七が五十五歳で他界したのだ。
大家族の家長が逝去するのは大変なことだ。葬儀はもちろんのことだが、家督・戸籍の相続の問題は今と同様、大整理が必要だ。家長は嫡男だった滝蔵の父・亀松(三十六歳)が引き継ぐとして、祖父の亀七には、一六歳年下の後妻との間に、2男4女の子があった。
相続することになった滝蔵の父の亀松は先妻の長男だった。
ここで、先妻の子達のみを本家籍に残し、後妻と共にその子たちの籍を分離することとなった。
後妻の子供達、あわせて七人が亀七の長女の婿養子を筆頭として分家された。
この分家、その後、どうなったかはわからないが、一部は、北海道十勝の豊頃へ移住した。
後に滝蔵も北海道へ移住したように、相馬と北海道は繋がりが深い。そこには、江戸時代末期から明治にかけて、歴史的有名な偉人「二宮尊徳」一家が深く関係している。
(つづく)。
家長だった祖父・亀七が五十五歳で他界したのだ。
大家族の家長が逝去するのは大変なことだ。葬儀はもちろんのことだが、家督・戸籍の相続の問題は今と同様、大整理が必要だ。家長は嫡男だった滝蔵の父・亀松(三十六歳)が引き継ぐとして、祖父の亀七には、一六歳年下の後妻との間に、2男4女の子があった。
相続することになった滝蔵の父の亀松は先妻の長男だった。
ここで、先妻の子達のみを本家籍に残し、後妻と共にその子たちの籍を分離することとなった。
後妻の子供達、あわせて七人が亀七の長女の婿養子を筆頭として分家された。
この分家、その後、どうなったかはわからないが、一部は、北海道十勝の豊頃へ移住した。
後に滝蔵も北海道へ移住したように、相馬と北海道は繋がりが深い。そこには、江戸時代末期から明治にかけて、歴史的有名な偉人「二宮尊徳」一家が深く関係している。
(つづく)。