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「科 学 者 の 行 動 規 範」を読む(2)

2017-02-26 10:45:29 | 科学
「科 学 者 の 行 動 規 範」を読む(2) 第2段落

一方、科学と科学研究は社会と共に、そして社会のためにある。したがって、科学の自由と科学者の主体的な判断に基づく研究活動は、社会からの信頼と負託を前提として、初めて社会的認知を得る。ここでいう「科学者」とは、所属する機関に関わらず、人文・社会科学から自然科学までを包含するすべての学術分野において、新たな知識を生み出す活動、あるいは科学的な知識の利活用に従事する研究者、専門職業者を意味する。

「科学と科学研究は社会と共に、そして社会のためにある。」
を自然科学について考えるならば、

>「自然そのものの一部を切り取った知識の体系」とその「新たな知識を生み出す行為」は、社会と共に--ある。そして社会のためにある。
となる。
 この時の社会は、人間社会だとして、国際社会?日本社会?から地域社会、家族社会に至るまで様々なスケールとして読めるということか。しかし、これだと人間中心主義すぎる。環境論の中には、その人間社会もより包摂的な自然全体のシステムの中で人間圏として捉えようという論もある。ここでいう社会は、どのレベル? どのようなことまでイメージしているのか?

「科学の自由と科学者の主体的な判断に基づく研究活動は、社会からの信頼と負託を前提として、初めて社会的認知を得る。」
前段は区切り、主客逆転させると、「研究活動は、科学の自由と科学者の主体的な判断に基づく」となる。

では、
「科学の自由」
とは
「自然の知識の体系(=自然科学)の自由」と 置き換えられる。
自然科学以外の知識の体系、例えば宗教とか、政治とか、経済とか、には拘束されないということ。
でも、政治学とか経済学も科学(社会科学)と読んでしまえば広がりすぎてわからなくなる。学術会議は人文社会系も含んでいるので、そのつもりと思う。でもそうするとわかりにくくなる。知識以外のものからの自由ということか?例えば、カント流に言えば、情知理の情。

「科学者の主体的な判断」
科学者(=科学研究をする人間)が、自分の頭(主体)で、考えるということ。これは当然のこと。研究活動のテーマも方法も、出発は「個人」としての研究者。でも出口は、個人とは限らない。

「社会的認知を得る。」
これは、先の記した様々なスケールの社会に、研究活動のテーマ、方法、結果、考察まで含む研究活動が認められ、知られるということ。

「社会からの信頼と負託を前提」
これは、研究活動の前段部分のテーマ設定、方法、に軸足を置いた文章。資金の出処を含め、テーマ設定、方法、そして結果が、完全に秘密のペールで個人に閉じた研究は、学術会議の定義する研究活動には含められない。社会からも認知されない。

「ここでいう「科学者」とは、所属する機関に関わらず、人文・社会科学から自然科学までを包含するすべての学術分野」
やはり、もっとも広く定義している。

「新たな知識を生み出す活動」、
狭めて、これを科学者、そして
「あるいは科学的な知識の利活用に従事する研究者」
これを技術者と定義し、科学・技術と中に点を入れる議論が根強い。特に理学系の研究者が強調。私もいつも、意識してこの点を入れている。
「専門職業者を意味する。」
研究活動によって食んでいる、ということ。趣味や興味で研究に勤しんでいる人のことではない。プロとアマチュアの違い。アマチュアでは知識を生み出さない、あるいは利活用できないということではない。

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