相馬から福島に抜ける街道を中村街道という。相馬市から宇多川に沿って西の山間に進む。
重要無形民俗文化財の相馬野馬追の騎馬隊で、相馬の殿様を隊長として立てるのは宇多郷といって城近郊に住む侍。
相馬藩は、天皇になりそこねたと言われる平将門を祖に持ち、平安時代以来、武士の時代を通じて同じ場所に居続けた。
その勇姿は、祭りで再現され、その相馬の田園の水源が宇多川だ。
その宇多川を上流へ遡る源流は亘理伊達と福島が握る。亘理伊達では溜池で堰き止めている。国境をみるとかつて水騒動があったと想像できる。江戸時代、自ずと藩に序列ができていたであろう。
明治新政府は戊辰戦争で奥羽越列藩同盟が敗北した後に生まれたが、伊達は盟主であり、相馬も福島も負け組同盟の一員だった。明治二十二年紀元節(2月11日)、明治憲法が制定発布され、ようやく国の姿が整い始めた。
同じ明治二十二年春、紀元節後の3月、滝蔵はこの山間で、農家の次男として生まれた。滝蔵の祖父が今だ家長を務め、11名が家族をつく大所帯だ。
滝蔵の生まれた地は、亘理伊達、福島、相馬の三藩が山間で国境を接する場所。
廃藩置県、士農工商廃止、兵器狩り、廃仏毀釈、押し寄せた時代の荒波。
亘理伊達は殿様以下総出で、北海道へ移住、伊達市として今に残る。
時代の流れは、この山間へどのように届いただろう。
政治は武士の世界、などといってられただろうか? 農家は税の柱であった米を握っていたのだから。
宇多川上流の分岐点に滝がある。その守神の社の氏子総代を務める農家に滝蔵は生まれた。
その滝と社にちなんで名付けられた滝蔵はヤンチャだった。