今日の毎日新聞夕刊で『クラシックへの招待 耳が活性化する演奏』
と題する中村 慈延氏(作曲家 九州大学大学院教授)の記事を拝見しました。
19日にエントリしていますが、その「フィルハーモニア・カルテット・ベルリン」について。
webでは見かけなかったので、少し長くなるけれどご紹介したいと思います(同感なので)
以下引用します-------------------------------------------------------------
数カ月前のあるクラシックコンサートでのこと、私はホールのスタッフから注意を受けた。
上演中に体を動かすなというのである。
私の体の動きが鑑賞の妨げになるとのクレームが周りの聴衆からあったらしい。
音楽に夢中になるあまり、音楽に合わせてかなり体を動かしていたらしい。
注意されて気をつけてみると、体を動かしているような人は見あたらない。
私はすっかり恐縮してしまった。
音楽学者の渡辺裕は著書『聴衆の誕生』(春秋社)において、
真っ暗な客席の中で聴衆が精神を集中してひたすら音楽に耳を傾けるという
クラシック音楽のコンサートスタイルは、19世紀ヨーロッパのかなり特殊な条件下で成立したもので、
決して普遍的ではないことを指摘している。
しかしそのスタイルに影響されてか、感覚や情念に訴えるものを否定し
精神性にかかわる側面を強化し過ぎるところがクラシック音楽にある。(同感!)
したがって音楽に反応して体を動かしてしまうような聴き方は
下品で、クラシックコンサートではもってのほかということなのだろう。
実は注意を受けて以来、コンサートに足を向けるのがおっくうになってしまっていた。
その私が久しぶりに訪れたコンサートが「フィルハモニア・カルテット・ベルリン」
(1月19日、福岡県・宗像ユリックスハーモニーホール)である。
ベルリンフィルの首席奏者たちによる弦楽四重奏である。
その演奏は「感情や情念に激しく訴えるものがあってこそ精神性にかかわるものに近づける」
と敢えて言い切ってしまいたいほど素晴らしいものであった。(激しく同意!)
彼らの演奏の特徴を最も端的に示したものがブラームス「弦楽四重奏曲第3番変ロ長調Op.67」である。
この曲は表情の変化に富んでいる。素材も実に多様で一見雑多でさえある。
拍子の変化も頻繁に起こる。
メンバーたちはそうした変化をその都度丹念に引き分けていく。
細部の強弱変化もないがしろにしない。
(やや疲れてきたけれどせっかくだから最後まで)
さほど重要なモチーフと思われないような16分音符の音階進行音型さえも丁寧に表現する。これによって表情の変化一つ一つが感覚的に実に面白くなる。
当然のことながらさまざまな情念も呼び起されてくる。
こうした表情の変化一つ一つを首尾一貫した時間の中でとらえるのが精神性にかかわるもので、本来は調性がそれを助ける。
しかしブラームスのこの曲における調性は怠惰な耳には親切ではない。
下手な演奏をされると、この曲はバラバラの印象のまま終わってしまう。
フィルハーモニア・カルテット・ベルリンの演奏は表情の変化一つ一つを
感覚的に面白くしてくれたため、耳が非常に活性化することとなった。
活性化した耳は表情の変化を首尾一貫した時間の中でとらえることを可能にしたのである。
なお、今回、耳を活性化させるために体の動きを私は必要としたかについては自覚できない
引用ここまで--------------------------------------------------------------------
う~ん、やっぱりブラームスよかったですよ
と題する中村 慈延氏(作曲家 九州大学大学院教授)の記事を拝見しました。
19日にエントリしていますが、その「フィルハーモニア・カルテット・ベルリン」について。
webでは見かけなかったので、少し長くなるけれどご紹介したいと思います(同感なので)
以下引用します-------------------------------------------------------------
数カ月前のあるクラシックコンサートでのこと、私はホールのスタッフから注意を受けた。
上演中に体を動かすなというのである。
私の体の動きが鑑賞の妨げになるとのクレームが周りの聴衆からあったらしい。
音楽に夢中になるあまり、音楽に合わせてかなり体を動かしていたらしい。
注意されて気をつけてみると、体を動かしているような人は見あたらない。
私はすっかり恐縮してしまった。
音楽学者の渡辺裕は著書『聴衆の誕生』(春秋社)において、
真っ暗な客席の中で聴衆が精神を集中してひたすら音楽に耳を傾けるという
クラシック音楽のコンサートスタイルは、19世紀ヨーロッパのかなり特殊な条件下で成立したもので、
決して普遍的ではないことを指摘している。
しかしそのスタイルに影響されてか、感覚や情念に訴えるものを否定し
精神性にかかわる側面を強化し過ぎるところがクラシック音楽にある。(同感!)
したがって音楽に反応して体を動かしてしまうような聴き方は
下品で、クラシックコンサートではもってのほかということなのだろう。
実は注意を受けて以来、コンサートに足を向けるのがおっくうになってしまっていた。
その私が久しぶりに訪れたコンサートが「フィルハモニア・カルテット・ベルリン」
(1月19日、福岡県・宗像ユリックスハーモニーホール)である。
ベルリンフィルの首席奏者たちによる弦楽四重奏である。
その演奏は「感情や情念に激しく訴えるものがあってこそ精神性にかかわるものに近づける」
と敢えて言い切ってしまいたいほど素晴らしいものであった。(激しく同意!)
彼らの演奏の特徴を最も端的に示したものがブラームス「弦楽四重奏曲第3番変ロ長調Op.67」である。
この曲は表情の変化に富んでいる。素材も実に多様で一見雑多でさえある。
拍子の変化も頻繁に起こる。
メンバーたちはそうした変化をその都度丹念に引き分けていく。
細部の強弱変化もないがしろにしない。
(やや疲れてきたけれどせっかくだから最後まで)
さほど重要なモチーフと思われないような16分音符の音階進行音型さえも丁寧に表現する。これによって表情の変化一つ一つが感覚的に実に面白くなる。
当然のことながらさまざまな情念も呼び起されてくる。
こうした表情の変化一つ一つを首尾一貫した時間の中でとらえるのが精神性にかかわるもので、本来は調性がそれを助ける。
しかしブラームスのこの曲における調性は怠惰な耳には親切ではない。
下手な演奏をされると、この曲はバラバラの印象のまま終わってしまう。
フィルハーモニア・カルテット・ベルリンの演奏は表情の変化一つ一つを
感覚的に面白くしてくれたため、耳が非常に活性化することとなった。
活性化した耳は表情の変化を首尾一貫した時間の中でとらえることを可能にしたのである。
なお、今回、耳を活性化させるために体の動きを私は必要としたかについては自覚できない
引用ここまで--------------------------------------------------------------------
う~ん、やっぱりブラームスよかったですよ
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