昨日は、異様に肩がこって気持ち悪いくらい、どうしようもないので仕事の帰りにマッサージを受けてきました。
「どう?やっぱこってる?」
「お客さん、こりゃ半端じゃないですよ」
昔からなにぶん『こり性』な私、年に一、二度こんなことがあるんです。
「やっぱ眼精疲労かな?」
「そんなに目を酷使されるんですか?」
「どうにも若い女の子に目がいっちゃって・・ははは」
さすがに昨夜は女の子を追うこともせず(笑)、パソコン、テレビの画面も、本さえも手をつけずに過ごしました。
マッサージを受けながら、
「このあたりの小学校でも、イジメってやっぱりあるんですかねぇ?」
「こりゃまた、唐突だね」
「いやね、政府の提言だかなんかが出たらしいですけど、来年うちの娘が入学するものですから」とマッサージ師さん
こうにも、自殺等々の事件が連発すれば、入学を控えた親御さんはそりゃあ心配ですよね。
私、ちょっと思ったんですけど
最大の問題は、イジメを意識せずに行ってしまうことなんじゃないかって、、、
昔、アメリカで人種差別がどういう状況で行われてきたのか?(今も消えぬものはあるでしょうが)
全員が、差別を意識しながら行ってきたことなのでしょうか?
日本においてさえ、『同和問題』『朝鮮人問題』等々で、意識をしながら差別を繰り返して来たと思いますか?
人権侵害とは、無意識のいわゆる常識の中で繰り返されてきたことだったのではないか?
だとすれば、イジメに関しても無意識に行っていることがおおいにあるのではないか?
イジメが日常化する今、それは子供達の常識の中にすり込まれているんじゃないか?
だからこそ恐ろしい、そんな事を考えたんですよ。
だったらどうしたらよいのか?とても私などには解決策は見いだせませんが、
人権が一律平等に与えられた権利であり、それを犯すことはもっとも恥ずべき犯罪なのだということを、学校だけでなく、親が、社会が身をもって示していかなければいけないということなのでしょう。
大人達が、なにげに行っている行為を見て、子供達はそこから学ぶのだと思います。「どこそこの何々は、まったく何だからああなんだ」「何々はしょうがないんだよ、親が親だから」「○○君は金髪だけど外人かい?」人権を侵すような言葉や行動を私たち大人は無意識にやってしまっているのではないでしょうか?
先日、うちの母がサッカーの21才以下代表の試合を見ているときです。
「○○(私です)、何とかロバートっていうのは、外人か?」
「何をおっしゃる!ロバートだって、サントスだって、マルクスだって、ラモスだって、みんな日本人です!、名前や顔かたちで国籍を疑うなんて事は、絶対ダメだからね!」
「なにも、そんな怒んなくても・・・・」
こんな会話がありました。(笑)
無意識に行っている大人達の言動、私も含めじゅうぶんに気をつけなければいけません。妙に反省しながら、夜な夜な徘徊を続けるバブ君でありました。(説得力全くなし)
さて、今日の一枚は、ジョー・ヘンダーソンです。
ニューヨークに出てきたヘンダーソンは、ドーハム・グループに参加して、ブルーノートへ「PAGE ONE」、「OUR THING」、そして今日のアルバムと立て続けに録音を残しています。
一作目、「PAGE ONE」の「BLUE BOSSA」も、大好きな一曲ですが、全体的には今日のアルバムのほうが私は好みで、やはり、リズム・セッションの違いでしょうかヘンダーソンのまさに本領発揮という感じがします。そのぶん、ドーハムは若干浮き気味にも思えますけどね。
そうそう、前回紹介した『文字ばかりアルバム』と比べると、同じ文字でもブルーノートはお洒落ですよねぇ。
IN'N OUT / JOE HENDERSON
1964年4月10日録音
JOE HENDERSON(ts) KENNY DORHAM(tp) McCOY TYNER(p) RICHARD DAVIS(b) ELVIN JONES(ds)
1.IN'N OUT
2.PUNJAB
3.SERENITY
4.SHORT STORY
5.BROWN'S TOWN