大阪芸大の教授が、京アニの事件に関して発言して炎上しているようです。
何となくだけど。引用部分を読んだ限りでは、アニメとかそういうものに偏見がおありのように感じました。
文章は修飾が多くて、言いたいことをぼかしている感じを受けます。
…いや、内容はどうでもいいんですが。
これを読んで、ふと思ったこと。発言する、ということ。
昔は、発言する場がなかった。政権を批判すれば殺される。だから、庶民ができたのは落書。名無しでこっそり。万葉の昔なら、詠み人知らずの歌。
江戸幕府になってからだとて、連判状をつくれば首謀者は殺されるから、誰が首謀者か分からないように、傘連判なんてものもあった。
近代になって、新聞社ができて、発言する場を作ろうとする動きができて、発言させないためにいろいろなことが起こった。
発言は命がけだった。そう、ほんのちょっと前の世代まで。何でも言える世の中になって、実はまだ百年も経ってない。
1945年、太平洋戦争が終わって、その後今の日本国憲法ができて、やっと自由にものが言える世の中になった。
それでも、立場や名誉のある人の発言は影響が大きいから。
自由に発言するのではなく、一度原稿にして、問題のある発言ではないかとチェックして。
そういう習慣をつけても、たまには失言もあった。
でも今は、思ったことをすぐに発言できる場がある。このブログもその一つだけど。
で、世界につながっていることを忘れて、自分の日記帳に書くようなつもり、あるいは周囲の人に向けてだけのつもり、で、自分の意見を好きに書き散らして、結果叩かれる、ということを繰り返しているように思う。
発言すること、は怖いことなのだ。自分で、考えに考えたつもりでも、自分の器の及ばないことがあって、抜けたところがある。
言葉で人は傷つく。死ぬことすらある。
いろんな言いたいことがあるのは当然だ。だけど、あの話は「いま」言わなければならないことなのか。
あの教授の話の正誤はとりあえず問わない。一意見だ。でも、まだ犯人の動機もはっきりしない、なんでこんなことになったのかもはっきりしない、五里霧中の中で言うべきことなのか。
もっと考えてほしかった。と、思う。
個人的には、京アニで作られたアニメがどうとか、盗作があったのかなかったのか、そんなのは全く関係なく、あんな酷い殺され方をしなければならないことなんてない。と思っている。