題名通り。これもカウンセリング効果かもしれません。
実は、自分では結構ポジティブだと思っていたりしたのですが。
根幹では、つねに「そこに自分がいていいのだろうか」「こんなことを言ってしまったから(あるいは言わなかったから)、嫌われたのでは」とか、くよくよ思い悩む方です。
…で、「うまくできないならいてはいけないのでは?」というのも入ってます。
「人生は楽しむべきもの」とはいいますが、実際に、「人生は楽しいし、楽しんで良いのだ」という意識は入っていません。
いや、人生を実際に楽しんでいるかどうかは別です。楽しくても、「楽しんでいていいんだろうか」という気持ちがついてまわるのです。
「人生は苦行だ」の方がしっくりきます。
苦行の中に、楽しみを見出す、のような?方が、理解しやすいというか。
…あれ、滅茶苦茶自己評価が低くて、ネガティブなものの見方をしている??
「楽しいことだけしていてはいけない」…よく親に言われた言葉です。
躾としては当たり前の言葉。でも、私にとっては、「楽しんではいけない」とイコールになっているのです。
例えば、よく、「勉強しなさい!」と親が叱りますよね。
うちの場合、宿題が終わっても遊べませんでした。予習復習が終わってもまだ遊べません。
なぜなら、予習復習が終わったら、更にその先をやっておけ、となるんです。
で、私は。だったら最初からやらない、とか、宿題だけ、とか、勝手にやってました。
勝手にやっていたのだから、問題ないだろう、と思われるかもしれません。
それが、問題が残りました。楽しむことに対しての罪悪感です。
やることやってから遊びなさい、とはよく言われることですが、やることが増えていくのでは、いつまでたっても遊べません。
なので、いつ遊んで良いのか、気持ちの上で判断がつかなくなってしまいました。
遊んでも、罪悪感が残るのです。
そうなるとどうなるか?
何もしない子が出来上がります。
適当なことをして時間をつぶすだけです。
希望は、いつも、親の審査が必要でした。「そんな才能ないだろう」「やるだけ無駄」「できっこない」「金の無駄」…まだ出てきそうですが、私の好きなことは大抵そういわれました。言われないのは、勉強だけです。
体育関係は、できない方でした。でも、言い訳すれば、公園に連れて行かないのですから、鉄棒等ができなくても当たり前と言えば当たり前。
しかし、就学してできないと、いきなり特訓したりとか。…おかげで、鉄棒は大嫌いでした。
繰り返さなければできないのに「何でできないの」「へたくそ」「覚えが悪い」…。
これだけ言われて、体育が好きになりようもないですね。思い返してみれば。
でも、「何で嫌いなんだ」って言われてました。…当時は「だってできないんだもん」と返してましたが、「何でできないんだ、やらないからだろう」と言われてました。…いや、やりたくないでしょ。どう考えても。
混乱してきました。今日はここまで。