つれづれごと。

SD他、管理人葉月の日常の中で思うことを綴ります。※SDに関しては、必ず5/29「はじめに」をお読み下さい。

妙な思い出

2023-06-08 08:50:07 | キリスト教(カトリック)

ネットで見た、クレクレ話。

投稿者のハンドバッグを「もらってあげようか?」というママ友。投稿者の旦那さんが「ご自分の旦那さんに買って貰ったらいかがですか」と言って終了、という話。

ありえない、と若い頃なら言っていたと思う。

でも、実は自分も言われたことある。

洗礼を受けたばかりの頃、できるだけ大きい銀の十字架が欲しくて、ネットで探して、やっと見つけたアンティークのを主人にプレゼントしてもらった。

アンティークだけあって凝ったデザインで、嬉しかったのもあって、すぐつけて歩いていた。

そうしたらなんと、教会で、「譲ってもらえないか」と言われたのだった。しかも相手は男性。

最初は冗談だと思った。が、いつまで経ってもしつこい。

主人からのプレゼントで、気に入っているからごめんなさい、と断ったが、ならご主人からその人へのプレゼントということで、私にはまた買ってもらえばいい、とまで言われた。

アンティークだから二つとはないし、主人から男性にプレゼントって訳分からない、と後半は冗談に紛らわせて断った。

今思うと、あれもクレクレだったのかなぁ。

当時はしつっこい、冗談にも程がある、と思っていたのだけど。

こういう話をみると、もしかしてあれも?と疑わしくなってしまう。

うーん。まぁいいや。考えないことにしよう。

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悲しかったこと。

2022-03-04 13:21:36 | キリスト教(カトリック)

一月に、複数の媒体で

「ローマ教皇フランシスコ1世は5日、ヴァチカンでの一般謁見で、親になることについて言及し、子どもを持つ代わりにペットを飼うことを選択する人は自分勝手に振る舞っていると示唆した。 フランシスコ1世は、「今日(中略)私たちはある種の身勝手さを目の当たりにしている」と群衆に語った。 「子どもを持つことを望まない人もいる」 「子どもを1人だけ持つ人もいる。1人でおしまいだ。ところが彼らは子どもの代わりに犬や猫を複数飼っている」 「おかしなことかもしれないが、これが現実だ」 そして、こうした行いは「父性や母性を否定するものであり、私たちを損ない、私たちの人間性を奪うもの」だと付け加えた。 フランシスコ1世は、生物学的な理由で子どもを持てない人は養子縁組を検討すべきだとし、人々に親になることを「恐れるな」と呼びかけた。 また、「人口統計学的な冬」(おそらく出生率が低下している国々を指しているとみられる)についても言及し、「人々が子どもを持ちたがらない、あるいは2人以上を望んでいないことがわかる」とした。 「文化的劣化」 フランシスコ1世は過去にも、子どもよりペットを選ぶ人たちに対して発言している。 2014年には、子どもの代わりにペットを飼う行為は「文化的劣化の現象の1つ」であり、ペットとの情動的関係は親子の「複雑な」関係より「たやすい」と述べた。 現在85歳のフランシスコ1世はこれまで、犬からヒョウにいたるまで様々な動物をなでている姿を写真に収められてきたが、個人的にペットを飼ってはいないと考えられている。 」

という記事を読みました。

端的に言うと、心外でした。そして悲しかったです。

私には子供がいません。何となく、そのうちに、と思っていたら、二度の病気にかかり、子供を持つという選択はなくなりました。

養子をとる、という選択は素晴らしいことだとは思いますが、私は自分たちの子が欲しいと思うことはあっても、他所様の子供を養育したいとは思いません。私には荷が重すぎる。

そして、ペットを飼うことは子供を持つことの代わりではありません。たとえ、「○○ママ」とかいう言葉を自称することがあったとしても、ごっこ遊びのようなものです。なぜなら、動物は必ず飼い主の私たちの年齢を越し、最初は子供のようであった(実際子猫だったり子うさぎだったり雛だったりしますが)子たちも、大人になり、飼い主の私の年齢を越して、いつのまにか「やれやれ、こいつはいつまでもしょうもないなぁ」みたいな感じを出すことすらあります。家族であり、友人でもあります。寄り添ってくれる存在です。飼い主がペットに寄り添っているようでありながら、実は寄り添われているものです。

信徒の立場で言うのはいけないことだとは思いますが、このお話はとても失望しました。

ペット好きの気持ちは、ペットを好まない人には分かってもらえないものだと知っています。その逆もまた然りです。

おそらく、教皇様はペットを好まれないのでしょう。

分からないなら分からないままでいいので、放っておいてほしいものです。

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祭壇を整える

2021-11-08 13:25:29 | キリスト教(カトリック)

引っ越して一年あまり。やっと家庭祭壇を整えました。

え、やってなかったの?と思われる方、いらっしゃるかもしれませんが、引っ越してきてすぐに、一応の形は整えたのですよ。

ただ、当時コロナ禍の真っ只中で。自分でも何ですが、祈ることができずにいました。

それで、一応整えたものの、燭台とかはしまったまま、聖書や聖歌集などはそばに積み上げたままで。

たまに十字は切るものの、それ以上のお祈りはできずにいました。

コロナ怖いので、ごミサが再開しても、通えずにおりました。

 

ここまで減ってきてやっと、ちゃんと本来の形に整えることができました。

全部、自分の心が整うまで、どうにもならなかったんだなと思います。

 

大好きな無原罪のマリア様のご像も、やっとパソコンの前に出せました。

こちらは厨子入り。色つきのご像は祭壇へ。洗礼前に、一生拝むと決めて購入した、白いマリア様のご像や、巨大な十字架のご像と並べてます。この二つと、木の十字架像(色つき)だけは、最初から祭壇に置いてました。

コロナ禍。

これを、主の御心とどう結び付けて考えていいのかわからず、ずっと途方にくれていました。祈ることもできませんでした。

ただただ、眺めていました。

信仰が足りない、のでしょう。でもどうにもできませんでした。

なんで戻れたのか…今はまだまとまりません。

でも、戻りたくなりました。戻ってみたら、ほっとしました。勝手ですね。

でもそれも、すべて主にお任せします。

これからも行きつ戻りつでしょうが、やっていこうと思います。

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日々のいろいろ

2019-02-06 13:52:33 | キリスト教(カトリック)

書きたいことがあってPCを立ち上げたら、オランダの極右議員ヨラム・ファンクラーフェレン氏がイスラム教に改宗、という記事を見て。

パウロではないけど、ああ、やっぱりなぁという感じ。

本当に嫌いなものは、無視すると思うんですよね。思想もそう。嫌いな思想には触らない。というか、勉強できない。苛々するから。

反論のために勉強する、という人は凄いと思いますが、そういう人って、結構その「否定しようとした宗教」に入っちゃう方が多いような気がします。

自分のことを振り返れば、聖書から始まって、コーランから経文まで、いろいろ読みあさった時期があったなぁと思い出します。

さすがに世界宗教になるだけあって、どれも一理あります。どれも信じるに値するように見えます。でも何というか、最後の一歩が掴めない。

書物からだけでは、私はどれにも踏み切れませんでした。

なので、一人で研究して、改宗に踏み切れるって凄いなぁ、とちょっと思っています。

 

さて本題。

昨年末買ったロザリオですが、持ち歩き用にしたところ、よく切れます。びっくりしたのは、二回切れて短い鎖とそれ以外になっていたこと。

幸い直せる切れ方だったので、直して使っていたら、今度は普通に切れていて、また直しました。

…珍しいなぁ。

直せるからいいですが、気に入っているので切れないでほしいです。

 

 

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主のご降誕おめでとうございます。

2018-12-25 13:34:13 | キリスト教(カトリック)

昨日、夜半のミサに出席してきました。やっぱりクリスマスは、夜半のミサが雰囲気あって好きです。

近所でないので、本当に夜中にやるごミサには行けないのが残念ですが(列車がなくなる)。

威厳ある姿で降りてこられてもおかしくない、のに、誰にも近づける、誰でも抱きしめることのできる赤ん坊の姿をとっておいでになった主。

恐れずに愛することができる姿をとられたのかも、と思ったりして。

 

我が家に飾った馬小屋にも、幼子イエズスをおいて、ご降誕を祝います。

先日買った大きめの幼子イエズスも、用意しておいた籠とタオルでベッドをつくって鎮座。

 

明日はダンスの本番があります。

静かにクリスマスを祝いながら、明日の準備です。

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待降節です。

2018-12-07 14:12:24 | キリスト教(カトリック)

待降節第一週目です。

この時期、紫のろうそくを三本と、ピンクのろうそくを一本たてて、紫の一本だけに火をともし、週が進むごとに火を付ける本数を増やして、待降節第四週目にピンクのろうそくをつけます。

ピンクは喜び。主のご降誕をお喜びして、と習いました。

が、今年は教会のろうそく、紫二本ピンク一本、白一本になってました。…何か変更でもあったんだろうか。

しかしうちはそのセットで買っているので、まぁいいやと習ったやり方で飾っています。この辺、私って適当。

 

我が家では昔、G神父様がやっていたように、この時期は「空の玉座」をしつらえます。

といっても小さな祭壇ですので、お人形用の椅子を布でくるみ、「マラナタ 主よ来て下さい」と書いた紙を置くだけ。

待降節第三週までは、馬小屋も飾りません。どうもイタリアの慣習なのか、G神父様がそうやってらしたので、我が家もそれにならいます。

 

今年は、バンビーノ(幼子イエズス)の小さな木像をお迎えしました。ので、24日にはいつもの馬小屋のイエズス様の他に、この幼子イエズス様も飾る予定です。

何というか…店で目が合ってしまったので。

 

昔大好きだった、家庭祭壇などのことを載せていたブログ様を探したら、消えていました。

カトリック系のブログって、わりと消えてしまうことが多いですね。残念。

 

今は特にFacebookやInstagramなどがあるので、そっちでつながる人が多いのかな。私はやってませんが。

本名さらしてまでやりたくないので(匿名だからこそ気楽に書けることもある、ということで)。

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祭壇のお掃除

2018-11-15 12:24:52 | キリスト教(カトリック)

 

私は聖品が大好きで、ご像とかご絵とか、気に入ると即買ってました。

基本的には、教会へ通い始めた時に、「一生このマリア様にお祈りする」つもりで買ったマリア様のご像と、栄光のキリストのご像、それからできるだけ大きな、リアルなご像が欲しくてネットで探した、60㎝くらいの壁掛け十字架です。これらは取り替えることなく、ずっと祭壇に置いています。

他には、いろいろ気に入ったご像やご絵をとっかえひっかえ。憧れは「慎ましやかな祭壇」ですが、まぁ、自分には難しいです。

で、年に何回か、祭壇の模様替え?をして、その時みんなお掃除して、とやっていたのですが、ここ最近は模様替えもせず、ご無沙汰でした。

なのでしばらくぶりに、ちゃんと祭壇のお掃除をして、模様替えです。もうしばらくすれば待降節なので、またその時は模様替えするんですが、まぁそれはそれ。天気もいいので、思い立ったら吉日、ということで。

久しぶりに、お祈りできる祭壇になりました。

 

私の癖で、ご像を買うと祭壇に並べて置くのですが、そのご像に祈れるかどうかは、自分の祭壇に置いてやってみないと分からないのです。

教会から離れている間も、いくつか買っていて、それを祭壇に置いていたのですが、今回は全部しまって、お祈りできるご像だけ残しました。

唯一、お祈りの対象でないのに置いてあるのが、祈っている子供たちの像。私が祈れない時でも、私の代わりに祈ってくれるように。

 

信仰生活は、道。

みことばと、ご聖体と、共同体に支えられて。

…忘れずにやっていきたいです。

 

 

 

 

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大好きなG神父様に、再会。

2018-11-14 14:27:15 | キリスト教(カトリック)

先日、G神父様にお会いすることができました。

いろいろ紆余曲折あって、昨年、日本へ戻ってこられたのです!

その後すぐ、一度伺ってお会いしましたが、ミサに参加することはできず。

そして現在の教会に移動なさって、やっと会いに伺うことができました。

赦しの秘蹟も頂き、ミサに出席してご聖体を頂きました。

何年ぶりのミサでしょうか。

自分でもいけないとは思っていても、なかなかそれを認めることができずにいました。

G神父様だけでなく、主イエズスにも再会した思いです。やっとすっきりした気持ちです。

 

またいつか、お訪ねしたいと思っています。

…昼食も夕食もごちそうになってしまって、恐縮しきりですが。何か気の利いたお礼ができるといいんですけどね。

でも何しろ、お元気なお顔を見て、沢山お話できて、とても嬉しかったです!

頂いたお言葉を大事にして、また改めて歩んでいきたいと思います。 

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うーん…

2014-12-15 00:59:13 | キリスト教(カトリック)

ままならぬことが、多すぎて。

でも、自分が心配しても、できることは限られている訳で。

それでも、葛藤してしまうのだけど…。

ええい。

すべての葛藤は、イエズスにお預けして。

 

私ではもうどうにもなりません、イエズス様。

助けて下さい。

祈る前から願いを知っているあなたは、私の願いもご存じですね。

感謝します。

ありがとうございます。

 

…と、ただただ祈ってみる。

そして、また、自分のできることに戻る。

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尊厳死について

2014-11-05 19:49:38 | キリスト教(カトリック)

…これ、とても悩ましい記事です。

末期の脳腫瘍を患った、ブリタニー・メイナードさんが薬物を服用して尊厳死。

ヴァチカンはこれを非難。

教義的にはわかるんです。

でも、死に至る病に冒された、と知った時の恐怖、辛い治療、その過程での恥…。

それらすべてに耐えて、得るものはなんでしょうか。

治るなら、努力もできます。でも治らないなら…苦痛の少ない死を選びたい、と思っても仕方がないのではないでしょうか。

がんだと言われた時の、あの恐怖。

あれに加えて、助からない、というなら…。

そんな恐怖に、耐えられる自信、私にはありません。

だから。

非難もできない。でも、肯定もできない。

なぜなら、その決定を、見つめ続けるのも、自分には耐えられないと思うから。死んでしまいたい、とその時こそ思うだろうから。

…わからないことって、この世にいっぱいあるんですね。ほんとに。

 

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