妄想の中にある認識が
ハッキリとした境界線を持って認識されるには
そこになにがしかの意志を込めて
曖昧に見える世界を自分のナイフで切り分けていく必要があるって事なんだろうか?
そもそも知覚される世界が
理解可能/理解不可能
という二つに切れない事はおろか
知ってる/知らない
の二つに切断する事さえも出来ないほど曖昧にもわもわしているのは
やはり大問題なのではないだろうか
僕という人は広い視界の中でも
見えるもの以外は見ていない
視線は眼球によって制御されるが
視点は拡大したり縮小したりする
背後にあるものを気配によって感じるのは
それ自体が思い込みなのか推論なのかそれとも実感なのか
幽霊を実感するという言葉はあるのだろうか?
書いてみても文章が矛盾するように感じない
あるということになるだろう
設問1
万有引力を記憶に頼ることなく説明しなさい。
僕は幼少の頃、おそらくは3歳くらいの頃に
家の階段を登ったり降りたりしていた
その時に世界は見えたり見えなかったり
また、自分は居たり居なかったりした
そして視界は開いたり閉じたりし
音も聞こえたり聞こえなかったりした
鉄階段に刻まれた手裏剣のような十文字の形は
印象によって縦になったり横になったり
その色さえも赤なのか緑なのかオレンジなのか判別がつかなかった
そういえば古い公園にある滑り台の階段にとてもよく似ていた
私が最初の私を手に入れたのはその時であり、
思えばある意味で私の知覚はその時完成していたとも言える
自覚チャンネルはその時開いた
何番目の感覚なのかはわからない
設問2
現実と妄想はどちらが先に知覚されるか区別しなさい。
これはじつに不思議な事なのだけど
私にとって最初の主体性は既に動的であり
静的ではなかった
すなわち生き物という言葉を知った時
世界の全ては生き物であり
世界こそが生き物であり
また、それによって私は私を生き物であると仮定した
生を死によって証明する形
死を生によって崇める形
形とは変容するものだろうか
また、意味が変容するのは
たった一人きりの孤独世界においても
常識の中に組み込まれるか否か
必要性のフレームワークを除外し形とは何であるかを問わずして
形が形として認識出来る事自体がすでにおかしいのではないか
死を体験していない人間が
どうやって死の概念を会得したのか
そこにどうしても繋がってしまう
肯定も否定もない
絶望でも希望でもなく、思考において
連絡はどうしても繋がる
粒子性のせいなのか、波動性のせいなのか
そんなことはまだわからない
設問3
自分を舐めた時の味を自分以外の人に説明しなさい。
味についての言葉は少なすぎる
毎日食事しているのにじつに少ない
まったくもってけしからんと思う
お米には神様がいる、と聞いた事がある
神様はいない
でも神様はある
不思議な話だ
無たりえぬものは有たりえない
無から有が発生し
有によって無を想起できる
自分があるかないかを問う前に
有があるかないか
無があるかないか
それすらも問わねばならない
まったくもって矛盾
けしからんとは思わない
多分矛盾を受け入れすぎている
そもそも僕は自分のこの文章を誰に向けて書いているのか
それすらもわからぬままに書いている
きっと千年後の自分
最後の自分に向けて書いている
最後に自分を自分と認識可能かどうかもわからないが
千年後に自分という概念が使われているとは到底思えない
自分という言葉が伝承されていくことにさえ
僕は祈らねばならない
言葉は悲しい
だから僕は言葉の情報を読まない
見えもしない背景の透明な部分を読む
勝手に感じる
主体そのものの透明性は
主体の亜空間移動を可能にする
自分はどこにも居ないからこそ
感情移入が可能で、より妄想的な宇由を感じる
私は宇宙
自分の中心はブラックホール
自信は無くてもいい
引力がある限りは。
設問4
設問の意味を答えなさい。
僕は自分の事をわからない三元論者だと思っているけど
三元論を体系的に説明するためには
四元的に考えないといけない事がある
物事を
知っている/知らない/矛盾/わからない
の四つにおおまかに区切る時
わからないのグループがじつにくせものである
ダークマターの引力によって
様々なものが吸い込まれてしまうため
わからないより先に思考が進む事自体に危険性があるからだ
だから二元的に言えばそこには
理解可能/理解不可能
と似たような壁が存在している
その壁についての話はまたいずれいつかそのうち
知っている事は
知っている事同士の結びつきにおいて
ある種の理解と同じ錯覚を引き起こします
知ったと解ったの違いは例えどこにも繋がっていなくても
知覚した時には「知った」と感じるし
どこかに繋がった時には「解った」と感じます
理解不能でどこにも繋がらない情報が
あまりにもたまりすぎると不快感を引き起こします
これも不思議
知らない事にぶつかった時
知らないと言えるのは矛盾です
「今知ったはずだ」と言う事が出来る
知らない事はまだこの世界にない事
自世界の境界の外側にある「まだ知らない事」
が知らない事なのだけど
知らないのに「外側」だと書いている事自体がおかしいです
一体どうやって自分に内側とか中とかの概念を感じているのか
そして考えているのか
そこも謎が多いです
矛盾は基本的には同軸上の二つ以上の概念を重ね合わせる事で
それを矛盾として包含する事ができます
白いカラスではなくて
真っ黒なホワイトでもなく
「黒い白」「赤い青」「正しい悪」「生まれたばかりの婆さん」
などが基本構成なのですが「ダサカッコイイ」という言葉もあったりたり。
集中力が切れてきたので今回はこのへんでー。
存在の原点が無いのに邪推だけで思考してんのって
すっげぇ不思議な話だよねー。
でゎ♪
ハッキリとした境界線を持って認識されるには
そこになにがしかの意志を込めて
曖昧に見える世界を自分のナイフで切り分けていく必要があるって事なんだろうか?
そもそも知覚される世界が
理解可能/理解不可能
という二つに切れない事はおろか
知ってる/知らない
の二つに切断する事さえも出来ないほど曖昧にもわもわしているのは
やはり大問題なのではないだろうか
僕という人は広い視界の中でも
見えるもの以外は見ていない
視線は眼球によって制御されるが
視点は拡大したり縮小したりする
背後にあるものを気配によって感じるのは
それ自体が思い込みなのか推論なのかそれとも実感なのか
幽霊を実感するという言葉はあるのだろうか?
書いてみても文章が矛盾するように感じない
あるということになるだろう
設問1
万有引力を記憶に頼ることなく説明しなさい。
僕は幼少の頃、おそらくは3歳くらいの頃に
家の階段を登ったり降りたりしていた
その時に世界は見えたり見えなかったり
また、自分は居たり居なかったりした
そして視界は開いたり閉じたりし
音も聞こえたり聞こえなかったりした
鉄階段に刻まれた手裏剣のような十文字の形は
印象によって縦になったり横になったり
その色さえも赤なのか緑なのかオレンジなのか判別がつかなかった
そういえば古い公園にある滑り台の階段にとてもよく似ていた
私が最初の私を手に入れたのはその時であり、
思えばある意味で私の知覚はその時完成していたとも言える
自覚チャンネルはその時開いた
何番目の感覚なのかはわからない
設問2
現実と妄想はどちらが先に知覚されるか区別しなさい。
これはじつに不思議な事なのだけど
私にとって最初の主体性は既に動的であり
静的ではなかった
すなわち生き物という言葉を知った時
世界の全ては生き物であり
世界こそが生き物であり
また、それによって私は私を生き物であると仮定した
生を死によって証明する形
死を生によって崇める形
形とは変容するものだろうか
また、意味が変容するのは
たった一人きりの孤独世界においても
常識の中に組み込まれるか否か
必要性のフレームワークを除外し形とは何であるかを問わずして
形が形として認識出来る事自体がすでにおかしいのではないか
死を体験していない人間が
どうやって死の概念を会得したのか
そこにどうしても繋がってしまう
肯定も否定もない
絶望でも希望でもなく、思考において
連絡はどうしても繋がる
粒子性のせいなのか、波動性のせいなのか
そんなことはまだわからない
設問3
自分を舐めた時の味を自分以外の人に説明しなさい。
味についての言葉は少なすぎる
毎日食事しているのにじつに少ない
まったくもってけしからんと思う
お米には神様がいる、と聞いた事がある
神様はいない
でも神様はある
不思議な話だ
無たりえぬものは有たりえない
無から有が発生し
有によって無を想起できる
自分があるかないかを問う前に
有があるかないか
無があるかないか
それすらも問わねばならない
まったくもって矛盾
けしからんとは思わない
多分矛盾を受け入れすぎている
そもそも僕は自分のこの文章を誰に向けて書いているのか
それすらもわからぬままに書いている
きっと千年後の自分
最後の自分に向けて書いている
最後に自分を自分と認識可能かどうかもわからないが
千年後に自分という概念が使われているとは到底思えない
自分という言葉が伝承されていくことにさえ
僕は祈らねばならない
言葉は悲しい
だから僕は言葉の情報を読まない
見えもしない背景の透明な部分を読む
勝手に感じる
主体そのものの透明性は
主体の亜空間移動を可能にする
自分はどこにも居ないからこそ
感情移入が可能で、より妄想的な宇由を感じる
私は宇宙
自分の中心はブラックホール
自信は無くてもいい
引力がある限りは。
設問4
設問の意味を答えなさい。
僕は自分の事をわからない三元論者だと思っているけど
三元論を体系的に説明するためには
四元的に考えないといけない事がある
物事を
知っている/知らない/矛盾/わからない
の四つにおおまかに区切る時
わからないのグループがじつにくせものである
ダークマターの引力によって
様々なものが吸い込まれてしまうため
わからないより先に思考が進む事自体に危険性があるからだ
だから二元的に言えばそこには
理解可能/理解不可能
と似たような壁が存在している
その壁についての話はまたいずれいつかそのうち
知っている事は
知っている事同士の結びつきにおいて
ある種の理解と同じ錯覚を引き起こします
知ったと解ったの違いは例えどこにも繋がっていなくても
知覚した時には「知った」と感じるし
どこかに繋がった時には「解った」と感じます
理解不能でどこにも繋がらない情報が
あまりにもたまりすぎると不快感を引き起こします
これも不思議
知らない事にぶつかった時
知らないと言えるのは矛盾です
「今知ったはずだ」と言う事が出来る
知らない事はまだこの世界にない事
自世界の境界の外側にある「まだ知らない事」
が知らない事なのだけど
知らないのに「外側」だと書いている事自体がおかしいです
一体どうやって自分に内側とか中とかの概念を感じているのか
そして考えているのか
そこも謎が多いです
矛盾は基本的には同軸上の二つ以上の概念を重ね合わせる事で
それを矛盾として包含する事ができます
白いカラスではなくて
真っ黒なホワイトでもなく
「黒い白」「赤い青」「正しい悪」「生まれたばかりの婆さん」
などが基本構成なのですが「ダサカッコイイ」という言葉もあったりたり。
集中力が切れてきたので今回はこのへんでー。
存在の原点が無いのに邪推だけで思考してんのって
すっげぇ不思議な話だよねー。
でゎ♪