嘘の吐き方(うそのつきかた)

人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。

奪われた価値を取り戻すために。

2006年12月04日 15時06分08秒 | 駄文(詩とは呼べない)
含まれた吐き気を、
もよおした吐き気を、
記号に置き換えることによって文学的な芸術の側をなぞる。
その吐き気と共に沸き上がる妄念を、複雑で単純な、一般性のある形に置き換えることが、
苦痛を苦痛としてオリジナルのままにしておく不在を許す。

いわゆる芸術的価値とは、ある種の品位や学位によって認められた者たちの遊技のようなものだ。
それらは全て、奴隷達の犠牲の上に暇と退屈の重ね合わせの煉獄の中で生み出される歩みの遊びだ。
だから低俗さも馬鹿さ加減も許してしまえる本領的な了見の広さを持ってしか、
多くの言葉は通じ得ない。
ゆえに、美徳とされる文学的意識によって
複雑な技巧的あやとりを望むべくもなく、
また、わかりやすさだけを基底とするわらべうたを唱うつもりもない。

あきらかにここは、
孤独と孤独の記号による摺り合わせを楽しむ場でしか無いのだ。
すなわち絶望による一人のキャッチボールでしかないことを、
わかったうえで、それでも球を投げざるを得ない、人々の、人の、その中の意識の、
妄妖とした沸き立つ湯気や煙の類でしかないのだ。

たとえば僕ははらいたを「腹痛」と書いて必死に我慢しているわけではないのだ。
苦しんだことを、症状を、病状を、なんら客観的な要素を持たず、
ただ壁に向かって呪いのように記録しているに過ぎないのだ。

だからここに書かれた言葉の意味がわからなくても
それ自体は別に不思議なことでもなんでもない。
ただ、もしもここに書かれた事を何か汲み取ろうと意志のあるものが
意識的に読むのであれば、
それはきっと苦痛の再現となるのだろう。

だから僕はここに書かれたものに価値が無くとも、
意味が無くとも、それを恥ずかしいとは思わない。
たぶん、どうしようもないことなのだから。

それでも、そのことを十分にわかったつもりでいても、
僕はまだ、何もわかっていないのか、
誰かにまた、ともするとまた、
何かを、必死に、伝えたいと願ってしまう。

だからこれはエゴなんだ。
だからこれは涙を揮発させてゆく呪いの固まりなんだ。
呪詛の仮面をかぶって、
僕はまた、一人で丘を走る。
明日の太陽を、見ないで済むような聖地を探して。

僕は苦しむ。
そのことが、一つの証明であるかのように。