嘘の吐き方(うそのつきかた)

人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。

パラロジカルな季節。

2006年12月22日 20時04分08秒 | 駄文(詩とは呼べない)
言葉は、ある種の脱皮だと思う。
殻を脱ぎ捨てる事は出来ないけれど
例えずれていても、たとえ間違っていても、
そばをかすめる表現をすることで、
観念の檻から何度でも抜け出す行為に似ている。

古い自分を捨て去って、新しい自分を手に入れる行為に、
とてもよく似ている。

ただし、それは、表現が、もっとも、心に近づいた時にのみ、起こる。

興奮を表現することは出来ない。
気持ちを表現する事はできない
そしてまた、呼吸を書き記す事も出来ない。

それでも僕は、ここに何かを殴り書いたりしている。
それが何か、どうしようもない、呪いの掃き溜めだとしても。

交通は、ある種の光のシグナルによって規制されている
それは事故を起こすとか、起こさないとか、
そんな話題は横においておくとしても。

僕の言葉は、どんな波によって規制されるだろう。
どんな標準化の圧力を受けて、
どんな誤解の中で表現されるだろう。

来る日も来る日も、つたない表現で、
紛らわしい表現で、ズレたままの自分を屈折して表現する。
そのいらだちは、決して消えはしない
決して無くなりはしない。
それがいつも、嘘になって、空回りして、誰にも伝えられないとしても。

どうしようもない自分の事はよく知ってる。
そして自分と言えるほどの、しっかりした形など、
どこにもないことも、なにもないことも。

通り過ぎる風の中で、
呼吸に似た、気持ちよい音だけが、
心地好い風だけが、
僕の今のすり抜けて、言葉へと変わる。
記号へと、記される。

それがとても、儚い行為だとしても。

分析は、ほとんど役に立たない。
断定も、断罪も、僕をどこかへ縛る事は出来ない。
僕を永遠の形へ、変質させる事はできない。
それがいいことなのか、わるいことなのか、
そんなことはもう僕にはわからない。
僕には、そんな判断をする能力は無いのだから。

言葉に対する無力感は、気付いた時点でもうお終いのようなものだと思う。
決してぬぐうことは出来ない。
決して超えられる事はない。
それがもし、人に感動を与えられるものなら、
なにかの、心の中にある汚れを、
現実という檻で出来た鍵を、
どこかへ向けて、開ける事が―できるんだろうか?

ほんの少しの感動が、ほんの一握りの砂を枯れ葉へと戻すとしても、
心の中に降り積もっていく砂の方が、 はるかに、
遙かに、とても多いのだから。

旧校舎へと続く記憶の階段は、
風景に続く坂道へととてもよく似ていて、
僕を二つの世界から、別の世界へと移し込む橋に似ている。
思い出とよく似たインターフェースで
幻想によく似た景色へと、
僕を移動させてゆく
僕を誘ってゆく
僕をこらしめてゆく。

思い出は色褪せてばかりなのに
決して消える事が無い。
そのたびに、僕は生きている事の罪を背負う。

もうすぐ僕の番だろう。
明日は僕の番だろう。
明後日には、もういないだろう。

そんな風に、僕を問い詰めてゆく。

現れ渡る、綺麗な風景との対比が、僕をいつまでも痛めつけながら汚していく。
決して消えはしない呪いを、
僕に現実の名前で刻んでいく。
もしもその世界に人の名が無かったら、
僕は記号から、何の罪も受け取らずに済むんだろうか?
全員を殺せば、新しい世界へと目覚める事ができるんだろうか?

六十億の敵
とても戦える気はしない
だけどまだ、負ける気もしない
それでもただ、苦痛だけは、消える気がしない。

どうしようもない世界で
どうしようもない事を思って
どうしようもない自分に
変身してゆく。

ほんの一握りの絶望を、
明日の天秤に くゆべながら。