嘘の吐き方(うそのつきかた)

人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。

死の糸をほどくように知る。

2006年12月23日 04時54分22秒 | 駄文(詩とは呼べない)
向き合う時間が惜しい。

絶望を経験することによってしか
「外」と対峙する事が出来ないのなら、
そもそもその矢印は、|仮想的であるか|現実的であるか|
の問いに関わらず、
外、外部、他者、不透明、宇宙の外、新しい
という経験を要求する出来事は
全て現象の名のもとに説明される限りにおいて

『痛み』
であることは間違いない。
その間違いの無さ、
確からしさにおいては、

「死」は苦痛以外のなにものでもない。
死によって救われる生があるかないかをさしおいても
死、そのものが楽になるという考えは間違いであると言わざるを得ない。

だとしても、
それは「死」への憧れとは、本質的に別の場所で議論される出来事であるように思う。

死が一つの救済であるという事実性は、
主に生が辛いと感じる者の主体性の内側にある出来事だからだ。

そのため、「死」と向き合うことは
「生」そのものへの反発力と統合力を同時に併せ持っている。

すなわち、死の持つ無意味性が生を意味あるものとして引き立てるか、
あるいは
死の持つ意味性が「生」を無意味なものへと喪失させる
その反作用によって色褪せていると言わざるを得ない。

だからこそ、
宇宙の内部で生まれている「生」は、
本質的な部分では「形」と「崩壊」の変化を無くしては語れない。
要するに、自殺志願者を救う者がもしもあるとすれば、
それは間違いなく「世界の外側」から飛来する奇跡であり、

死は、物理現実で秤に乗せたのなら
宇宙の外部を示さざるを得ない。

生と死の紐が解かれる、受精卵の奇跡は、
時間性を超越した場所で行われる。

だからこそ、胎児は時代を経験して生まれてくる
可能性からの遺産であり、
老化の持つ腐敗性は抗うことの出来ない一回性であるのだ。

もしも本当に真の意味で永遠を体感したいと願うならば、
それは世界中の物体を壊し続け、生き続けねばならない。
そのような永遠は、神への冒涜だ、不可能だ、
と騒ぎ立てるよりも前に、
あまりにも巨大な苦痛の連続なのだ。

星の感覚、星の呼吸を超越するほどの長い永いチャンネルを開かずして、
まずこれを成し遂げる事は人間にはできない。
だから僕らが悟りを開くとき、
その行為は拡大によってではなく、
縮小する方向によって行われ、
無への悟りこそが重要視される。

だけど僕は向き合う時間が惜しい
死の魅力に比べれば、
わかりすぎている生の彩りなど、
触れられない星達の嘆きの光でしかない。

宇宙を繋いでいるゆっくりとした境界線の揺らぎは、
ただ無惨に現実の輪郭を際立たせる。

見えるものが見え、
見えないものは見えないという価値観。
聞こえるものが聞こえ、
聞こえないものは聞こえないという価値観。
そうした束縛がある限り、
僕はこの世界への興味を失う。

喪失感は、ただただ人々の前で日常として飛来する。
それが掬い取ることの出来る奇跡を、
僕はまだ、僕の世界で知らない。