毎日誰かの誕生日であり、誰かの命日でもある。
今日、8月30日は、亡父の誕生日。
所謂激動の昭和を生き抜いてきたのである。
昭和3年・1928年に産まれ、1999年11月22日に逝く。
71歳だった。
若いと言えば、若い。
60歳からもらえた年金を65歳まで待ち、わずか6年の受給だった。
亡父は、幼い時に、両親を亡くし、祖父母に育てられた。
亡父の父親は、当主で長男であったため、亡くなったあと、実弟にあたる叔父夫婦が、
戸籍に戻り、実質、叔父夫婦に育てられたのである。
戦争中は、口には言えないほどの辛い事もあったようである。
学徒出陣があったころ、軍需工場での働き手は、中学や高校に通ってた者に移行。
昭和20年8月、長埼の軍需工場へ行ってたらしい。
6日の広島の原爆のあと、9日に長崎に原爆があった。
この6日の原爆のあと、亡父らは、上司の命令で、故郷の熊本へ帰るように言われたらしい。
私が、父から聞いた唯一の戦争の話である。
生きのびた命だからこそ、大事に大事に生きたいと思ってたはず・・・。
でも、何かが、狂った。
その後の人生は、父には、辛く淋しいものだったのかも。。。
今日、8月30日は、亡父の誕生日。
所謂激動の昭和を生き抜いてきたのである。
昭和3年・1928年に産まれ、1999年11月22日に逝く。
71歳だった。
若いと言えば、若い。
60歳からもらえた年金を65歳まで待ち、わずか6年の受給だった。
亡父は、幼い時に、両親を亡くし、祖父母に育てられた。
亡父の父親は、当主で長男であったため、亡くなったあと、実弟にあたる叔父夫婦が、
戸籍に戻り、実質、叔父夫婦に育てられたのである。
戦争中は、口には言えないほどの辛い事もあったようである。
学徒出陣があったころ、軍需工場での働き手は、中学や高校に通ってた者に移行。
昭和20年8月、長埼の軍需工場へ行ってたらしい。
6日の広島の原爆のあと、9日に長崎に原爆があった。
この6日の原爆のあと、亡父らは、上司の命令で、故郷の熊本へ帰るように言われたらしい。
私が、父から聞いた唯一の戦争の話である。
生きのびた命だからこそ、大事に大事に生きたいと思ってたはず・・・。
でも、何かが、狂った。
その後の人生は、父には、辛く淋しいものだったのかも。。。