大阪市北区で行政書士・海事代理士・マンション管理士を営んでいる原田行政書士法務事務所の駅ブログ

主に学生時代から撮り続けている全国の駅の写真等をブログで毎日公開しています。

阪和線 紀伊駅!

2019年04月24日 | 

和歌山県和歌山市にあるJR西日本の紀伊駅は、天王寺駅から大阪府南部の各都市を経由して和歌山駅までを結んでいる阪和線(63.0km・羽衣支線を含む)の駅です。
もともとは大阪と和歌山を高速に結ぶことを目的に建設された阪和電気鉄道の駅として、1930(昭和5)年6月16日に開業しました。

島式ホーム2面4線を有する直営駅で、1954(昭和29)年3月に建てられた駅舎が一部増築されたものの、今も健在です。

2017(平成29)年度の1日の平均乗車人員は4,048人で、これは起終点駅を含む阪和線の全36駅中22位です。

この紀伊駅は、阪和線としては和歌山県の最北端にある駅で、北隣の山中渓駅との駅間距離は同線では最も長い8.1kmとなっています。

  <紀伊駅の年表>

 ・1930(昭和5)年6月16日:阪和電気鉄道の駅として開業
 ・1940(昭和15)年12月1日:阪和電気鉄道が南海鉄道に吸収合併され、南海鉄道山手線の駅となる
 ・1944(昭和19)年5月1日:南海鉄道山手線が戦時買収私鉄に指定されたことにより国有化され、国鉄阪和線の駅となる
 ・1954(昭和29)年3月  :現在の駅舎が竣工
 ・1968(昭和43)年9月1日:貨物取扱い廃止
 ・1987(昭和62)年4月1日:国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる
 ・1988(昭和63)年3月13日:朝と夕方の一部の快速の停車駅となる
 ・1992(平成)年11月1日:みどりの窓口の営業開始
 ・1993(平成5)年7月1日:阪和線運行管理システム(初代)の導入
 ・1999(平成11)年5月10日:紀州時快速の運転開始により、終日快速の停車駅となる
 ・2003(平成15)年3月  :エレベーターの設置に伴い、駅舎が一部増築される
 ・2003(平成15)年10月1日:ホームを除き、駅コンコースの喫煙コーナーを廃止
 ・2003(平成15)年11月1日:ICカード「ICOCA」の利用が可能になる
 ・2009(平成21)年7月1日:ホーム上の喫煙コーナーを廃止して、駅構内終日全面禁煙化
 ・2013(平成5)年9月28日:阪和線運行システムを2代目のものに更新
 ・2017(平成29)年3月7日:入線警告音(接近メロディー)を幅広い周波数帯域を持つ音質の警告音に更新
 ・2018(平成30)年3月17日:駅ナンバリングの導入

 
(駅 名 標)

 
(天王寺方面を望む)

 
(和歌山方面を望む)

 
(紀 伊 駅)


 撮影年月日:2018(平成30)年3月24日


山陽電鉄網干線 夢前川駅!

2019年04月23日 | 

兵庫県姫路市広畑区東新町三丁目にある夢前川駅は、飾磨駅から山陽網干駅までを結んでいる全線単線の山陽電鉄網干線(8.5km)の旅客駅として、1940(昭和15)年10月15日に開業しました。

築堤上に相対式ホーム2面2線を有していて、列車交換可能な無人駅です。
1969(昭和44)年12月に建てられた駅舎が健在です。

2017(平成29)年度の1日の平均乗降人員は1,701人で、これは山陽電鉄の全49駅中40位です。 また、網干線の駅では7駅中3位です

夢前川駅が属する山陽電鉄網干線は全線にわたって兵庫県姫路市内を走り、3両編成の3000系・6000系がワンマン運転を行っています。 そして、かつては通勤時間帯などに飾磨駅でスイッチバックして電鉄姫路駅(現在の山陽姫路駅)への直通運転がありましたが、1991(平成3)年4月7日のダイヤ改正で廃止されました。

  <夢前川駅の年表>

 ・1940(昭和15)年10月15日:山陽電鉄網干線の終着駅として開業
 ・1940(昭和15)年12月23日:網干線が日鉄前駅(現在の広畑駅)まで延伸したことにより、途中駅となる
 ・1957(昭和32)年9月1日:列車の交換設備設置
 ・1969(昭和44)年12月:駅舎改築
 ・1995(平成7)年1月17日:阪神・淡路大震災により網干線が不通となり、営業休止
 ・1995(平成7)年1月18日:網干線の運転再開に伴って営業再開
 ・1999(平成11)年10月1日:「スルッとKANSAI」対応カードの取り扱い開始
 ・2006(平成18)年7月1日:ICカード「PiTaPa」の利用が可能になる
 ・2011(平成23)年3月1日:駅構内の喫煙コーナーを廃止し、駅構内終日全面禁煙化
 ・2014(平成26)年3月21日:IC乗車カード全国相互利用開始によりKitaca、PASMO、Suica、manaca、TOICA、nimoca、はやかけん、SUGOCAが利用可能になる
 ・2014(平成26)年4月1日:駅ナンバリングの導入

 
(駅 名 標)

 
(網干方面を望む)

 
(飾磨方面を望む)

 
(夢前川駅駅舎)

 
(駅 舎 内)


 撮影年月日:2013(平成25)年12月23日


JR奈良線 長池駅!

2019年04月22日 | 

京都府城陽市長池北裏にあるJR西日本の長池駅は、京都駅から木津駅までを結んでいるJR奈良線(34.7km)の駅です。
もともとは奈良鉄道の一般駅として1896(明治29)年1月25日に開業しましたが、その後、関西鉄道を経て国鉄奈良線の駅となりました。

相対式ホーム2面2線を有する業務委託駅です。
かつては1920(大正9)年8月に建てられた木造駅舎が上りホーム(京都方面行きホーム)側にあり、下りホームとは跨線橋で連絡していましたが、2012(平成24)年5月に長池の「池」や城陽市の木となっている「梅」からイメージを取り入れた丸みを帯びた形状の新しい橋上駅舎に建て替えられました。

2017(平成29)年度の1日の平均乗車人員は1,230人で、これは起終点駅を除くJR奈良線の全17駅中12位です。

この長池駅は、城陽市の南の玄関口として位置づけられています。

長池駅が属する奈良線は、JR西日本のアーバンネットワークの路線の一つで京都・奈良間の都市間輸送を担っており、みやこ路快速・快速・区間快速・普通の4種別の列車が運転されていますが、奈良線という名称でありながら全区間が京都府内にあり、奈良県内には路線がありません。

  <長池駅の年表>

 ・1896(明治29)年1月25日:奈良鉄道の一般駅として開業
 ・1905(明治38)年2月7日:奈良鉄道が関西鉄道と合併し、関西鉄道の駅となる
 ・1907(明治40)年10月1日:鉄道国有法により関西鉄道が国有化されて、国鉄の駅となる
 ・1909(明治42)年10月12日:国鉄線路名称制定により国鉄奈良線となり、同線の駅となる
 ・1920(大正9)年8月 :旧駅舎の竣工
 ・1987(昭和62)年4月1日:国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となる
 ・2003(平成15)年11月1日:ICカード「ICOCA」の利用が可能になる
 ・2009(平成11)年7月1日:ホーム上の喫煙コーナーを廃止して、駅構内終日全面禁煙化
 ・2010(平成22)年12月1日:組織改正により、京都支社の管轄から近畿統括本部の管轄に変更される
 ・2012(平成24)年5月27日:新しい橋上駅舎の使用が開始される
 ・2018(平成30)年3月17日:駅ナンバリングの導入

 
(駅 名 標)

 
(京都方面を望む)

 
(木津方面を望む)

 
(長池駅駅舎・南口)

 
(駅 舎 内)

 
(駅舎・北口)


 撮影年月日:2016(平成28)年1月9日


旧国鉄名寄本線 湧別駅!

2019年04月20日 | 

北海道紋別郡湧別町栄町にあった湧別駅は、宗谷本線の名寄駅から石北本線の遠軽駅に至る本線(138.1km)と中湧別駅から湧別駅に至る支線(4.9km)の2つの線からなっていた名寄本線(143.0km)の駅で、もともとは湧別軽便線の一般駅である下湧別駅として1916(大正5)年11月21日に開業しました。

かつてはこの湧別駅から木材が多く搬出されたため、50mの単式ホーム1面1線の他に、30mの貨物ホームと複数の貨物側線も有していました。 しかし、貨物取扱い廃止後にそれらは撤去されてしまい、名寄本線廃止時には単式ホーム1面1線だけの簡易委託駅でした。
構内の北西側に開業時に建てられた木造駅舎が廃止時まで健在で、ホームとは通路で連絡していました。

ちなみに、湧別駅の属する湧別支線は、末期には列車の本数が朝と夕方の2往復だけしかなく、国鉄時代には清水港線(1往復/日=1984年4月1日に廃止)に次いで旅客列車の少ない区間として鉄道ファンに知られていました。

湧別駅が属していた名寄本線は、1896(明治29)年5月14日に公布された北海道鉄道敷設法の規定により、道央とオホーツク沿岸方面とを結ぶ幹線鉄道として建設され、全通後は札幌と北見・網走方面を結ぶメインルートとなりましたが、1932(昭和7)年10月1日に石北本線が開通すると、名寄本線は一転してローカル線に転落してしまい、以後はオホーツク沿岸の市町村を淡々と結ぶ生活路線に徹しました。

やがて名寄本線は、1980(昭和55)年12月27日の国鉄再建法(日本国有鉄道経営再建促進特別措置法)施行による特定地方交通線選定の際には第2次特定地方交通線に選定されますが、営業キロが143kmもある長大路線であったことや、沿線道路が未整備だったため、冬季の代替輸送に問題があるなどの理由により一時廃止承認が保留されたものの、その後、運輸省(現・国土交通省)の調査結果を受けて1985(昭和60)年8月2日に追加廃止承認されてしまいます。

そして、1987(昭和62)年4月1日の国鉄分割民営化により北海道旅客鉄道(JR北海道)に承継された後、1989(平成元)年4月30日限りで廃止され、それに伴い湧別駅も廃駅となりました。

ちなみに、駅跡地には遠軽地区広域組合消防署湧別出張所及び湧別町文化センターさざ波が建設されており、消防署前の歩道には「湧別駅の跡」の記念碑が建立されています。

  <湧別駅の年表>

 ・1916(大正5)年11月21日:旧国鉄湧別軽便線の一般駅である下湧別駅として開業
 ・1922(大正11)年9月2日:線路名が湧別線に改称されたのに伴い、同線の駅となる
 ・1932(昭和7)年10月1日:湧別線が名寄本線に編入されたのに伴い、同線の駅となる
 ・1954(昭和29)年11月10日:駅名を湧別駅に改称する
 ・1978(昭和53)年12月1日:貨物取扱い廃止
 ・1984(昭和59)年2月1日:荷物取扱い廃止
 ・1986(昭和61)年11月1日:駅の無人化(簡易委託)
 ・1987(昭和62)年4月1日:国鉄分割民営化により北海道旅客鉄道(JR北海道)の駅となる
 ・1989(平成元)年5月1日:名寄本線の廃止に伴って廃駅となる

 
(駅 全 景)

 
(湧別駅駅舎)

 
(硬券乗車券)


 撮影年月日:1989(平成元)年3月28日


今日は地図の日!

2019年04月19日 | 今日は何の日

4月19日は地図の日です。

1800(寛政12)年の今日(4月19日)、伊能忠敬が蝦夷地(北海道)の測量を行うため江戸を出発しましたが、このことにちなんで「地図の日」と制定されました。

上総国(現・千葉県)出身で55歳だった伊能忠敬は、息子の秀蔵を含む内弟子3人と2人の従者を連れて、この日まず安全祈願のため富岡八幡宮に参拝した後、蝦夷地に向けて奥州街道を北上しながら第1回目の測量の旅を開始しました。 そして5月21日に函館に到着しますが、手続きの関係もあってここで8日間を過ごし、5月29日からいよいよ蝦夷地の測量を始め、10月21日に帰ってきました。 この第1次測量に要した日数は180日で、そのうち蝦夷地に滞在したのは117日だったそうです。

その後も忠敬は、72歳まで17年間もの歳月を費やして日本全国を歩いて測量し、実測による日本初の本格的な全国地図「大日本沿海興地全国」の作成に取り組みますが、完成前に亡くなってしまいます。 その地図の完成は、忠敬の死から3年後の1821(文政4)年8月7日に弟子の高橋景保たちの手で完成しました。
完成された地図はすべて手書きの彩色地図で、縮尺36,000分の1の大図、216,000分の1の中図、432,000分の1の小図があり、大図は214枚、中図は8枚、小図は3枚で測量範囲をカバーしています。
そしてこの地図は極めて精巧だったので、開国後の1861(文久元)年にイギリス海軍の測量艦が日本沿岸の測量を行おうとした際に、たまたま幕府の役人が所有していた伊能小図の写しを見て、その優秀さに驚き測量を中止したといわれるほどでした。

伊能忠敬が全国を測量するために歩いた距離は約4万キロにも及び、これは地球1周分に相当し、歩数にすると4000万歩にも達するそうです。 また、忠敬の測量技術は極めて高度で、子午線の長さは110.74kmとしており、今日の計測値と比べてもわずか0.001%の誤差という極めて高度な数字を割り出していたのでした。