日本と世界

世界の中の日本

尖閣諸島や島根県の竹島の領有について共産党の見解

2021-02-16 15:32:44 | 日記
  •  沖縄県の尖閣諸島(中国名・釣魚島)や島根県の竹島(韓国名・独島)の領土問題をめぐり、日本と中国・韓国の間に緊張を激化させ、関係を悪化させるような発言や行動が続いています。この二つの領土問題の解決にあたっていま大切なことは何か―日本共産党の見解をQ&Aでみます

写真

(写真)尖閣諸島。魚釣島(手前)と北小島、南小島=2004年11月、穀田恵二衆院議員撮影

Q 尖閣の領有権は?

A 歴史上も国際法上も日本

 尖閣諸島の存在そのものは、古くから中国にも日本にも知られていました。

しかし領有を示す記述は文献などにもありません。

近代まで尖閣諸島は、どの国の支配も及んでいない、国際法でいう「無主の地」でした。

 その後、尖閣諸島を探検した日本人の古賀辰四郎氏が1885年に同島の貸与願いを日本政府に申請。

政府は沖縄などを通じた現地調査のうえで、1895年1月の閣議決定で尖閣諸島を日本領に編入しました。

歴史的には、この措置が尖閣諸島に対する最初の領有行為でした。

 これは「無主の地」を領有の意思をもって占有する「先占」にあたり、国際法で認められている領土取得のルールです。

 その後、第2次大戦まで日本の実効支配が行われました。

戦後、米軍の支配下におかれましたが、1972年の沖縄返還とともに、日本の施政に戻っています。

 中国は1895年から1970年までの75年間、一度も日本の領有に対して異議も抗議も行っていません。

実際、53年1月8日付の中国共産党機関紙「人民日報」は「尖閣諸島」という日本の呼称を使って同諸島を日本領土に含めて紹介していました。

図

 

 中国側は領有権の主張の根拠に、日清戦争(1894~95年)に乗じて日本が不当に尖閣諸島を奪ったという点をあげています。

日清戦争で日本は、台湾とその付属島嶼(とうしょ)、澎湖(ほうこ)列島などを中国から不当に割譲させましたが、尖閣諸島は日本が奪った中国の領域に入っていません。

 台湾・澎湖の割譲を取り決めた日清戦争の講和条約(下関条約)の経過が示すように、

(1)日本による尖閣領有の宣言が交渉開始の2カ月前である

(2)条約は尖閣について一切言及していない

(3)交渉過程で中国側が抗議した事実はない

(4)条約締結の交換公文で定める台湾付属島嶼にも含まれていない―ことからも、中国側が尖閣諸島を自国領土と認識していなかったことは明らかです。

 日本の尖閣諸島の領有は、日清戦争による台湾・澎湖列島の割譲という侵略主義、領土拡張主義とは性格がまったく異なる正当な行為でした。

 このように、歴史的にも国際法的にも尖閣諸島が日本の領土であることは明らかです。

Q 日本政府はどんな対応?

A 本腰入れ正当性主張せず

 尖閣問題をめぐる紛争問題の解決で何よりも重要なことは、日本政府が、尖閣諸島の領有の歴史上、国際法上の正当性について、国際社会と中国政府に対して理を尽くして主張することです。

 この点で歴代の日本政府の態度には、1972年の日中国交正常化以来、本腰を入れて日本の領土の正当性を中国側に対して主張してこなかった弱点があります。

 領土画定の好機だった1978年の日中平和友好条約の交渉過程では、中国の鄧小平副首相(当時)が尖閣領有問題の「一時棚上げ」を唱えたのに対し、日本側は領有権を明確な形では主張しませんでした。

92年に中国が「領海および接続水域法」という国内法で尖閣諸島を自国領に含めたことに対しても、日本側は事務レベルの抗議にとどまりました。

 民主党政権でもその姿勢は同じです。

2010年9月の中国漁船衝突事件では「国内法で粛々と対応する」というだけ。

尖閣諸島が日本の領土であることは歴史的にも国際法的にも疑いのないことだと述べながら、「領有権の問題はそもそも存在しない」などと主張。

この間、30回以上にわたって日中間の首脳会談・懇談、外相会談(電話を含む)が行われましたが、尖閣問題で突っ込んだやりとりがされた形跡はなく、日本政府が国際社会に主張した例も見当たりません。

図

 

Q 竹島の領有問題は?

A 日本領有に根拠 編入時に韓国併合重なる

 竹島は日本海航海者の好目標であったため古くから日本人にも知られ、「松島」の名で日本の文献にも表れ、アワビやサザエなどの漁に利用されていました。

しかし、この島の帰属は、文献的には必ずしも明確ではありませんでした。

 1905年、竹島でアシカ猟に従事していた隠岐島の中井養三郎氏から10年間の貸し下げが出されたのを受け、日本政府は同年1月の閣議決定で同島を日本領として島根県に編入しました。

 竹島はこれ以来、日本領とされてきました。

51年のサンフランシスコ平和条約第2条a項も、竹島を、朝鮮に対して放棄する島の中に含めていません。

それは条約作成の過程からも明らかです。

 こうした経過から日本共産党は、竹島の日本の領有権の主張には歴史的にも国際法的にも明確な根拠があると考えています。

現在の韓国の実効支配は、52年に竹島を囲い込む境界線を設定、54年に常駐守備隊を配備し、占拠するようになったのが始まりです

 一方で、日本が竹島を編入した時期と、日本が韓国を植民地にしていった時期とが重なっているという問題があります。

1904年には第1次日韓協約が結ばれ、韓国は事実上、外交権を奪われ、異議申し立てができない状況でした。

竹島はその翌年に日本に編入され、1910年には韓国併合条約が結ばれています。

 日本による植民地支配の歴史を無視したままでは、韓国との間で歴史的事実にもとづく議論はできません。

Q 解決には何が必要?

A 植民地支配反省し協議を

 竹島問題をめぐって今問題なのは、日韓両政府の冷静な話し合いのテーブルがないことです。

 韓国では国民の大多数が、「独島」(竹島の韓国名)が韓国の領土で、日本帝国主義の侵略で奪われた最初の領土だと考えています。

 そのもとで話し合いのテーブルをつくるためには、まず日本が韓国に対する過去の植民地支配の不法性と誤りをきちんと認めることが不可欠です。

その土台の上で、歴史的事実をつき合わせて問題の解決を図るべきです。

 ところが日本政府は、1965年の日韓基本条約の締結にいたる過程での竹島領有をめぐる韓国政府との往復書簡による論争でも、今日でも、韓国併合(1910年)=植民地支配を不法なものと認めていません。

 日本共産党の志位和夫委員長は2006年の韓国訪問の際、韓国要人と竹島問題で率直な議論を行った経験から「日本政府が、植民地支配の不法性、その誤りを正面から認め、その土台のうえで竹島問題についての協議を呼びかけるなら、私は、歴史的事実にもとづく冷静な話し合いが可能になると、これらの交流を通じて痛感したしだいです」と語っています。

 「竹島の問題は、歴史認識の文脈で論じるべき問題ではありません」(8月24日の会見)という野田首相の歴史的経過を無視するような態度では、解決への道は開けません。

Q 厳しい対応必要では?

A 緊張激化なら事態が悪化

 領土問題の解決は、あくまでも歴史的事実と国際法上の道理にのっとり、冷静な外交交渉によって解決を図ることが大事です。

尖閣諸島問題と竹島問題は性格が異なり、解決の方法も異なりますが、緊張を激化させるような行動は双方が慎まないと問題の解決にはなりません。

 韓国の李明博大統領の竹島訪問や尖閣諸島問題をめぐり先の国会では、「韓国大統領竹島上陸非難決議」と「香港民間活動家尖閣諸島上陸非難決議」が衆参両本会議で議決されました。

 決議は、韓国大統領の竹島訪問を非難するにとどまらず、「竹島の不法占拠を韓国が一刻も早く停止することを求める」と、これまで政府も求めてこなかったエスカレートした要求を突きつけ、日本政府に対しては「効果的な政策を立案・実施するべき」ことを求めています。

 尖閣問題では「警備体制の強化を含め、あらゆる手だてを尽くすべきである」ともっぱら物理的な対応を強化することに主眼をおいたものになっています。両決議には、冷静な外交交渉による解決の立場がまったく欠落しており、日本共産党は反対しました。

 日本共産党は侵略戦争と植民地支配に反対を貫き、どんな大国の横暴も許さぬ自主独立の党です。だから、歴史的事実と道理にたった解決案を堂々と提案し、冷静に取り組みます。


日韓関係の歴史戦に関する考察(1)明治日本

2021-02-16 10:55:53 | 日記

日韓関係の歴史戦に関する考察(1)明治日本

 

 隣り合ったお国とお国、民族と民族の問題は、古今東西を問わず誠に難しいものです。

「遠交近攻」は兵法三十六計の第二十三計にあり、地理的に遠い国とは親交を結び、近接する国を攻めるという二千数百年前の古代中国の戦術です。

例えば西洋の歴史でも、イギリスとフランス、フランスとドイツ、イギリスとアイルランドなど近隣国同士の戦争や紛争の歴史があるように、隣国であるから親交があってずっと仲が良かったというわけでは必ずしもないのです。

むしろ隣国であるがゆえに、国境紛争をはじめ何かと争いになるタネは多いのが実情です。

日本にとってのもっとも地理的に近い隣国は韓国・北朝鮮や台湾、そして中国とロシアであり、地形的には朝鮮半島が日本の九州や山陰に突出して近接する形状になっています。

海から日本を攻める以外に陸続きの延長線上で日本に侵入するとすれば、北は樺太や千島列島からのラインと、南は朝鮮半島からのラインが近いので、特にユーラシア大陸の地続きである朝鮮半島は、大陸方面から日本を攻める地理的拠点としては重要です。

こういう地理的な形状を、国際政治面、経済面、軍事面での関連に注目して巨視的に捉えるのが地政学(Geopolitics)という分野です。

日本ではナチスドイツとともに戦前に流行した関係で戦後は忌避されてきましたが、最近また注目されるようになりました。

もちろん現代のイギリスやアメリカでも研究されているので、何らかの思想的偏向と見てこの地政学的研究領域を忌避すべきではなく、むしろ現代日本にとってはリアリズムに基づいた地政学的分析が必要となっていると思われます。

これは日本を取り巻く直近のアジア領域のみならず、環太平洋や、インド洋、中近東など、世界中の国際関係状況を読み解くための必須の重要なツールなのです。

 さて、最近は日韓関係の悪化から、特に右寄りの人々の間では嫌韓論が盛んですが、今から約二年前に書いた本ブログの「高度な平凡性から見る韓国疲れ(Korea Fatigue)」(2019年3月2日付 https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12443985437.html ) でも取り上げたことがある通り、こういう時こそ「日本にとっての本当の国益」について、今一度「冷静な賢慮かつ冷徹なリアリズムの視点」から考えなければならないと思います。

明治時代、帝政ロシアの議会(Duma)召集(明治38(1905)年8月)に先駆けて、近代的議会を開設した日本では、明治23(1890)年12月に開催された第一回帝国議会における山縣有朋首相の施政方針演説の中で、当時の用語で「主権線の守備」から「利益線の保護」に向かわねばならないという趣旨の発言があります。

要は、日本の国境線という物理的かつ地理的な「主権線」を守るだけでは、本当に日本を守ることはできない。

当時の「利益線」という用語は、後の「日本の生命線」という言葉に連なってゆく「地政学的な概念」としての、言わば「間接的な接続領域・緩衝地帯を含む防衛線」を意味していました。

つまりは明治時代でさえ、もはや国境線の守備である狭義の専守防衛だけでは日本を守れず、地政学的な緩衝地帯・接続領域を含む国家としての生命線を攻勢防御しなければならないという考え方があったということです。

その意味での日本の「生命線」とは朝鮮半島だったのです。

そして明治時代も令和時代も日本列島と朝鮮半島の地理的位置関係は全く変わっていません。

山縣有朋公爵(元帥陸軍大将)の後を継いで帝国陸軍と帝国政府を率いた桂太郎公爵(陸軍大将)が、日露戦争開戦時にどのように朝鮮半島を捉えていたかを、ここで少し見てみましょう。

やはり本ブログの別シリーズ「なぜ日本はアメリカと戦争したのか(68)明治期の政府・統帥部の首脳と『天皇親政』」でも取り上げた次の部分です。(2019年5月8日付https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12459787258.html ) 

・・・政府は早速ロシアとの間に談判を開始したが、予想通り、「朝鮮は其の一部たりとも、如何なる事情あるに関せず、之を露国に譲歩せざること」という目的を達成する見込みは立たず、いよいよ日露開戦の覚悟を固めなければならなくなった。桂は『自伝』の中で次のように述べている。

 予は最初より露国と戦わざるを得ざる決心をなし居れり、其故は、抑も露国の極東政策たる、従来の極東政策に一歩を進め、東清鉄道を旅順港に延長し、一方支那海を制せんが為要塞を増築し、又日本海を彼が有とせんが為め、朝鮮東海岸より南海岸に手を伸し、現に馬山浦をして彼が軍港になさんとするの政策は早く明白のみならず、彼れ一度東清鉄道を南満洲に通し旅順港に延長せば、必ずや朝鮮は自衛上略収せざるべからざるは当然の要求なり、如何となれば、彼れ朝鮮を取て我にのぞめば、我は日本海を失い、対馬海峡を把握し能わざるは勿論、南北に延長せる島帝国の領土は腹背敵を受け、啻(*ただ)に自ら防御は勿論、国家の生存上、独立を保ち得ざること、論者を俟たずして明らかなり、又露国にして朝鮮を失わんか、彼は哈爾濱(*ハルビン)・旅順間の連絡を保つのは不可能なり、其の故は、我が鴨緑江を越え、彼の側面を攻撃せば、南北の連絡は一朝にして失い、彼の目的を達し得ざるのみならず、極東政策の根本も翻さざる可からざるに至らん、右の如く論じ来れば、彼には是非朝鮮を略取するの必要あり、我に於ても亦彼れに朝鮮を譲ること能わざるの理由あり、到底談判を開始せんとせば、戦は最初に於て決心し置かざるべからず。・・・(坂田吉雄著「天皇親政」(思文閣出版1984年刊)252~253頁より。*裕鴻註記)

 このような情勢分析こそ「地政学的分析」なのです。日清戦争後の露独仏による三国干渉(明治28(1895)年4月)により、日本が清国に返還した遼東半島をロシアが租借(明治31(1898)年5月)して、特に重要な海軍基地となる旅順港を入手する一方で、明治29(1896)年2月の「露館播遷(ろかんはせん)」により李氏朝鮮王朝の高宗とその世子純宗は、しばらく漢城のロシア公使館内に身を寄せて親露的政策を採り、それ以降ロシアは、明治29(1896)年6月の露清密約や明治33(1900)年11月の第二次露清密約により、ロシア軍の満洲駐留権や東清鉄道(のちの中東鉄道)の敷設権を得て、満洲全域の鉄道(つまりは兵站)、行政、軍事を支配下に置きます。こうして着々とロシアの南下政策は実を結び、まさに満洲からさらに朝鮮半島に至る情勢となって上記の桂首相の見解に至るのです。ロシアは明治27(1894)年の日清戦争前、既に朝鮮半島東岸の永興湾(元山)占有を当時の朝鮮王朝に働きかけていました。この時は同じく朝鮮の巨文島を占領した英国とロシアとの角遂の状況下にあって、当時朝鮮の宗主国であった清国宰相の李鴻章が英露間を調整し、明治20(1887)年3月に英艦隊の巨文島撤退を実現させると共に、ロシアの永興湾(元山)租借を断念させました。しかし日清戦争で清国は朝鮮の宗主国ではなくなったために、ロシアは着々と再度の朝鮮半島支配に乗り出そうとしていました。もしも朝鮮半島南端までが大国ロシアの支配下となれば、日本はわき腹に匕首を突き付けられたのも同然の情勢となってしまい、国の独立さえも脅かされる状況となる深刻な危機感を抱きます。ここに日露戦争が発生する根本要因が存在するのです。

 満洲にしても朝鮮にしても、確かにそこに住む人々からすれば他国の軍隊が勝手に入ってきて戦うという事態そのものが現代的感覚からすればあり得ないレベルでの異常なのですが、当時の世界情勢の中ではまことにやむを得ない状況だったのです。そもそも超大国の大清帝国が天保11~13(1840~1842)年の阿片戦争以来、その度重なる敗戦や失政により次々と西洋列強による租借地を広げている危機的情況のなかで、永らく「華夷秩序」における冊封関係に従属してきた李氏朝鮮の行く末を憂慮した明治日本は、朝鮮の開国と近代化を促すことにより、日本と連携して西洋列強の侵略を防ごうと焦慮していたのです。しかし幕末維新を経て文明開化と殖産興業による富国強兵で国の独立を護ろうとした明治日本とは異なり、より儒教社会の規範性が強くまた守旧の意識が強い両班(ヤンバン)という貴族階層の勢力が強かった李氏朝鮮王朝では、こうした独立開化や近代化への障碍と抵抗が極めて強かったのです。そこに朝鮮の悲劇の大きな要因があるのではと思われます。

 当時の李氏朝鮮王朝では、第26代国王高宗の父君である大院君(興宣大院君)が摂政として文久3(1863)年から朝廷を支配していました。もちろん歴史上の人物は、毀誉褒貶を免れず、大院君についても様々な批判はあるでしょう。しかしわたくしは、大院君の根本的な姿勢から拝察するに、この方ご自身としては、気骨のある大変立派な人物であったと思っています。日本でいう「尊王攘夷」にも通ずる「衛正斥邪」という実質的な意味での王政復古と徹底した鎖国攘夷を図り、腐敗した両班による官僚政治からの脱却としての摂政大院君による親政の体制を敷き、税制財政を整理し貪官汚吏を粛正しました。より具体的には、朱子学に基づく「華夷秩序」を守るという基盤を更に発展させて儒教王政を強化し、反西洋・親中国の「衛正斥邪」という鎖国攘夷政策を執り、キリスト教布教を弾圧し(丙寅教獄:1866年)、フランス艦隊(丙寅洋擾:1866年)やアメリカ艦隊(辛未洋擾:1871年)とも戦い局地的な勝利を得て追い返したことで、益々攘夷の姿勢を硬化し、開国や近代化を勧める日本に対しても「倭洋一体」とする西洋諸国との同一視のもとに、強硬な姿勢を崩しませんでした。西洋近代文明を否定・排斥して、鎖国政策による旧来の儒教的支配体制を守り堅持しようとした大院君からすれば、日本は「夷狄に化した」として、明治新政府の外交文書の受け取りを拒否し、これが日本国内では所謂「征韓論」論争から明治6(1873)年の政変となり、西郷隆盛や江藤新平、後藤象二郎、副島種臣、板垣退助などが下野して、後の西南戦争(明治10(1877)年)へとつながってゆくことになります。この時代の大院君は「親清国、反西洋・反日本」です。

 一方でその後の李氏朝鮮王朝では、慶応2(1866)年に王妃となった閔妃(高宗の后)が、明治6(1873)年に大院君を失脚させて国の実権を握り(癸酉政変)、その時々に日本、清国、ロシアに接近し、その大国の力を背景にして対外的にも対内的にも乗り切ろうとするのですが、閔妃は聡明で政治的手腕も持った女性であったという評価の一方で、失政や汚職・腐敗も多く、閔妃自身も巫堂(ムダン)という呪術的宗教儀式に入れ込み、国庫の六倍以上の国費を浪費したといいます。この大院君と閔妃の対立と、朝鮮国内の「守旧派」と「開化派」の争いは、朝鮮半島を取り巻く清国、ロシア、日本などの周辺国の争いと相俟って、不幸なことにこの重大な国家的危機の時代の朝鮮により一層の影を落とすことになります。これらの対立抗争の過程を、以下に年表的に整理しつつ辿って見ましょう。

明治3(1870)年2月 明治政府は外交使節を朝鮮に派遣するも大院君が拒絶

明治6(1873)年10月「明治六年政変」西郷隆盛ら征韓論派が下野

明治6(1873)年12月 大院君が失脚・引退し、閔妃派が政権掌握

明治8(1875)年9月「江華島事件」日本海軍砲艦「雲揚」と朝鮮砲台が交戦

明治9(1876)年2月 日朝間の丙子修好条規(江華島条約)締結、「朝鮮開国」同年より、閔妃政権は日本に三次に亘る修信使を派遣し、開化政策を推進

明治14(1881)年 漢城(現ソウル)に日本公使館開設

明治14(1881)年 閔妃が率いる朝鮮王朝は、統理機務衙門(近代的行政機関)と別技軍(近代軍、教官は日本公使館付武官の堀本礼造陸軍中尉を招請)を設置

明治15(1882)年 米朝修好通商条約締結 (同年、米清間に「商民水陸貿易協定」も締結され、この中で清国は朝鮮の宗主国であることが明記される)

 こうして文久3(1863)年から明治6(1873)年末までの「第一次大院君時代」の10年間は「衛正斥邪」による鎖国攘夷政策でしたが、明治7(1874)年から明治15(1882)年6月までの8年間は「第一次閔妃時代」となって開国開化政策となります。この時代の閔妃はむしろ「親日本」であったとも言えるのです。しかし、ここでまた大院君への短期間の政権交代が生じます。

 明治15(1882)年7月、二千数百名いた旧式軍への俸禄米の遅配や不正供給への不満から旧式軍兵士による「壬午の軍乱」が発生、閔妃政権に不満を持つ民衆の一部も暴徒となって8日間に亘る騒擾となります。この背景には大院君派の活動家も暗躍していました。反乱を起こした旧式軍兵士たちは、優遇されていた別技軍兵舎を襲い、日本人教官の堀本中尉も殺害。また日本公使館を襲撃したため、花房義資公使以下は応戦しつつ脱出、2名が殺害されましたが残る26名は済物浦(仁川港)から小型ジャンクで逃れ、沖合に停泊中の英国海軍測量艦フライング・フィッシュ号に救助されます。実は閔妃は日本の花房公使に対し、公使館が襲撃されるとの警告を事前に伝えてくれていました。そのことからも当時は「親日的」であったと言えましょう。一方、宮殿では反乱兵が閔妃を殺害しようとしますが、女官の一人が身代わりとなって服毒自害した隙に、閔妃は宮殿を脱出して忠州の田舎に隠棲しました。この騒擾を利用して、大院君は国王高宗から事態収拾の命を受けて宮廷での復権を果たし、閔妃政権が進めていた近代化政策を覆し、統理機務衙門を廃止、衛正斥邪政策に戻します。この時大院君側近が要職に就き、反対勢力の数百名が殺されたともいいます。しかしこの体制も長くは続きませんでした。この時の大院君はもちろん「反日的」です。

 もともと江華島条約により朝鮮に入った日本商人たちが大量に青田買いを行ったため朝鮮の米価が暴騰し、貧困層の民衆には広く日本に対する反感や不満が募っていたため、「壬午の軍乱」で日本公使館が焼討ちされる事態となってしまったのですが、花房公使以下が逃げ帰った日本では朝野がこれに憤激して、花房公使に800名の護衛兵をつけて朝鮮に帰任させ、その他に軍艦4隻と1500名の軍隊を同行させます。一方で、朝鮮国の宗主国を以って任ずる清国は、天津訪問中の朝鮮の開化派官僚、金允植・魚允中に意見を求め、大院君の復古路線に反対する二人の清国軍派遣による介入要望を受けて、李鴻章宰相の腹心、馬建忠が同行する軍艦3隻と軍隊3000名を派遣します。委細は省略しますが、この結果、馬建忠は花房公使と朝鮮政府との調停を行う一方で、大院君を拉致し、清国軍艦に乗せて清国の保定で監禁してしまいます。日本政府は明治15(1882)年8月末に「済物浦条約」を締結し、日朝の紛争事態は収束しますが、その一方で清国も「清国朝鮮商民水陸貿易章程」を締結し、おおらかさを伴っていた「華夷秩序」の冊封体制から、清国を宗主国とする明確な属国扱いとなり、清国軍隊が常駐し、朝鮮政府内に清国顧問を置いて内政、外交、軍事を支配する体制を固めました。首都漢城(現ソウル)を制圧した3000名の清国軍隊の弾圧は過酷で「百名以上にものぼる人たちを捕え、あらゆるおとしめを加えて彼らを処刑し、その切りさいなまれた首は城壁に、死体は犬の餌にと糞塊の中に、これを投げ捨てたのであった」(F・A・マッケンジー『朝鮮の悲劇』渡部学訳より。永沢道雄著「日本人はどこで歴史を誤ったのか」2011年刊光人社NF文庫、42頁に引用記載のもの)と記述されています。これは日本軍兵士による蛮行虐殺ではなく、あくまで当時の清国軍(中国軍)兵士によるものであることは銘記すべきです。片や首都漢城の日本公使館警備のために常駐した日本軍200名は、この時期は行儀良く振舞っていました。

 重要なのは、この時点以降の朝鮮国は実質的に独立国ではなくなり清国の属国となってしまったことです。朝鮮政府内では、大院君の衛正斥邪派は没落し、清国派遣政府顧問の馬建常(馬建忠の兄)と清朝お雇いドイツ人メルレンドルフのもと、宮殿に戻ってきた閔妃を囲む「守旧派」が主流となり、その中でも清国の力を頼む「事大党」(じだいとう「小(朝鮮)を以て大(清国)に事(つか)える」の意)と、漸進的な改良主義を旨とする一派に分かれます。その一方で、「守旧派」と対立する「開化派」の「独立党」は、清国の影響を脱して近代化することを目指し日本を頼るのです。こうした朝鮮国内の各勢力の内部抗争が、代表者としての「大院君と閔妃」という対立軸と、外国の後ろ盾としての「清国対日本」、そして日清戦争後は「ロシア対日本」という外国勢力との結びつきをもう一方の対立軸として、その順列組合せが様々に変貌するのです。

 この後、明治16(1874)年に、朝鮮と英、独、伊、露、仏の各国とで修好通商の条約が締結され、明治18(1885)年には李鴻章の計らいで袁世凱の護送により大院君が帰国し蟄居の身となります。そして「第二次閔妃時代」は明治15(1882)年8月から明治17(1884)年12月までの約2年間続きます。この時代の閔妃は「親清国、反日本」で、同時に上述したように巫堂(ムダン)という呪術的宗教儀式に入れ込み、国庫の六倍以上の国費を浪費して財政難に陥り、清国派遣政府独人顧問のメルレンドルフ献策による悪貨鋳造が経済混乱に追い打ちをかけます。そこで「開化派」の若手官僚である金玉均や朴泳孝ら「独立党」は、竹添進一郎日本公使の支援を得てクーデターを計画、明治17(1884)年12月4日夜に実行したのが「甲申事変」です。閔氏政権の大物を殺害し、高宗と閔妃は身柄を昌徳宮から景祐宮に一旦移され、「独立党」は新綱領を発表、「清国への朝貢の廃止、門閥の根絶と人民の平等の権利、人材の登用、宦官の廃止、地租法の改革、警察制度の整備、特権商人の廃止、軍制の改革など」の十四項目は自由民権思想に貫かれたものでした。しかし新政府の武力は、朝鮮人士官候補生7名を中心とする李朝軍隊約400名の少数兵力と250名の日本軍のみであったので、閔妃の密かな救援要請を受ける形で、駐留していた千数百名の清国軍が動き王宮を攻撃、新政府側は寡兵よく戦うも竹添公使以下は撤退を決意して、仁川の日本領事館を経て日本船「千歳丸」に乗船し日本に脱出しました。この時、金玉均らに冷たく対応した竹添公使をよそに千歳丸の辻勝三郎船長は金玉均らの引き渡しを断固拒否して日本に亡命させました。しかし表向き日本政府はクーデターの後援を否定し、日本軍は国王守護に出動したのみだとする立場から、日本はその後は彼らを厄介者扱いして小笠原や北海道に送り、それから十年を経た明治27(1894)年に上海に渡った金玉均は、朝鮮政府の放った刺客に射殺され、遺体は清国軍艦で漢城に運ばれて、閔氏政権は「大逆不道」の罪人として遺体を八つ裂きにした上で街頭に晒し、彼の実父も絞首刑に処せられました。私見としては、日本政府は断固としてこの開化派の金玉均ほかのメンバーを擁護し、適切な時機に彼らをして朝鮮国の自らの手による近代化を支援すべきであったと思います。それをしなかったことが、今日にまで至る日韓関係の澱を招いたのではないでしょうか。こういう時こそ「国家百年の計」が必要であり、日本を頼っていた朝鮮の若き開化派の人々をもっと大切にするべきだったのです。一方の閔妃は、清国軍営へと王宮から脱出した後、また政権に復帰しますが、一旦清国軍に頼った以上は残った「守旧派」の閔妃政権にはもはや自立・独立の道はなく、朝鮮半島は清国、日本、英国、ロシアの地政学的勢力争いの舞台と化してしまいました。決して日本のみが武力で朝鮮を脅かしたのではなかったのが、この時期の歴史的事実なのです。(今回はここまで)

 

の地政学と甲申事変

テーマ:
 

 隣り合ったお国とお国、民族と民族の問題は、古今東西を問わず誠に難しいものです。「遠交近攻」は兵法三十六計の第二十三計にあり、地理的に遠い国とは親交を結び、近接する国を攻めるという二千数百年前の古代中国の戦術です。例えば西洋の歴史でも、イギリスとフランス、フランスとドイツ、イギリスとアイルランドなど近隣国同士の戦争や紛争の歴史があるように、隣国であるから親交があってずっと仲が良かったというわけでは必ずしもないのです。むしろ隣国であるがゆえに、国境紛争をはじめ何かと争いになるタネは多いのが実情です。日本にとってのもっとも地理的に近い隣国は韓国・北朝鮮や台湾、そして中国とロシアであり、地形的には朝鮮半島が日本の九州や山陰に突出して近接する形状になっています。海から日本を攻める以外に陸続きの延長線上で日本に侵入するとすれば、北は樺太や千島列島からのラインと、南は朝鮮半島からのラインが近いので、特にユーラシア大陸の地続きである朝鮮半島は、大陸方面から日本を攻める地理的拠点としては重要です。こういう地理的な形状を、国際政治面、経済面、軍事面での関連に注目して巨視的に捉えるのが地政学(Geopolitics)という分野です。日本ではナチスドイツとともに戦前に流行した関係で戦後は忌避されてきましたが、最近また注目されるようになりました。もちろん現代のイギリスやアメリカでも研究されているので、何らかの思想的偏向と見てこの地政学的研究領域を忌避すべきではなく、むしろ現代日本にとってはリアリズムに基づいた地政学的分析が必要となっていると思われます。これは日本を取り巻く直近のアジア領域のみならず、環太平洋や、インド洋、中近東など、世界中の国際関係状況を読み解くための必須の重要なツールなのです。

 さて、最近は日韓関係の悪化から、特に右寄りの人々の間では嫌韓論が盛んですが、今から約二年前に書いた本ブログの「高度な平凡性から見る韓国疲れ(Korea Fatigue)」(2019年3月2日付 https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12443985437.html ) でも取り上げたことがある通り、こういう時こそ「日本にとっての本当の国益」について、今一度「冷静な賢慮かつ冷徹なリアリズムの視点」から考えなければならないと思います。明治時代、帝政ロシアの議会(Duma)召集(明治38(1905)年8月)に先駆けて、近代的議会を開設した日本では、明治23(1890)年12月に開催された第一回帝国議会における山縣有朋首相の施政方針演説の中で、当時の用語で「主権線の守備」から「利益線の保護」に向かわねばならないという趣旨の発言があります。要は、日本の国境線という物理的かつ地理的な「主権線」を守るだけでは、本当に日本を守ることはできない。当時の「利益線」という用語は、後の「日本の生命線」という言葉に連なってゆく「地政学的な概念」としての、言わば「間接的な接続領域・緩衝地帯を含む防衛線」を意味していました。つまりは明治時代でさえ、もはや国境線の守備である狭義の専守防衛だけでは日本を守れず、地政学的な緩衝地帯・接続領域を含む国家としての生命線を攻勢防御しなければならないという考え方があったということです。その意味での日本の「生命線」とは朝鮮半島だったのです。そして明治時代も令和時代も日本列島と朝鮮半島の地理的位置関係は全く変わっていません。山縣有朋公爵(元帥陸軍大将)の後を継いで帝国陸軍と帝国政府を率いた桂太郎公爵(陸軍大将)が、日露戦争開戦時にどのように朝鮮半島を捉えていたかを、ここで少し見てみましょう。やはり本ブログの別シリーズ「なぜ日本はアメリカと戦争したのか(68)明治期の政府・統帥部の首脳と『天皇親政』」でも取り上げた次の部分です。(2019年5月8日付https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12459787258.html ) 

・・・政府は早速ロシアとの間に談判を開始したが、予想通り、「朝鮮は其の一部たりとも、如何なる事情あるに関せず、之を露国に譲歩せざること」という目的を達成する見込みは立たず、いよいよ日露開戦の覚悟を固めなければならなくなった。桂は『自伝』の中で次のように述べている。

 予は最初より露国と戦わざるを得ざる決心をなし居れり、其故は、抑も露国の極東政策たる、従来の極東政策に一歩を進め、東清鉄道を旅順港に延長し、一方支那海を制せんが為要塞を増築し、又日本海を彼が有とせんが為め、朝鮮東海岸より南海岸に手を伸し、現に馬山浦をして彼が軍港になさんとするの政策は早く明白のみならず、彼れ一度東清鉄道を南満洲に通し旅順港に延長せば、必ずや朝鮮は自衛上略収せざるべからざるは当然の要求なり、如何となれば、彼れ朝鮮を取て我にのぞめば、我は日本海を失い、対馬海峡を把握し能わざるは勿論、南北に延長せる島帝国の領土は腹背敵を受け、啻(*ただ)に自ら防御は勿論、国家の生存上、独立を保ち得ざること、論者を俟たずして明らかなり、又露国にして朝鮮を失わんか、彼は哈爾濱(*ハルビン)・旅順間の連絡を保つのは不可能なり、其の故は、我が鴨緑江を越え、彼の側面を攻撃せば、南北の連絡は一朝にして失い、彼の目的を達し得ざるのみならず、極東政策の根本も翻さざる可からざるに至らん、右の如く論じ来れば、彼には是非朝鮮を略取するの必要あり、我に於ても亦彼れに朝鮮を譲ること能わざるの理由あり、到底談判を開始せんとせば、戦は最初に於て決心し置かざるべからず。・・・(坂田吉雄著「天皇親政」(思文閣出版1984年刊)252~253頁より。*裕鴻註記)

 このような情勢分析こそ「地政学的分析」なのです。日清戦争後の露独仏による三国干渉(明治28(1895)年4月)により、日本が清国に返還した遼東半島をロシアが租借(明治31(1898)年5月)して、特に重要な海軍基地となる旅順港を入手する一方で、明治29(1896)年2月の「露館播遷(ろかんはせん)」により李氏朝鮮王朝の高宗とその世子純宗は、しばらく漢城のロシア公使館内に身を寄せて親露的政策を採り、それ以降ロシアは、明治29(1896)年6月の露清密約や明治33(1900)年11月の第二次露清密約により、ロシア軍の満洲駐留権や東清鉄道(のちの中東鉄道)の敷設権を得て、満洲全域の鉄道(つまりは兵站)、行政、軍事を支配下に置きます。こうして着々とロシアの南下政策は実を結び、まさに満洲からさらに朝鮮半島に至る情勢となって上記の桂首相の見解に至るのです。ロシアは明治27(1894)年の日清戦争前、既に朝鮮半島東岸の永興湾(元山)占有を当時の朝鮮王朝に働きかけていました。この時は同じく朝鮮の巨文島を占領した英国とロシアとの角遂の状況下にあって、当時朝鮮の宗主国であった清国宰相の李鴻章が英露間を調整し、明治20(1887)年3月に英艦隊の巨文島撤退を実現させると共に、ロシアの永興湾(元山)租借を断念させました。しかし日清戦争で清国は朝鮮の宗主国ではなくなったために、ロシアは着々と再度の朝鮮半島支配に乗り出そうとしていました。もしも朝鮮半島南端までが大国ロシアの支配下となれば、日本はわき腹に匕首を突き付けられたのも同然の情勢となってしまい、国の独立さえも脅かされる状況となる深刻な危機感を抱きます。ここに日露戦争が発生する根本要因が存在するのです。

 満洲にしても朝鮮にしても、確かにそこに住む人々からすれば他国の軍隊が勝手に入ってきて戦うという事態そのものが現代的感覚からすればあり得ないレベルでの異常なのですが、当時の世界情勢の中ではまことにやむを得ない状況だったのです。そもそも超大国の大清帝国が天保11~13(1840~1842)年の阿片戦争以来、その度重なる敗戦や失政により次々と西洋列強による租借地を広げている危機的情況のなかで、永らく「華夷秩序」における冊封関係に従属してきた李氏朝鮮の行く末を憂慮した明治日本は、朝鮮の開国と近代化を促すことにより、日本と連携して西洋列強の侵略を防ごうと焦慮していたのです。しかし幕末維新を経て文明開化と殖産興業による富国強兵で国の独立を護ろうとした明治日本とは異なり、より儒教社会の規範性が強くまた守旧の意識が強い両班(ヤンバン)という貴族階層の勢力が強かった李氏朝鮮王朝では、こうした独立開化や近代化への障碍と抵抗が極めて強かったのです。そこに朝鮮の悲劇の大きな要因があるのではと思われます。

 当時の李氏朝鮮王朝では、第26代国王高宗の父君である大院君(興宣大院君)が摂政として文久3(1863)年から朝廷を支配していました。もちろん歴史上の人物は、毀誉褒貶を免れず、大院君についても様々な批判はあるでしょう。しかしわたくしは、大院君の根本的な姿勢から拝察するに、この方ご自身としては、気骨のある大変立派な人物であったと思っています。日本でいう「尊王攘夷」にも通ずる「衛正斥邪」という実質的な意味での王政復古と徹底した鎖国攘夷を図り、腐敗した両班による官僚政治からの脱却としての摂政大院君による親政の体制を敷き、税制財政を整理し貪官汚吏を粛正しました。より具体的には、朱子学に基づく「華夷秩序」を守るという基盤を更に発展させて儒教王政を強化し、反西洋・親中国の「衛正斥邪」という鎖国攘夷政策を執り、キリスト教布教を弾圧し(丙寅教獄:1866年)、フランス艦隊(丙寅洋擾:1866年)やアメリカ艦隊(辛未洋擾:1871年)とも戦い局地的な勝利を得て追い返したことで、益々攘夷の姿勢を硬化し、開国や近代化を勧める日本に対しても「倭洋一体」とする西洋諸国との同一視のもとに、強硬な姿勢を崩しませんでした。西洋近代文明を否定・排斥して、鎖国政策による旧来の儒教的支配体制を守り堅持しようとした大院君からすれば、日本は「夷狄に化した」として、明治新政府の外交文書の受け取りを拒否し、これが日本国内では所謂「征韓論」論争から明治6(1873)年の政変となり、西郷隆盛や江藤新平、後藤象二郎、副島種臣、板垣退助などが下野して、後の西南戦争(明治10(1877)年)へとつながってゆくことになります。この時代の大院君は「親清国、反西洋・反日本」です。

 一方でその後の李氏朝鮮王朝では、慶応2(1866)年に王妃となった閔妃(高宗の后)が、明治6(1873)年に大院君を失脚させて国の実権を握り(癸酉政変)、その時々に日本、清国、ロシアに接近し、その大国の力を背景にして対外的にも対内的にも乗り切ろうとするのですが、閔妃は聡明で政治的手腕も持った女性であったという評価の一方で、失政や汚職・腐敗も多く、閔妃自身も巫堂(ムダン)という呪術的宗教儀式に入れ込み、国庫の六倍以上の国費を浪費したといいます。この大院君と閔妃の対立と、朝鮮国内の「守旧派」と「開化派」の争いは、朝鮮半島を取り巻く清国、ロシア、日本などの周辺国の争いと相俟って、不幸なことにこの重大な国家的危機の時代の朝鮮により一層の影を落とすことになります。これらの対立抗争の過程を、以下に年表的に整理しつつ辿って見ましょう。

明治3(1870)年2月 明治政府は外交使節を朝鮮に派遣するも大院君が拒絶

明治6(1873)年10月「明治六年政変」西郷隆盛ら征韓論派が下野

明治6(1873)年12月 大院君が失脚・引退し、閔妃派が政権掌握

明治8(1875)年9月「江華島事件」日本海軍砲艦「雲揚」と朝鮮砲台が交戦

明治9(1876)年2月 日朝間の丙子修好条規(江華島条約)締結、「朝鮮開国」同年より、閔妃政権は日本に三次に亘る修信使を派遣し、開化政策を推進

明治14(1881)年 漢城(現ソウル)に日本公使館開設

明治14(1881)年 閔妃が率いる朝鮮王朝は、統理機務衙門(近代的行政機関)と別技軍(近代軍、教官は日本公使館付武官の堀本礼造陸軍中尉を招請)を設置

明治15(1882)年 米朝修好通商条約締結 (同年、米清間に「商民水陸貿易協定」も締結され、この中で清国は朝鮮の宗主国であることが明記される)

 こうして文久3(1863)年から明治6(1873)年末までの「第一次大院君時代」の10年間は「衛正斥邪」による鎖国攘夷政策でしたが、明治7(1874)年から明治15(1882)年6月までの8年間は「第一次閔妃時代」となって開国開化政策となります。この時代の閔妃はむしろ「親日本」であったとも言えるのです。しかし、ここでまた大院君への短期間の政権交代が生じます。

 明治15(1882)年7月、二千数百名いた旧式軍への俸禄米の遅配や不正供給への不満から旧式軍兵士による「壬午の軍乱」が発生、閔妃政権に不満を持つ民衆の一部も暴徒となって8日間に亘る騒擾となります。この背景には大院君派の活動家も暗躍していました。反乱を起こした旧式軍兵士たちは、優遇されていた別技軍兵舎を襲い、日本人教官の堀本中尉も殺害。また日本公使館を襲撃したため、花房義資公使以下は応戦しつつ脱出、2名が殺害されましたが残る26名は済物浦(仁川港)から小型ジャンクで逃れ、沖合に停泊中の英国海軍測量艦フライング・フィッシュ号に救助されます。実は閔妃は日本の花房公使に対し、公使館が襲撃されるとの警告を事前に伝えてくれていました。そのことからも当時は「親日的」であったと言えましょう。一方、宮殿では反乱兵が閔妃を殺害しようとしますが、女官の一人が身代わりとなって服毒自害した隙に、閔妃は宮殿を脱出して忠州の田舎に隠棲しました。この騒擾を利用して、大院君は国王高宗から事態収拾の命を受けて宮廷での復権を果たし、閔妃政権が進めていた近代化政策を覆し、統理機務衙門を廃止、衛正斥邪政策に戻します。この時大院君側近が要職に就き、反対勢力の数百名が殺されたともいいます。しかしこの体制も長くは続きませんでした。この時の大院君はもちろん「反日的」です。

 もともと江華島条約により朝鮮に入った日本商人たちが大量に青田買いを行ったため朝鮮の米価が暴騰し、貧困層の民衆には広く日本に対する反感や不満が募っていたため、「壬午の軍乱」で日本公使館が焼討ちされる事態となってしまったのですが、花房公使以下が逃げ帰った日本では朝野がこれに憤激して、花房公使に800名の護衛兵をつけて朝鮮に帰任させ、その他に軍艦4隻と1500名の軍隊を同行させます。一方で、朝鮮国の宗主国を以って任ずる清国は、天津訪問中の朝鮮の開化派官僚、金允植・魚允中に意見を求め、大院君の復古路線に反対する二人の清国軍派遣による介入要望を受けて、李鴻章宰相の腹心、馬建忠が同行する軍艦3隻と軍隊3000名を派遣します。委細は省略しますが、この結果、馬建忠は花房公使と朝鮮政府との調停を行う一方で、大院君を拉致し、清国軍艦に乗せて清国の保定で監禁してしまいます。日本政府は明治15(1882)年8月末に「済物浦条約」を締結し、日朝の紛争事態は収束しますが、その一方で清国も「清国朝鮮商民水陸貿易章程」を締結し、おおらかさを伴っていた「華夷秩序」の冊封体制から、清国を宗主国とする明確な属国扱いとなり、清国軍隊が常駐し、朝鮮政府内に清国顧問を置いて内政、外交、軍事を支配する体制を固めました。首都漢城(現ソウル)を制圧した3000名の清国軍隊の弾圧は過酷で「百名以上にものぼる人たちを捕え、あらゆるおとしめを加えて彼らを処刑し、その切りさいなまれた首は城壁に、死体は犬の餌にと糞塊の中に、これを投げ捨てたのであった」(F・A・マッケンジー『朝鮮の悲劇』渡部学訳より。永沢道雄著「日本人はどこで歴史を誤ったのか」2011年刊光人社NF文庫、42頁に引用記載のもの)と記述されています。これは日本軍兵士による蛮行虐殺ではなく、あくまで当時の清国軍(中国軍)兵士によるものであることは銘記すべきです。片や首都漢城の日本公使館警備のために常駐した日本軍200名は、この時期は行儀良く振舞っていました。

 重要なのは、この時点以降の朝鮮国は実質的に独立国ではなくなり清国の属国となってしまったことです。朝鮮政府内では、大院君の衛正斥邪派は没落し、清国派遣政府顧問の馬建常(馬建忠の兄)と清朝お雇いドイツ人メルレンドルフのもと、宮殿に戻ってきた閔妃を囲む「守旧派」が主流となり、その中でも清国の力を頼む「事大党」(じだいとう「小(朝鮮)を以て大(清国)に事(つか)える」の意)と、漸進的な改良主義を旨とする一派に分かれます。その一方で、「守旧派」と対立する「開化派」の「独立党」は、清国の影響を脱して近代化することを目指し日本を頼るのです。こうした朝鮮国内の各勢力の内部抗争が、代表者としての「大院君と閔妃」という対立軸と、外国の後ろ盾としての「清国対日本」、そして日清戦争後は「ロシア対日本」という外国勢力との結びつきをもう一方の対立軸として、その順列組合せが様々に変貌するのです。

 この後、明治16(1874)年に、朝鮮と英、独、伊、露、仏の各国とで修好通商の条約が締結され、明治18(1885)年には李鴻章の計らいで袁世凱の護送により大院君が帰国し蟄居の身となります。そして「第二次閔妃時代」は明治15(1882)年8月から明治17(1884)年12月までの約2年間続きます。この時代の閔妃は「親清国、反日本」で、同時に上述したように巫堂(ムダン)という呪術的宗教儀式に入れ込み、国庫の六倍以上の国費を浪費して財政難に陥り、清国派遣政府独人顧問のメルレンドルフ献策による悪貨鋳造が経済混乱に追い打ちをかけます。そこで「開化派」の若手官僚である金玉均や朴泳孝ら「独立党」は、竹添進一郎日本公使の支援を得てクーデターを計画、明治17(1884)年12月4日夜に実行したのが「甲申事変」です。閔氏政権の大物を殺害し、高宗と閔妃は身柄を昌徳宮から景祐宮に一旦移され、「独立党」は新綱領を発表、「清国への朝貢の廃止、門閥の根絶と人民の平等の権利、人材の登用、宦官の廃止、地租法の改革、警察制度の整備、特権商人の廃止、軍制の改革など」の十四項目は自由民権思想に貫かれたものでした。しかし新政府の武力は、朝鮮人士官候補生7名を中心とする李朝軍隊約400名の少数兵力と250名の日本軍のみであったので、閔妃の密かな救援要請を受ける形で、駐留していた千数百名の清国軍が動き王宮を攻撃、新政府側は寡兵よく戦うも竹添公使以下は撤退を決意して、仁川の日本領事館を経て日本船「千歳丸」に乗船し日本に脱出しました。この時、金玉均らに冷たく対応した竹添公使をよそに千歳丸の辻勝三郎船長は金玉均らの引き渡しを断固拒否して日本に亡命させました。しかし表向き日本政府はクーデターの後援を否定し、日本軍は国王守護に出動したのみだとする立場から、日本はその後は彼らを厄介者扱いして小笠原や北海道に送り、それから十年を経た明治27(1894)年に上海に渡った金玉均は、朝鮮政府の放った刺客に射殺され、遺体は清国軍艦で漢城に運ばれて、閔氏政権は「大逆不道」の罪人として遺体を八つ裂きにした上で街頭に晒し、彼の実父も絞首刑に処せられました。私見としては、日本政府は断固としてこの開化派の金玉均ほかのメンバーを擁護し、適切な時機に彼らをして朝鮮国の自らの手による近代化を支援すべきであったと思います。それをしなかったことが、今日にまで至る日韓関係の澱を招いたのではないでしょうか。こういう時こそ「国家百年の計」が必要であり、日本を頼っていた朝鮮の若き開化派の人々をもっと大切にするべきだったのです。一方の閔妃は、清国軍営へと王宮から脱出した後、また政権に復帰しますが、一旦清国軍に頼った以上は残った「守旧派」の閔妃政権にはもはや自立・独立の道はなく、朝鮮半島は清国、日本、英国、ロシアの地政学的勢力争いの舞台と化してしまいました。決して日本のみが武力で朝鮮を脅かしたのではなかったのが、この時期の歴史的事実なのです。(今回はここまで)

 

慶応・小泉信三塾長、戦場帰還学徒元士官に「私は諸君の命の代わりになる準備がある」

2021-02-15 18:34:15 | 日記
 

以下は戦後の大学再開に際し、慶応義塾大学へ入学された森口幸雄医学博士の手記の引用です。

 

 東京帝大学長を筆頭に手の平を返したように戦場帰還学徒元士官に「戦争犠牲者」と断じた昭和20年秋にあって、小泉塾長だけは「君らを誇りに思う」「戦犯にかけられる学生がいれば私が処刑される」とこう発言されておられたのです。

以下少し長くなりますが、森口医博の全文を紹介します

(私のみが所蔵するのは勿体ないと思ったからです)。

「昭和20年9月から東大、京大、早稲田と各大学が再開、それぞれの学長のスピーチが新聞やラジオで紹介された。

何処の学長も手のひらを返したように生還復学した学生に、『諸君は気の毒だった。軍国主義の犠牲となった。早くそれを忘れて学業に精進するように』という趣旨だった。それならそうと何故あのとき(1943年10月21日、出陣学徒壮行会)そう言わなかったかと思った。

 そして慶応義塾が再開した。私は、小泉塾長も同様な発言をされるかと思いきや他の学長らとは真逆の話を始めた。以下3点である。

1.私は諸君に心から敬意を表します。2年前に私は『最高の価値は祖国のために命を捧げることだ』といった。その私の言葉に従って君たちは勇躍出征してくれた。これに対して賞賛し感謝する。

2.戦争に負けたことは問題ではない。ヨーロッパでは何度も戦争に勝ち負けしている。日本は負けた経験がないので大きなショックを受けているが(諸君らが)祖国の為に命を捧げる用意があったということを、一生の誇りとしてもらいたい。

こんな素晴らしい事実はない。

祖国とは何ですか、貴方たちの愛する両親、兄弟、友達が住んでいるところです。

それを守るために命を捧げることができた。この誇りは戦争に負けた事とは全然関係ない。

3.戦勝国はポツダム宣言に従って戦争犯罪者のための軍事裁判を開くだろう。そして君たちの部下の兵隊がやったことについて責任を取らされ終身刑になったり銃殺刑になるかも知れない。

そのとき裁判官に次のように言ってもらいたい。「戦場に行けと小泉塾長に言われたので戦争にいった。責任は私たちにはない。責任は小泉塾長にあると言ってもらいたい。君たちの代わりに小泉は諸君のため諸君の代わりに銃殺刑のその場所に立つだろう。私は諸君の命の代わりになる準備がある」

その瞬間、みなわっと泣きました。私も声を出して泣きました。

私的には戦争でひとり息子さんを24歳のわかさで亡くし(小泉信吉海軍大尉)、失意の下におありでしたが日本人としての誇りをうしなわず、私たちを抱き込んでくださったこの訓示を71年経た今も昨日のように思い出されます。

この日以来、医師になるために慶応に入った私でしたが、慶応生である事に誇りを持ちました。

 

(織田 邦男氏のFacebook発言から転載)