沖縄では、
先の沖縄知事選挙でもそうでしたが、あらゆる選挙において、いかに立派な「反米軍基地」の姿勢を示すことができるか、だけが大切で、中国を話題にすることは、まずありません。
基地問題だけで代表者を選ぼうとするのが当たり前になっており、長い間ずっと、基地問題以外の論点がないことが「沖縄の停滞に拍車をかけている」とすれば、これは異様なことでした。
基地問題以外の論点がないまま「札束でビンタ」と怒るのが、沖縄の停滞の象徴でしょうか。
沖縄では、中国の不法行為については、述べてはいけません!
沖縄で、もしも中国の不法さに異義を唱えると、米軍基地反対運動の切っ先が鈍る
と考えているように受け取られ、中国の不法行為については見ぬふりをするのが正調沖縄節(笑)。
これが原因となって、
日本の世論は、沖縄の味方をしたいけれども、沖縄自身が中国の属国化を欲しているのではないかという疑いを捨てきれず、沖縄寄りに舵を切り切れないように思えます。
そしてこれを利用するのが
- なんでも反対を貫く日本の「革新」政党たち
- なんとか存続を狙う言論弾圧の中国共産党
これらは共に崩壊寸前ですが、沖縄では支持者が多いらしい。
言い替えると
- 国際問題について判断するのは、沖縄ではなく、日本政府だとして、中国文化の影響が残る沖縄では「反中国論はタブー」らしい
- 沖縄から米軍基地がなくなればどうなるか、についてはあまり考えていないようです。米軍基地を廃止したために中国の軍事暴走を許してしまい、フィリピンは2014年4月に、一旦は追いだした米軍基地を22年ぶりに招聘して対中国の防御態勢に入ったことには関心がない
のではないか、と思われます。
残念なことですが、
沖縄の平和主義・反基地の心が、「悪意ある」中国共産党を増長させる結果をもたらした、のは実に皮肉な結果でした。これはチベットやフィリピンをみれば明らかですね。
非軍事の志向は大切ですが、チベットと同じ運命を歩みつつあるのが沖縄ではないか、という反省の発想は沖縄にはなさそうで、香港でも見られるように、無慈悲な言論弾圧でしか統一を維持しきれない中国社会のいびつさを知らなさすぎるのが、一番中国に近い沖縄だと言ってもいいでしょう。
自由を求める香港、弾圧を求める沖縄、という対比がわかりやすいのかも知れません。
そういえば、沖縄では「反中国が忌避(きひ)」されていて「言論の自由がない」のですが、弾圧を恐れて「反共産党が忌避」される中国にそっくりなのかも知れませんね。
沖縄にこそ、香港と同じような「言論を封じる中国共産党の締め付け」に異義を唱える意見があってもいい、と思われます。
日本全国に流れる沖縄のニュースの多くは
米軍基地問題で沖縄が怒っている、というもので、これが多くの日本人を、「沖縄は反米的だ」と思わせてきました。
しかも大切なのは「沖縄は反米的だ」というのを沖縄の人たちは一笑に付すことでした。「反米軍基地」ではあっても「反米ではない」というのです。
この乖離(かいり)の責任は、どこにあるのでしょうか。
(1)真実を伝えない日本のマスメディアに、責任がある。
(2)まったく中国に触れることなく、米軍基地反対をキャンペーンとして喧伝してきた沖縄のマスメディアにも、重大な責任がある。
と私は考えています。
「なぜ沖縄が日本全体を味方にできなかったか」は、難しい問題ですが・・・・
沖縄のマスメディアの
「全ての沖縄の有権者がそう考えていると思わせるような思い入れの強い記事」を書き続けてきた、つまり無知な沖縄県民を「ご指導・ご鞭撻(べんたつ)」する大切な「洗脳」の役割を演じるという、革新派に共通した尊大さ
が、まず挙げられます。この「尊大さ」は、今はなき社会党などが北朝鮮を正しく見ずにひたすら礼賛していたことへの深刻な反省を思い出させます。
現在みられる沖縄のマスメディアの多くの記事には
両論を併記して読者に選択させる、ことはもとより、多様な意見があることを示して読者に考えさせる、という姿勢さえ
みられず、マスメディア自らが「ある方向で洗脳の先頭」に立って、キャンペーンをはっているのが、どうも気にかかるのです。
つまり狭い地域で、中国に触れない範囲で、いかに巧みにキャンペーンを仕掛けるか、が大切な役割だと考えているようです。
もしも沖縄のマスメディアが
中国の無法さに触れるような記事を書けるような時代が訪れたならば、日本中の世論は沖縄に傾き始めることでしょう。
中国脅威論は、沖縄の住民にもしばしば見られますが、沖縄のマスメディアはこれとは正反対の論調を展開しており、実際の民意とマスメディアのキャンペーンに明かな違いが見られます。
「民意」には
注意が必要で、安易に使うものではなさそうです。
2014/11/16の選挙で新沖縄知事に選ばれたのが翁長(64)ですが、知事選の投票率が64%で、仮に得票率が51%だとすると、
当選した翁長は、0.64x0.51=33% つまり沖縄県の全有権者の33%の賛意を得たに過ぎないため
- 翁長が51%の支持を得たので自分の考えが沖縄の「民意」だとして「反対を示した人たちを無視して暴走する翁長」になるならば、日本全体の民意は与党の方向だとして「沖縄を無視して暴走する自公政府」となんら変りがなくなることになる
- つまり翁長の姿勢が、一番きらっている自公とそっくりの姿勢になっているのではないか
- 確かに1位の翁長は2位の仲井真を10万票離しての当選になりますが、沖縄のマスメディアはこの10万票の差に力点をおいて報道し、51%ほどの得票率だったことには触れたがらないようです。これは「51%の得票率」では、沖縄県民に「翁長が圧勝した」と印象づけられないと沖縄のマスメディアが判断した結果にほかならないからか
と憂える次第です。
これを避けるためには、自分に反対票を投じた人の意見にも耳を貸して、実際の沖縄の民意を引き出すことです。
なぜならば、当選した翁長は、落選した2~4位の合計得票と比較すれば、たった51%と49%であり、2%しかリードしていないのでした。
もしも次のような投票数ならばどうか。
これなら、A候補が得票率で80ポイントも引き離していて、明らかに「圧勝」と言えます。沖縄のマスメディアでなくても、どのマスメディアであれ、そう表現していいでしょう。
私がここで言おうとしているのは、
「10万票の差で圧勝」だったのではなく、得票率では、過半数を超えたものの、実際には全体の51%ほどに過ぎず、落選者の得票率合計49%ほどを2~4%離しただけなのでした。
よって知事に当選した翁長は「圧勝したと喜んで驕り高ぶるのはいけません」ということなのでした(笑)。
民主主義とは、徹底的な議論を尽した後は、投票数の結果に従うことであり、投票数が多かった方が正しかったのではなく、今回はその結果に従う、ということなのでしょう。
そして勝者は、敗者の意見を吸い上げることによって、真の勝者となるのです。
選挙とは、善悪を決めるものではない、現在の支持者数を競う、つまり勝敗を決めることなのですね。善悪と勝敗とを区別することも大切なのでした。
これが真の民主主義かも知れません。
しかし、翁長新知事が、こんな簡単なことを理解できるかどうかが、おおいに問題でして、期待をもって注視したいと思います。
中国の影響
- 2014/11/16の知事選挙で、新しく沖縄知事に選ばれた翁長雄志〔おなが〕が那覇市長時代に中国福建省福州市の名誉市民になっていることは知られています。それにもかかわらず中国共産党の不法・無法ぶりに言及できたら、これは立派な人だと思いますが、残念ながら翁長はそんなことができる人物ではなさそう。
- 市と市との友好関係はいいとして、いっときの市長に過ぎない翁長が受けた名誉市民という称号が、沖縄県知事になっても続くのかどうか。
- 名誉市民の「称号」が足かせになって、中国に何も言えない低レベルの知事であり続けるのかどうか、手腕の見せ所ですね。
- 沖縄に中国文化の影響が強いのは確かですが、それが大昔の中国の影響であると理解している人は少ないようです。今の中国共産党のひどさについては、わかっていても知らないふりをするほうが楽なのでした。
- 沖縄にも中国共産党に不満をもつ人はたくさんいますが、それでも中国に何も言えない状況をみて、私は「沖縄に幸(さち)あれ」とただ祈るばかりです(笑)。
- 私は、「沖縄の平和宣言を逆手に取っているのが中国」であることを、理解しています。そして中国に「逆手に取られている」ことも沖縄人はわかっています。中国の無頼さに触れてしまうと、沖縄の平和宣言に反するのではないか、と恐れていることも知っています。私は、しかし今の状態で沖縄に米軍基地がなくなると、中国はチベットのようにじわじわと沖縄を自国領土にしてしまい、すぐに武力鎮圧するだろうことも、知っています。それでも沖縄の人は何も言えないのです。沖縄に言論の自由がないとするゆえんです。
- この沖縄の姿勢が、日本全体の多くの国民からは、沖縄が反米親中に見えてしまうのですね。沖縄が法治国家である日本の一員ならば、法律が機能していない中国がめちゃくちゃなことをしている昨今、これについて何かを発信しなければいけません。もしそれが出来れば、多くの日本国民が沖縄に賛同し始めますが、沖縄の人の多くは、中国人が何をするかわからないからこそ中国を刺激してはいけないというレベルに留まっているようです。
- こういう深刻な矛盾をかかえているのが、沖縄なのです。
- 「平和国家」チベットが、いつの間にか中国に占領されてしまい、いつの間にか「中国チベット自治区」になってきました。「自治区」になって初めて「自治」がなくなった、と言うのは黒い冗談。
- 沖縄が「中国琉球自治区」などになってしまっては、自治権などもちろんないし、「オスプレーはんた~い」などと叫んでも逮捕されなかった日本時代が懐かしく回顧されることでしょう。中国の支配下では、人権など無視、何でも武力弾圧、中国共産党に反対の意見を公表するだけで逮捕・拘束・粛正されます。そんな時、ああ、沖縄の平和宣言はどこへ行ってしまったのか、と後悔するのかも。
- 沖縄が「平和」「不戦の誓い」を大声で叫ぶことに大切な意義がありますが、その「平和」を実現するために、何をすればいいか、何を発言したらいいのか、どう行動すべきか、を時すでに遅しかも知れませんが、今こそ示すべきでしょうか。中国の言動に、まったく触れない、で済まされないと思う次第です。
沖縄には、韓国ほどではないとしても、日本の他のどの地域よりも儒教が社会全体に深く浸透していて、なかなか親や上司や社会と異なる意見をもてないようです。現状維持・冒険禁止・序列重視を大切にする儒教とはこのように、無言の圧力をかけ、言論を封殺するのに役立っています。
その代りこの社会的な圧力に従う人なら、悪いようにいはしない、昔からの「ゆい(結)」で助け合いましょう、ということ。
この社会的な圧力に逆らうと、とんでもないことになります。言論の自由とは、かくも重いことなのですね。
一番中国に近く儒教精神が浸透している沖縄だからこそ、今の中国が見えていないのでしょうか。
(2) 沖縄のマスメディア
この儒教精神を巧みに利用して、しばしば反基地キャンペーンをはり、決して異論を許さないという、まるで韓国か中国のマスメディアのような姿勢を見せるのが、沖縄マスメディアの特徴で、ここには言論の自由がありません。
上述の通り、読者に新しい視点を与えようとする姿勢をもたない限り、地域の回覧板の役割に留まることでしょう。
(3)沖縄の一般庶民
2通りの人が見られ、マスメディアのキャンペーンに疑問をもたない人と、儒教の締め付けて表では本音を言わないけれども親しい人たちの間では平気で反マスメディア・反中国の意見をもつ人、に分けられます。
以上が、内地の人が日常にかまけて忙しくしていて、たまに沖縄のニュースを見ている程度では、なかなかわかりにくい沖縄の実情と言えます。
さてこれから沖縄は、どう歩んでゆくのでしょうね。