本人が否定しようが、肯定しようが、誰にも醜聞があります。
ここでは最近の「中国の醜聞」を集めてみました。必要な方のために出典も明示し、あればリンクも用意しています。
日本が中国から取り入れなかった制度として、次が知られています。
この他の宗教や社会制度などでは、限定的に日本に取り入れられたものがあり、日本的なものへ変質せざるを得なかったのも多く見られます。
今回は「科挙」についてのお話です。
もちろん六朝から5代にかけて、「三武一宗」の破仏もあり、また儒者が皆殺しされ、あるいはもっと後の、モンゴル人の元の時代のように儒者が娼婦と乞食の間の9番目の社会階級に落とされ、科挙廃止の時代もあった。:P.42-43 黄文雄「儒禍 中国2000年の呪縛」光文社
20世紀に入って、とうとう科挙制度が廃止(1905年)され、儒家は最大の後ろ盾を失い、54の新文化運動では儒教は「打倒孔家店」のかけ声とともに封建的思想とされ、さらに文化大革命の「批林批孔」運動で、大打撃を受けた。:P.191 黄文雄「儒禍 中国2000年の呪縛」光文社
科挙(かきょ)とは、中国で598年~1905年、即ち隋から清の時代まで、約1300年も行われた官僚登用試験である。:Wikipedia
実際には
元の時代でも、完全に「科挙」制度がなかったというわけではなく、一時期停止した時代があったとのことです。
かすかに存続したようですが、「なかった」と言えるほどの「元王朝」だと言えましょうか。
そして中国最後の王朝「清」〔1644-1912〕の末期1905年に科挙は廃止されたようです。
しかし、あまりにも遅すぎた・・・・・・。
長すぎる儒教の影響で
「暗記することが学問」と信じ込んでしまい、必然的に現実から遊離して空虚な発展をしてきました。民衆のことなどを考えるはずがありません。
この結果、現代に至ってもまだ現状を直視できないままで、よって画期的な発明からほど遠いのが、中国・韓国の現状です。なぜ歴史や現状を「直視できない」のか、その謎がわかりそうですね。
自分で自分のことを「直視できない」、つまり鏡で自分の姿を見ようとしないからこそ、外から見ると「自分の恥部を隠そうとして他者を攻撃したがる」ように見えてしまうのです。
「暗記こそ学問」というのは、儒教圏だけで有効な考えであり、改善が許されていないことを如実に示していて、そこで「国家による強制的な洗脳」が大きな役割をはたしています。
上記は今でも、韓国は言うにおよばず、中国でもまるで「当然」のような真実のように推移しています。これをなくすのは相当たいへんなようで、少なくともあと100年はかかりそうです。
そういう儒教圏で発達したのは、
相手の目をくらます「だましのテクニック」だけで、孫子の兵法などは、今でも役に立つことがあるとは言え、「その手」のテクニック集そのもの。
薬物隠蔽工作など目くらまし戦術以外の何物でもありませんね。
中国・韓国に限らず日本でも、「暗記の量が勝敗の分かれ目だ」と信じている人がいるのではないでしょうか。
実際の難問に直面して、どう解決するかが実力ですが、それを「判定」する方法がとても難しいため、日本の「試験」では安易に「分りやすい知識の量で選抜」してしまうのです。
その方が「公平」だろうとするのですが、それが「やる気を失わせている一因」であることに気づいている人がどのくらいいるのか・・・・・・。
しんどいかも知れませんが、出題者さえ想定していなかった立派な回答があり得るような試験問題が望ましいと思うのですが・・・・・・。
卒業よりも入学が大変な制度と、入学よりも卒業が大変な制度の、どちらが重要なのでしょうね。
確かに、あるレベル以下では、科挙の例に見られるような「暗記の量」に左右されてしまうことがあり、資格を取りさえすればあとは楽なのでしょうが、それが腐敗の温床になってしまうのです。
教員などの定期的な免許更新制度は、それを避けようとするものでしょう。〔教員の免許更新制度〕
一言では言えませんが、大いに考えさせられます。
卒業を重要視するには、学内の制度がしっかり機能しなければならず、これが少数精鋭につながり必然的に学費が高騰します。アメリカの大学の授業料が高すぎると言われるゆえんです。
授業料が安いけれども「平等をうたい」大量入学させて「ところてん」のように大量卒業させるのと、少数精鋭をめざすため高い授業料になり「階級社会」になるのと、どちらがいいのでしょうか。
話は戻りますが
画期的な発明をするには「現状に疑問をもつ」ことが必須であり、儒教精神のもと「改善を禁止された人たちが画期的な発明をする」などあり得ないのでした。
繰り返しになりますが
「改善」というのは支配層にとって大変危険な「思想」ですから、支配層が儒者や民衆に「改善」を禁じたのは自然でした。
よってそんな儒教社会で、新しい学問や思想など芽生えるはずがなく、これが民衆にも広く行き渡ったため、支配者たちにとってはとても安全な時代だったと言えます。
「安全」と言いましたが、「支配者に取って安全な」社会を目指して作りあげた「改善禁止」の社会ですから、当然「安全」だったのかも知れません。
しかし被支配層にとっては、この上なく迷惑で危険な制度で、進歩の芽を摘み取られたのでした。韓国の反日は、実は韓国内での「支配者層」と「被支配者層」との戦いをあらわしています。今の支配者層の独占が続く限り、この国に明日はない、と言えます。
今なお中国・韓国が
- 発展途上にあるのは、この儒教の「改善禁止」の名残が深く残っているからでしょう。その光景があらゆるところに見られます。
- 改善を禁じられたので、必然的に「パクリ精神」が発達します。パクリで知られている両国で著作権に関する理解が遅々として進まないのは、決して偶然ではなかったのです。
とはいえ、あと100年後にはどうなっているか分かりません。というのは、ひょっとすれば彼らも改心して、少しはマシになる「恐れ」があるからです(笑)。
科挙制度を
讃美するほどではないとしても、妙に「高度」な制度だとヨイショする人たちが、日本にも見られます。
一般には科挙試験は「広範囲にわたる暗記物」であり、支配層にとって便利な制度だったという点に触れていないところが多い、そのような印象です。
科挙:中国の隋に始まり、唐で発展し、宋で変質しながら、清まで継承された官吏登用制度。〔こちら〕
昔の中国の役人登用で科挙というのがあったそうですが〔知恵袋〕
さてさて、皆様はどう思われますか。